黒の誓い
9
その昔々。
千年ほども前のこと。
力がすべてと言う世界は、何千年何万年も弱肉強食の日々を繰り返し、その中でも特に強力な種族を中心とした組織が点在していた。
その一つ黒竜族率いるローゼンという組織は最大勢力であり、最高神の血を引いた王が即位して百年ほどで魔界は統一された。
町を出れば弱肉強食。本能を失わず理性を失わず高潔な精神と古来よりの誇りを掲げ、黒竜族は君臨していた。
千年のときを経て戻ってきた旧魔界軍は再び魔界を平定。新世代を押さえ込みヴァルディスが玉座に着いた。そして同時に四天王家に選ばれたプロネトウス家当主、ゲオルトの屋敷には、たびたび同じく四天王家タルタト家の当主ジェズが訪れるのだ。
「ゲオルト師」
たおやかな声で羽がふわりと空中に舞うように名を紡ぎ、にっこりと微笑んで見せたジェズは扇を広げて肘置きに体重をかけた。
「本日は珍しいものばかり用意しましたぞ。ゲオルト師のお好みのものを厳正に厳正に、わしがお選び申し上げました。御身のお気に召されましたか」
さらりと流れる前髪。しゃらしゃらと音を立てる髪紐につけられた繊細な飾りはよく見れば花をかたどっている。タルタト家に伝わる茜色の目がにっこりと笑い、眦の赤い化粧が際立った。
雄でありながら雌と見まごう派手な出で立ちはしかし、ジェズによく似合っていた。これがもう亡くしたとはいえかつて妻と子を持っていたと誰が思うだろうかとゲオルトは常々思う。
「ああ。とても、美味いものばかりじゃ。酒も美酒で、相変わらずそちの審美眼は凄いものよ」
「そんな、よろしゅうございます。本当に、御身のお姿はわしの憧れるもの全てをお持ちで。お喜びになられるのが愛おしゅうてなりませぬ」
ずっしりとしていそうな着物を着ていながら軽やかな動きでジェズは身を起こした。
ゲオルトの前にはジェズの持参したものが並べられている。レイゼン山の湧き水で造られた酒や、神の食す牛ともされる鷲牛の干し肉、星隠れのエルフの創ったハープなどだ。どれもゲオルトの好みにぴたりと合っていた。ジェズが訪れるたびに何かを土産にしてくるが、毎回毎回よくまぁ労力がかかっていると思う。
それを労ってもジェズは「好きでしております、どうぞお受け取りになってくださいまし」と言うだけで返礼も何も求めなかった。
「いつもすまぬな。そちも疲れておろうに」
「疲れなど御身のお姿を拝見できるならどこかへ消え去りましょう。もう、ローゼンも大分復興いたしました。相も変わらずお早いお仕事ですね」
「魔術とそれぞれの種族が総出しておるのじゃ。はよう片付くのも当たり前のこと。己の実力ではないだろうよ」
「ご謙遜あらせられますな。御身でなければこれほど早くは進みませぬと王代理も申しておりました」
扇で口元を隠し、ジェズは微笑む。
同年代で同じ階級の貴族の当主同士で丁寧すぎるとも思われるジェズの態度は、遥か昔初対面から変わらないものだった。王と、そしてゲオルトにのみこのように柔らかく、咲き誇る桜の如き態度をとる。ハレスやバスティアンなどジェズにしごき倒された記憶しかない。
尽くしたいという思いからか、ジェズはゲオルトに声を荒げたこともなければ怒ったことも無かった。
「そちも、研究は大分進んだと聞いておる。魔力大樹について、何か目新しいものでもあったかよ」
「全て陛下の予測どおりにございます。わしはその裏打ちをしておりまする。ですが、あまり良い結果は出ませぬなぁ。仕方のないことかもしれませぬが。――それよりもゲオルト師、この良いときにその話は些か無粋でござりまする」
「おう、おう、すまぬジェズ。そちのように己は粋を理解した男ではないのじゃ。気を悪くしたなら謝ろう」
「もう良いのです。のう、御身は今宵如何なる遊びをご所望ですかな?楽でもかき鳴らしましょうか、それとも舞でも披露いたそうか。わしに何でもお言いなさいませ、遊びならばこのタルタト、たれにも負けはいたしませぬ」
ジェズは扇を閉じるとゲオルトに近づいた。
間近に迫って微笑まれるとその色香に飲み込まれそうになる。
