黒の誓い
12
燈籠でレオニクスたちが騒いでいる頃、クロノス魔界の拠点の屋敷内。
昼間のやり取りを思い出し、ハレスは深く息を吐いた。明日には魔界の門が本格的に開き、魔界軍はタナトス・ルースへ展開する。明後日には陣営も完成するだろう。明後日、ハレスも合流し、明明後日には開戦だ。
明後日までに、チビを処分しなければならない。今もよじ登っては跳ね除けられ、また膝へよじ登ってくるこのチビを。
「――チビ」
大きなくりくりとした眼。小さな体。黒竜族の赤ん坊そのもの。
「――お前、本当にスパイなのですか」
『ピギャー(お父さん!)』
「なるほど、私が父親だと刷り込まれたのですね。…チビ、おいで」
もしクローン技術で造られたとしたら母親も父親も無く、このためだけに生まれたことになる。シリウス最高神の偉大なる力の片鱗に手をかけた人間達の、技術の結晶。
禁忌の術。踏み込んではならない領域。その産物。
ハレスはチビに手を伸ばした。膝にのるチビを抱き上げる。
「お前は、私の情報をリアルタイムで送っているのですか?それとも、溜め込んで後で報告を?」
『ペギャ?(とうしゃん?)』
「どうやらスパイだという意識は持たされていないようですね・・・ますますやりにくい」
チビは純真な目でハレスを見つめていた。初めて抱きしめられたことが嬉しいらしい。
『ぴぎゃっ!』
するっと腕から抜けて鼻歌らしきものを口ずさみながらパタパタと羽を動かして膝から降りた。
しかしまだうまく飛べないはずである。慌ててハレスが捕まえる前にチビはテーブルの足に激突し、倒れたカップから熱いコーヒーを被ってしまった。
みるみる大きな眼に涙がたまるのをハレスは泣きたい気持ちで見ていた。そして予想を外れず、けたたましい泣き声があがる。
熱さゆえかめちゃくちゃに走り回りだしたチビはコーヒーを撒き散らし高級絨毯にシミをつけていく。コントロールがまだ出来ない身体は壁にぶつかりソファにぶつかり本は雪崩を起こしシャンデリアは割れてしまった。ハレスはこの一分にも満たない間に起きた惨状に目を手で覆い、本気で泣きたくなった。
『ぴぎゃあああああああああ!!!!』
『どうしたのだチビ…なんだこの部屋は!?』
「あ、ディシスさん…ははは、何なんでしょうねえ」
物音に慌てて駆けつけたディシスは憔悴しているハレスと泣き喚きながら走り回るチビを見てとりあえずチビの捕獲に向かった。
ハレスはとにかくカップを片付け、コーヒーの沁み込んだ絨毯を見てため息をついた。魔術は攻撃や防御関係、結界くらいしかない。こういうときの魔術があればよかったのに、と嘆いた。
そしてバタバタと追いかけっこを続ける婚約者とチビを見て肩を落とし、チビの進行方向に立ちふさがった。急な方向転換は出来ないチビはハレスに激突する寸前にひょいっと持ち上げられる。
「お風呂に入れてあげますから、泣き止みなさい」
『ピギャーーー(おとうしゃんん!!)』
『ぜえっぜえっ。ハレス…チビは…』
「――お風呂に、入れてきますね」
コーヒー臭いチビをつまんでバスルームへ向かう後姿を見てディシスは首を傾げた。
あれほど疎んでいたがここ数日で態度が軟化している。ああしてみるとまるで親子だ。
遮るように出て行ってしまったがディシスが言いたかったのは違うことだ。チビは、お風呂が嫌いだと、教えておきたかっただけなのに。
『――あがってきたら夕食にするか』
バスルームから響いてくるチビの喚き声に苦笑して、ディシスは夕食を用意しに向かった。
一方バスルーム。
かけ湯をした瞬間暴れたチビにぐっしょりと制服を濡らされたハレスは青筋が浮かびそうになるこめかみをおさえて服を脱いだ。
多少乱雑に放り投げる。じたばたと暴れるチビを押さえつけてお湯を掛け続けた。
『ヒギャアアア(いやあああ!)』
「大人しくなさい」
『ぴきぴいぴい!!(みずこわいいい)』
