停止の懇願
おこがましい、のだろうか。みんなが幸せになるという理想を願うことが。
ルーシィには分からない。納得できない。だから、反発する。
「あたしは、そういう風には思えません。誰かのために誰かが犠牲になるなんて、間違ってます」
「うふふ、素敵。私にはできない思考ですわ。若々しくて、瑞々しくて、きらきらして。まるでエメラルドですわ」
アンの左下の手が、ルーシィの頬に添えられる。少し指を震わせれば眼球を突いてしまいそうな位置で。
「隣の芝は青く潤沢に見えますわ。
ねえルーシィ様、お願いですわ。貴女くらいは、ずっと、そのままの思想を保ってくださいね」
「……何が、言いたいんですか?」
相も変わらず説明不足だ。
思想は、編纂されていくものだ。他人との関わりや自身の経験によって、果てしなく成長していくものだ。
ルーシィ自身、目覚めてからの僅かな期間で、変化したと自覚するものはたくさんある。アンへのやりきれない思い、衣華を待つ心許なさ、吸血鬼のための悲しみ、記憶の喪失による不安とその緩和。それらはこれからも次々に継ぎ足され、紡ぎ出されて新たな自分の一部になるはずだ。
ずっと変わらないだなんて、そんなことは有り得ない。そんなことは、分かりきったことなのに。
鏡に映ったアンが表情を陰らせる。痛みを堪えるような悲しさを伴って。
「ルーシィ様、QOLってご存知ですか?」
「きゅう……すみません、分からないです」
「Quality Of Life、頭文字をとってQOL。人生は質が重要ということですわ。満たされた人生は何ものにも代え難いですもの」
「なんだか壮大というか、高尚な話ですね」
「いいえ、とんでもございませんわ。要するに、人生では誰もが幸福であるべきなんですの」
言っていることがちぐはぐだ。最前、衣華以外はどうでもいいと言った口で、皆の幸せを肯定する。どうしてだろう。
上目でそっとアンを窺えば、疲弊の滲んだ笑顔を向けられる。
ルーシィはふと思う。果たして、彼女は今幸せなのだろうか。
「家族や友人に囲まれて、美しいものを見て、健康で、美味しいものを食べて、自分を必要としてくれる誰かと触れ合って、成し遂げて、楽しいことをして。
異論もあるでしょうけれど、私は、そういうものの積み重ねで人生の質が向上すると思っておりますの」
「そう、ですね。あたしも、異論はありません」
「では、それらを理不尽に制限されたらどうします?」
「それ、は……」
それは、自身のことなのか。
ただ一人で人形をつくり、家を改装し続ける自分の。
「助けて欲しいと思いますわよね」
今にも泣き出しそうなくらい表情を歪ませて、アンはルーシィの髪に顔をうずめた。
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