壮年ともいえる年齢になっても、変わらず美しいこの男は惜しげもなくその色艶を放出する。ジェズとただならぬ関係になって久しいが、いつもドキリとさせられた。
「遊びは己は苦手じゃ。いつも楽しませてもらっておるが今宵は己が芸を見せてやろう」
「ぬ・・・それはそれはどのようなものをしてくださるのです。わしは楽しみで楽しみでなりませぬなぁ」
「何、己は武骨ゆえ見せられるものといえば武芸か、そちの持参したハープくらいしかないわ。どのような曲が良い、所望はないか」
「御身の弾きたい曲を御聞かせくださいまし。わしはそれが良いのです」
ゲオルトは頷き、ハープを手に取った。
戦場では身の丈もある棍棒を軽々と振り回すゴツゴツとした指が弦を弾くと得もいわれぬ音が滑り出す。少し調整した後流れ出した音楽は、楽の神トートがプロネトウス家に遠い昔に授けたとされる秘曲「創造」である。創造神シリウスにかつて捧げられた曲であり、世界の創造のときに落とされた音色だとされていた。眼を閉じると目にしたこと無い神界の様子が浮かぶようであり、芳しい香りまで漂ってきそうなほどだった。
甘く空気に溶けた音色は草花を咲き乱れさせながら静かに霧散していく。
「創造」という秘曲には裏があり、それはすなわち「性の悦び」も表していると伝わっていた。性行為とは生物が唯一許された神秘なる力であり、神に近づける行為である。その悦びを賛美し歌った曲だ。
ジェズはうっとりと眼を閉じて聞きほれた。何度耳にしても、この感動は薄れることがない。
天上にもこのような楽が流れているのだろうか。そうだとしても、ハープに関してはゲオルトの右に出るものはいまいよ、と心の中で思う。
余韻を残して曲が終わっても、ジェズはしばらく黙っていた。
ことり、とハープが置かれる音がしてようやく眼を開ける。
「よい・・・本当に良い音色でござりました」
「そちの土産に助けられたのよ。良いハープじゃ。よう星隠れのエルフなど見つけたものだ」
「タルタトは元は英知ではなく楽や舞の家。つながりくらいはまだありまする。御身に相応しきものを、と思えば星隠れのハープしかござりませぬ」
「長く生きておるが、まさか眼の黒いうちにこのハープを手に出来るとは思わなかったぞ。さすがじゃジェズ。そちのお陰じゃ、何か礼をしよう」
ジェズは眼を見開き、すぐに伏せてしまった。
扇をバッと広げて顔を隠す。
「でしたら」
「ん?」
また「礼などいらぬ」と言われるかと苦笑していたゲオルトは珍しい言葉にそれを笑みに変えた。
おずおずと言いにくそうなのを促してみる。
「何でも良い。どうじゃ?」
「――でしたら、御身を・・・」
「ん?」
「御身を・・・わしに一晩・・・。夜明けまで、くださいませ」
それは、所謂、閨の誘い。
ゲオルトは笑みを深めた。楽器の礼に、など理由付けしなくとも、端からそのつもりだった。
式典の前から忙しくて三ヶ月以上肌を合わせるどころかこうしてゆっくりと酌み交わすこともなかったのだ。寂しかったのは何もジェズだけではない。
「何もこのような理由付けなどせずとも良い。己の恋人はそちじゃと思っておったのは己だけか?」
「ゲオルト師―――…」
「己はそちのものじゃ、抱きたくば抱けばよいし抱かれたくば抱く。この腕でそちを擁き、その腕で己を擁けばよいのじゃ。己はそれを願い、請うておるのに、無粋じゃぞ、ジェズ」
扇を退ければ腕が伸びてきた。
ふわりと香る香はシリウス様に授けられたという香だろう。抱き寄せられれば安心感に覆われた。
「クロノスへはバスティアンもハレスも行っている。あの小僧たちも随分立派になったものじゃ。王は心配することは何も無い。我々がこうしてひととき逢瀬を愉しんだところで責めるものはたれもいまいよ」
「ああ、もう数日もありませぬなぁ。わしもそう思うのです。たとえヘリオスがまた来ようと今度は負けませぬ。負ける要素がありませぬ。御身のお胸にわしが抱かれても、もう良いのでございますな」
「そちもそう思うのじゃ。王は大丈夫。己の褥で舞っておくれ。いつものように己にそちを感じさせてくれぬか」