石鹸を泡立ててチビの体を丹念に洗う。ひっくりかえしたりつまみ上げたりと優しくは無かったが痛くもされなかった。ほかほかと温かいお湯で流され、チビはまたもや泣き声をあげた。
べっとりと濡れた翼が重い。革は水を弾くが気持ち悪い。水が怖い。
眼が溶けそうなほど大粒の涙をこれでもかと流すチビに、ついにハレスの堪忍袋の緒がブチ切れた。
「いい加減にしろ!」
『ひぅ!』
浴室を揺るがすほどの一声。
チビはびくぅっと身を竦ませぴたり、と泣き止んだ。
「どのような生まれであれ黒竜族の雄に生まれた以上簡単に泣いてはなりません。そのように怯えて逃げてはならぬのです。強くなれと言ったはず。肉体をいくら鍛えようと精神が強くなければ話しになりません。心を強く持ちなさい。分かりましたね?泣いてはならない、強くなる、逃げない。黒竜族たるもの、これは守らねばならない掟です」
涙をぐぐっとこらえ、チビは頷いた。きっと理解はしていない。また怒られたくないための行動。
けれどそれでいいのだ。理解は後ですればいい。
そこまで考えてハレスはハッと我に返った。
処分の対象に、なんて入れ込みようだろう。これはまずい。
借りてきた猫のように大人しくなったチビを浴室から出して体を拭いてやりながら、ハレスは複雑な心境をやり過ごした。
着替えが無いので変体型に戻って脱衣所を出る。のそのそと廊下を歩きながら頭の上にしがみつくチビに言った。
『ディシスさんにも謝らなくては。割ったり破ったり悪いことです。迷惑をかけたこと、悪いことをしたこと、ちゃんと謝りなさい』
『ぺぎゃ…(はい…)』
しゅん、としたチビを連れてダイニングに顔を出す。
クロノス魔界で獲ったのか、新鮮なシカの死体を床に置いて体を横たえ尻尾を揺らしていたディシスが顔を上げた。ハレスの竜姿に驚きはしたものの、鼻面に圧されてよちよちと向かってくるチビにはもっと驚いた。
うなだれたチビはディシスの前足を見つめた。
『ひぎゃ(ごめんなしゃい)…ぴーぴー(悪いことして)』
『悪いこと?』
『ぴー(壊したり)、ぴーー(引っかいたり…)』
『何だ。ハレスに叱られたか。反省を覚えたのだな。もうよい、顔を上げよ』
ディシスはことさら優しく言った。
ここ数日で情が移ったのはディシスも同じだ。冷たい態度をしていたハレスだって実はほだされていた。おずおずと顔を上げるチビを舐め、ディシスは眼を細めた。
『お腹が空いただろう。もう食えるようだし、シカでも食べよう。本来なら少し置いたほうが美味いのだがな』
『これディシスさんが?』
『うむ』
ディシスは得意げに頷き、鹿の腹に歯を立てた。銀色の毛並みが血に染まる。齧りとった肉をチビに分け与え、自分も食事を始めた。
ハレスも長い鼻面を突っ込んで肉を鋭い歯で噛み千切る。魔力の回復がクロノスでは殆ど出来ないので食事はするに越したことはなかった。
ボルケナにいる分マシだが都などに行ったら魔力が薄くて驚愕物だ。減り続ける魔力。もともとの総量もバカにならないのでそこまで困らないのだが、魔力結界からまだ完全には回復していないハレスは今、食事が必需となっていた。
『ハンティングするディシスさん、素敵ですよ』
『ハレスもだ…。我に獲ってきてくれたときのこと忘れぬ』
『はふはふ』
ハレスは豪快に鹿の足をもぎ取った。バキベキと音が立つのは骨ごと噛み砕いているからだ。
器用に大きく残った骨だけ吐き出し、鹿の尻側の肉に噛み付く。ディシスも腹を食べつくし、胸のほうへ移動していた。
数十分後にはそれこそ骨しか残らなくなった鹿がいてハレスがそれを凍らせ細かく砕いて処理した。
血で汚れた口周りを綺麗にしてハレスは悠々と横たわった。
腹にもたれかかるチビを退ける。しかし懲りずにやってくる。その攻防を三回ほど繰り返し折れたのはハレスだった。
数分が経ち、綺麗に毛皮を洗って戻ってきたディシスは昼寝するハレスとチビを見つけ、頬を緩めてその輪に加わるべく、静かに近づいたのだった。
