彼の事
「衣華ちゃんに……」
それは、いい考えなのかも知れない。
折角五感が得られたのだから、味覚も活用してみればいい。
そう思う反面、止した方がいいとも思う。
なぜなら、いつか衣華が「こちらで仲良くしてしまうと、あちらに帰りたくなくなる」と言っていたからだ。
彼女はバルトと久田義経を同一だと思っている。
五感を通して得られる快楽をこちらで多く経験してしまうと、いっそのこと、五感を正しく得られる夢の中に永住すると言い出してしまうかも知れない。
確かにこちらには父母がいる、記憶も実感もないが祖母もいる。
不思議な住人も沢山いる。
けれど、久田義経はいないのだ。
衣華は、いると思っているようだが。
「だから次にあの子が来たらここに連れて来て欲しいんだ」
「でも……」
「嫌なの?意外だな君は断らないと思ってたんだけどもしかして誰かに妙な入れ知恵された?例えばディルとか或いは虎とか」
バルトの声は相変わらず坦々としていて、冷たい。
氷のような冷たさではなく、金属のような、無機質で硬質な冷徹さ。
「虎?」
どうしてその名前が出て来るのだろう。ルーシィは首を傾げる。
そう言えば、あの虎はバルトをひどく嫌っていたような気がする。
同様に、バルトも虎を嫌っているのだろうか。
「ああ失敗しちゃったな。やっぱり真っ先に君をここに連れて来ていればよかったのかなあんな実験台に毒される前にさ」
「実験台?誰のこと?」
「そうか君には一々全部説明しなきゃならないんだね面倒だなあ実験台っていうのはあの役立たずの吸血鬼のことだよ」
バルトは本当に面倒臭そうに、だらだらと惰性で説明する。
ショートケーキに蓋を被せ、鳴り続けるレコードを意にも介さず喋り続ける。
「だってあの立場はあれじゃなくてもいいんだからね。他の連中はいるべくしてそこにいるけどあの実験台の役割だけは別に誰でもいいんだよ」
「でも、アンさんは、役割をこなしてるのが偶々自分なだけだって言ってたわ」
「悪いけどあれが務まるのは世界で唯一あの女だけだよ。蜘蛛女も獅子舞も鶴女房も虎屏風も、それぞれあいつらだからこそあの役割を果たせるんだ」
「?あの虎も、常駐組なの?」
バルトの口ぶりからするに、そうとしか思えない。
だが、アンの明かした常駐組メンバーに彼の名は入っていなかった。
果たして、呪いだと言いながら常駐組の肉体を創造する彼女が、自身の作品を数え間違えたりするだろうか?
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