忘却の需要

会話が途切れる。
アンは透明な筒に針を刺し、それを介して別の容器から赤い靄のような何かを吸い取った。まるで注射器だ。

今、聞くべきだろうか。わずかな逡巡の後、ルーシィは意を決する。聞かなければ。彼の為にも、自分の為にも。

自分の知らない自分があるというのは、ひどく不安定だ。
忘れてしまったその中に、忘れてはならない何かがあるかも知れないのだから。

「アンさんは、何も忘れてないんですよね」

「……ええ」

アンはそう答えると、別の容器から次々に、あらゆる色の中身を吸い取っていった。赤に黒が混じり、無色が入って霞のように薄くなり、更に赤が加わって、ひどく不規則に揺らめきはじめる。

不思議な光景だった。細く透明な容器の中で、気体とも液体ともつかない物質が、さながら小さな嵐のように混じり合って荒れ狂う。朝の光を浴びてきらめくそれが、生物なのかそうでないのかも分からない。存在すらも曖昧だ。

「だったら、この街に来る前のことも、覚えているんですか?」

「ええ、勿論ですわ。私は忘れる必要がございませんもの」

注射器に酷似した筒を片手に、アンは鏡台の椅子をひいてルーシィを座らせる。
されるがままに応じながらも、ルーシィはアンから目をそらさない。

「人間、だったんですか?」

「ええ。それにしても、ルーシィ様がまさかそこまで気付いていらっしゃるだなんて。私、なんだか誇らしいですわ」

実際は、自ら気付いたのではない。ほとんど白式尉に教わったようなものだ。
ルーシィはサリーで、サリーは衣華の祖母で、衣華は人間。そう聞いている。

「じゃあ、他の方のことも、知っているんですか?」

「それは何とも言えませんわ。皆さん、記憶が混濁したり、外見が変容したりしていますもの。勿論私も、おそらく、あの吸血鬼も」

「どうして、アンさんだけは……」

「いいえ。私だけではございませんわ」

不意に、アンは持っていた注射器擬きの針を、ルーシィの首に突き刺した。躊躇なく、人間ならば頸動脈と呼ばれる部位へ。
しかし、感覚が緩慢な人形は、何も感じることなく黙って座って考え込む。




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あきゅろす。
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