名前が苛む


「時沢紗英って名前に心当たりはあるか?」

「知らない。……誰、なの?」

それはきっと、彼が求める女性の名前。
分かっていながら、勘付いていながら、それでもルーシィは尋ねてしまう。

あやふやなまま、不安と不満に苛まれながら漠然とその名前を忌み続けることは、いつ終わるとも知れない夢の世界で、現実世界を忌み続けることに他ならないから。

「お前と同じ顔の女だ。知らねえ、か。そうか、別人なんだろうな」

吸血鬼は、そう言って息を吐く。

失望だろうか、落胆だろうか。
ルーシィは招き猫を握り締め、怯えた眼差しを彼に向ける。

だが、彼が立ち上がってしまうと、顔色を窺うことはできなくなった。
見えるのは、張りのある黒いマントの生地、上品な革靴。

「ほら、俯くな。お前はルーシィなんだろ?だったら、それでいいじゃねえか」

大きな両手に顔を包み込まれ、上向かされる少女人形。
吸血鬼は穏やかな微笑みと切なげな瞳で彼女を見詰め、親指の腹で蝋のような頬を摩った。

「……ごめん、なさい」

ルーシィは震える声で詫びる。

どうして自分が謝るのかも分からぬまま、ひどい混乱に身を任せ、冷涼で極端に美しい吸血鬼の青い目を見据えて、囁くように訴える。

「もう、分からないの。ねえ、あたしは、衣華ちゃんのおばあちゃんになればいいの?獅子舞のお母さんになればいいの?
それとも、あなたの好きな女の子になればいいの?」

「ルーシィ」

吸血鬼は彼女の頬を撫で、髪を梳き、名前を呼ぶ。それでも、苦痛を叫ぶ悲痛な言葉は途切れない。

おそらく、限界だったのだ。
心当たりのない人物と同一視され、その度に、自身の記憶の喪失と、それによる誰かの落胆を突き付けられることが。

「あたしは誰の代わりとして、誰のために、誰の期待に応えるのが一番正しいの?」

「それは――」

吸血鬼は、錯乱と判明の直前に聞いたバルトの言葉を思い出す。

あれを信じるならば、ルーシィは、衣華の祖母ではない。サリーですらないかも知れない。
そして当然ながら、時沢紗英でもない。
訳が分からない。

宝石のような瞳から溢れる涙が彼の指を濡らし、彼女が瞬きするたびに、人形じみた睫毛から透明な雫が弾け飛ぶ。

「本当のあたしは、誰?」

誰なのだろう。
温もりのある人形の肉体で、痛ましいほどヒステリックに喚きたてる彼女は。




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