黒の誓い
5
煙りが、消えていく。
散らばる燃え滓に、新しく抜け殻が落ちる。
ゆっくりとまだ新しい、綺麗な白い毒を摘み火をつけた。
ゆらゆらと消えていく煙り。
ジジッと灰になっていく毒。
吸い込めば広がる苦み。まずくて、どこか満たされていく。
開け放った窓から月がのぞいた。鮮烈な光のそれに、煙草の明かりは掻き消される。
風のない夜、白い煙りが消えていくのを見つめていく。
煙草の命を燃やして灰になったそれをばらまいた。
目を閉じれば日中の騒動が蘇った。
笑って笑って笑って。
そうだ。
あれは本望だった。
この手が出来ることをしただけ。
またひとつ、燃え尽きた。
呆気ない一生。
自分たちから見れば人間の一生だってこんなものだ。
それでも彼は幸せなのだろう。
出会わなかったよりずっといい。知らないより生々しい傷を残してくれたほうがずっといい。
「……ふぅ」
そう。たとえ私の心に深い火傷を残していかれたとしても。
彼が笑わないよりずっといい。
きれいごとは嫌いだった。
でも、あの人が幸せならそれでいいと思う。
夜の闇を有したあの方を、幸せに出来るのが己ではないのなら、出来る者に委ねるのは必然。
「……」
夜が明けたら、全ては元通り。
深く煙りを吸い込んで、吐き出した。
この心を闇に溶かすため。
忠誠を忘れないため。
最初から背中しか見せてくれず誰も立てなかった、その隣に立つ人を守るため。
「……」
くしゃり、と煙草を握り潰した。
全てを灰にするのはまだ早い。
風がない欝陶しい夜。
窓に寄り掛かって空を見続けた。
私の愛した方は、闇に溶けた。
あそこにまだいるだろうか。
いたとしても、伸ばす手はないけれど。
ああ、風が欲しい。
月と夜が寄り添った今、この心に吹き抜ける風が。
「…」
最後の一本に火を点ける。
伸ばすことすら許されなかった手は見るだけだった背中を押した。
心は何千回目の叫びをあげた。
『ヴァルディス様がやっと笑ってくださいました(私が貴方を笑わせて差し上げたかった)』
『己が制御できない、守りたい、傍にいたい(私はもうずっと、そうでした)』
『ヴァルディス様なら先程出て行かれましたが(あの方に求められるのは私でありたかった)』
『好きなんでしょう!レオニクス様が!(私は貴方をずっと好きでした)』
それは誰も知らないまま、葬られた私の心。
この煙草が燃え尽きたら、忘れられるだろう。
「好きでした…ヴァルディス様……」
初めて音にした想いは、煙りに紛れて消えた。
煙りが目にしみるのだと言い聞かせて、最後の想いを雫に乗せる。
煙草はいつの間にか消えていた。
□■□■
ふと、ハレスの部屋から煙草の香がした。
宿屋を取り直してハレスと我は別々の部屋を与えられたが、落ち着かない。
それで窓を開けたら、煙草の香がしたのだ。
ハレスは煙草は嗜まないはず。
どうしたのだろうか。
昼間は変わらず笑っていた。
主たちが恋仲になって、あの盛大かつ恥ずかしい告白をからかった。
それから各々引き上げて今は寝静まっている。
こんな夜中に起きているのだろうか。
気になった我はそっと扉を開けた。
廊下に出て、ハレスの部屋をノックする。(前足でがりがりと引っかくのだ)
しかし反応がない。
不審に思って数回繰り返したがやはり反応はなかった。
いよいよおかしい。
器用に扉を開けた瞬間、凄まじい煙草くささに襲われた。
失神するかと思ったほどだ。
『ハレス』
真っ暗な室内に、窓から差し込む月明かりが眩しい。
その月光を浴びるように窓の下にもたれ片膝を立ててハレスは眠っていた。
散乱した大量の煙草の吸い殻に囲まれてぴくりともせずに眠っている。
その姿は幻想的で美しかった。
しばらく見とれずにはいられぬくらい、美しかった光景。
触れたくなって、足音を潜めて近付く。
白い頬に伝った跡を見て、何となく『ああ』と思ってしまった。
ハレスの、想いの墓場だったのか。
死んだ光に殺された、想いの。
気付いてはいなかった。でも納得できた。
ハレスの想いは死んだ。我の主に殺されるためにハレスは差し出した。
それが、ハレスの竜への想いだったのだろう。
どれだけ苦しかっただろう。二律背反の想いをどれだけ抱えていたのだろう。
その想いの亡きがらは、酷く神聖なものに見えた。
この間の涙は忠誠よりもたらされたものだった。
ここで一人流していたこれは、恐らく殺された痛み。
浄化するための儀式。
祈ろう。
ハレスの想いに、祈りを捧げよう。
頭を垂れて目を閉じる。
死んだように眠るハレスは本当に死んだのだと思った。目を覚まさないかもしれないと思った。
しかしそれは違うとも知っていた。
ハレスは、命にかえても竜や主を守ろうとするだろうから、こんな処で死んだりしない。
『…神よ』
せめてこの哀しい竜に安らかな眠りを与えたまえ。
ハレスがよく求めたように、暑いのに冷え切った体に身を寄せた。
この男にせめて安らかに眠って欲しい。
きっと明日には何も無かったように笑うのだろう。
だから我も、夜明けたら、全て忘れよう。
今はただ亡きがらに寄り添って祈る。
その亡きがらが、息を吹き返すまで。
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