仮)森本陽呂の受難
1.
「……くん……森本くんっ」
「えっ、あ……え?」
呼び声に気付き顔を上げると、前の席の谷山が振り返って左手を突きだしていた。授業の間中ずっと上の空だった俺は、その手の意味がわからず首を傾げた。
谷山は困ったように眉を下げ「それ」と俺の机にあるプリントを指した。
「前に回してだって」
「あっ……ごめん」
俺は慌ててプリントを渡す。
「大丈夫?」
「え?……うん。ははっ」
谷山の訝しげな視線に、俺は乾いた笑いを返し「大丈夫」と呟いた。
本当は、全然大丈夫なんかじゃなかった。
朝から授業にまったく身が入らず、珍しくクラスのやつから話しかけられたというのに気の聞いた返事一つ返せない。もう五時限目だというのに、ずっとこんな調子だった。
「はぁ……」
あれから大分時間が経つというのに、俺の体は、まだ熱に浮かされたように疼いていた。腫れた乳首がシャツに擦れる度、あのジンとした感覚が蘇る。
(一体、俺の体はどうなってんだよ……)
チャイムが鳴ったと同時に机に突っ伏した。
目を閉じると、瞼の裏に浮かんでくるのは……。
「陽呂」
「わぁっ!!」
耳元で突如響いた声に、俺は机ごと飛び上がった。
「は? なんだよ、大袈裟だな」
「いや、ははは……」
いつの間に前の席へ座ったのか眉間に皺を寄せた隼人が覗き込むように顔を近づけてくる。俺は隼人の目を直視することが出来ずに逃げるように視線を泳がせた。
「おまえ、今日おかしいぞ?」
「ええ? 何がだよっ」
隠し事をしている後ろめたさに声が上擦る。
「顔が赤い……。やっぱ熱あるんじゃねーの? 朝からボーッとしてるし」
俺の額に手を当てて心配そうに見つめる隼人にズキリと胸が痛んだ。
あの後、俺は長い間ベンチに座り込んでいた。
ゆるゆるとした熱は一向に引かず体もだるかった。もういっそ、このまま休んでしまおうかとも思ったが、隼人から「時間ずらしたか?」「あれ? 遅くね?」「どうした? なにかあったのか?」と、しつこくLINEが送られてくるもんだから、重い体を引きずってでも登校したのだ。
教室に入ると案の定、すぐに隼人は飛んできた。
心配そうな顔で「何かあったのか?」と聞かれ、俺はつい「いや、気分悪くてさ」と嘘をついてしまった。
また痴漢されただなんて言えなかった。
男としてのプライドや、単に恥ずかしさもあった。だがそれ以上に、それを知ったときの隼人の反応が恐かった。
触られるだけならまだしも、男に……イカされたなんて知れたら、ただでさえ過干渉気味なのに、さらに過保護になってしまう。
それに絶対「一緒に登校しよう」と言いだすに決まってる。隼人の朝練の時間に合わせたら五時前には起きなきゃならなくなる。そんなの、いくらなんでも耐えられない。
「陽呂、次の体育休めよ?」
気づかわし気に頭を撫でる暖かく大きな手。いつもは心地よく感じるソレが今はただ罪悪感を煽る。
本当はウザいだなんて思ってない。
ただ昔に、一度だけ見せた顔。変質者に攫われかけた時の、あの隼人の泣きそうに歪んだ顔を、俺はもう二度と見たくなかった――――。
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