■■□□
ヴァルディスを放置していた二時間の間に火山の火口に入ってほしいという約束を取り付けたレオニクスはご満悦だった。
放置していたことを怒るでもなく、自分は自分で雄が雌の心を持つという不可解な現象について仮説を立てたりしていたヴァルディスを書庫室で見つけ、談話室へ連れてきたのだ。
そして今現在、ヴァルディスはシャンの前に正座していた。ピシッとした姿勢で、手を床に付く。
「ご子息を私の妻に迎え入れたい。我が力の全てをもってして、レオニクスを害する全てのものから守ると誓う。ご子息を幸せにする。私と、ご子息の婚姻をお許し願う」
そして深く頭を下げた。跪き、頭を下げるなど殆どしたことがない。
シャンはじっと見据えていたがレオニクスが「俺もヴァルディスと結婚したいんだ。お願い!」と頭を下げると息をついた。
「黒竜王――頭を上げな。俺に頭を下げるべき立場の奴じゃねえだろ。許すもなにも、この激動の数ヶ月レオンを守ってきたのは黒竜王、貴方だ。不甲斐ない親父の俺が頭を下げ、礼を言うべき立場。レオンを幸せにしてやってくれ、そしてたまには里帰りさせてくれよ。最初は面食らったがレオンはいい相手とめぐり合えたみたいだな」
ヴァルディスは顔を上げた。立ち上がり、シャンと握手する。
「感謝する。燈籠のボスよ」
「ありがと父さん!」
「おめでたいな〜。よーし、今日から黒竜王もファミリーだ、祝杯あげっぞ〜」
「凄くね?黒竜王がファミリーとか凄くね?」
「煩いですよエドヴィン先輩。祝杯ってワインでいいんですか」
「ちょっと見直しちゃったよ。かっこいい〜。あ、クロ、それワインじゃなくてロゼだから」
「お祝いのお食事つくらなきゃ!行くわよエレナ!!」
「食後のデザートは任せてねん。待ってよアッティ!」
途端に今まで静かにしていた幹部たちがわいわいと騒ぎ出した。リーがシャンの肘掛に腰掛け、グラスを挙げるとエドヴィンが興奮気味にヴァルディスの周りを飛び跳ねる。それに嫌味を言いながらクロがボトルをあけ、チャンホウが冷静にツッコミを入れた。慌しく出て行った双子を見送り、ヴァルディスとレオニクスはソファに座らせられた。
「明日にはタナトス・ルースへ向かうんだろ。今夜は泊まっていけよ」
「リー兄ちゃん、そうするよ」
レオニクスからするりと出た呼び名に一瞬古参のものたちは体を強張らせた。「おかしなこと言った?」と首を傾げるレオニクスの頭をぐしゃぐしゃと撫で、リーは本当に嬉しそうに笑った。
「おう、相変わらずだな!」
「ねえねえ俺は!?俺はどう!!?」
身を乗り出さんばかりに詰め寄るエドヴィンにレオニクスは急激に記憶が蘇ってくるのを感じた。
深く被ったフード、青い髪。小柄で華奢なこの子と、よく遊んでいた。
「エド、エド!うわー今急に思い出した!!」
「やったーー!レオ〜!!」
エドヴィンはがばっと抱きつく。さすがは猫、テーブルなどものともしない跳躍だ。
ひらりとその衝撃をかわしたヴァルディスは隣りでわいわいと騒ぐのを微笑ましく思いながらシャンに向き直った。
「あれから我が父と会ったか」
「いや。シリウスって最高神シリウスのことだったんだな。創造神つったら神々のトップじゃねえか。あんなにホイホイ出てきたから疑ったぜ」
「あまり地位というものを気にしておらぬようだ。何事も諸行無常、いつかは消えゆくと知っている。そなたに情報を与えたのも、ただの遊びでしかあるまい」
「遊びでも何でもかまわねえよ、レオンに会えたんだ」
シャンがグラスをあげる。ヴァルディスもあげた。
「創造神に」
「神の気まぐれに」
カチン、とグラスが鳴る。
ぐいっと酒を飲み干して二人はにやっと笑みを浮かべた。
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