顔を上げて今度はジェズを抱き込む。
顔を上げたジェズの唇にキスを落としてゲオルトは覗き込んだ。
茜色の瞳に自分の顔が映りこんでいる。四天王家に名を連ねるほどの古参の貴族の家はそれぞれ独特の色の瞳を持っていることが多い。プロネトウス家の黒、コーディル家の紫、アドルガッサー家の銀色のように。瞳は、己の立場を知らしめるもののひとつだ。
茜色のそれは彼が当主で、結ばれることは無い相手だと知らしめてくるのだがゲオルトはこの瞳が好きだった。
ジェズはゲオルトの逞しい胸に身を預けた。
「わしも、恋焦がれておりました。今更拒むことなど何故出来ましょう。どうぞこの身を愛しんでくださりませ」
千年前。お互いに妻と子を持ちながら隠れて関係を持ち続けていた頃に比べれば、どれほど幸せだろう。封印される瞬間、延ばした手がジェズを捕まえることはなく引きずり込まれていくその姿が最後の記憶だった。
再び目覚めたとき、心に誓った。もう偽ることはやめようと。
まるで何かに戒められていたかのように言えずにいた愛の囁きを言おうと誓ったのだ。
そして吐露して、いまだ素直に求めることに慣れぬまま忙殺されやっとゆっくり褥を共に出来る夜がやってきた。
ゲオルトはジェズを抱き上げた。驚いて身をよじるジェズに微笑みかける。
「やっと、今までのようにもの寂しく虚しい朝を迎えぬ夜がやってきたのじゃ。これくらい許せ」
「――お恥ずかしいお人じゃ…」
ジェズは小さく呟いたが暴れなかった。
三ヶ月以上前に肌を合わせたときはゲオルトが目覚める前にいつもの癖で帰ってしまったので少し気まずいのだ。
「湯を使わせてくださいませ」
「バカを申せ。そちのことじゃ。訪ねてくる前に丹念に湯を使った後じゃろう」
「なれども…清めた体で褥に入りとうござります」
「良いのじゃ。そちの香りが己は好きでたまらぬ。石鹸の香りにこれ以上邪魔されとうないわ」
「!!」
運ばれながら惜しみなく言われる睦言にジェズは俯いた。
言葉に出来なかった時代が長すぎて、慣れそうも無い。自分が言うのはいいのだ。だが言われるのはかなり恥ずかしかった。
普段は冷淡で冷酷で無慈悲ともいわれその自覚もあるのにゲオルトと王にだけはそんなものは崩れ去ってしまう。特にゲオルトの前ではまるで乙女だと自覚していた。
そうやっているうちにふかふかの寝台へと下ろされた。
大柄な男二人が寝転んでもかなり余裕のある寝台はあまりまだ馴染みの無いものだ。もぞもぞと動いているとギシッとゲオルトが乗り上げてきた。
ジェズの足を膝に乗せ、部屋履きを取り去る。両方脱がせると恭しく口付けた。
「な、御身・・・!」
「恥ずかしがることもあるまい」
顔を上げ、ジェズを押し倒す。
ベッドに広がった黒髪が美しいと密かに思った。
ジェズが口を開く前に首筋に唇を埋め、着物を一枚一枚脱がせていく。帯を引き抜き紐を抜けば簡単に脱げるこの衣装は妖艶だった。
広がる布の大軍を下敷きに襦袢一枚まで剥いたところでジェズがゲオルトの衣装に手をかけた。
ボタンを外せば逞しい筋肉に覆われた体が晒される。歴戦の跡が色濃く残る肌の傷をなぞり、ジェズは口を開いた。
「わしにも、ござります。傷は戦士の勲章。何度見ても美しゅうござりますな」
「好きか此れが」
「はい…愛しゅうてなりませぬ」
うっとりと呟くジェズの最後の砦、襦袢に手をかけ、ゲオルトは言った。
「そんなに焦がれた眼で見るでない。己の傷に嫉妬してしまう」
「そのようなことを申されるとは意地の悪いこと…。御身の全てが愛おしいと申しておりますのに」
「焦がれる雄の戯言じゃ。気にするな…」
現れた裸体を鑑賞しつつ手を滑らせる。妻よりも抱いてきたこの身体。老いてきているとは分かる。だが己と同じように年月を重ねたこの身体が心底愛おしかった。
「愛しておる。ジェズ。もう、ずっと、ずっと前からじゃ」
髪を撫で、眼を合わせて改めて真摯に告げるとジェズは微笑を浮かべてゲオルトの頬に手をあてた。
「分かっておりました。御身の御心は、このわしにずっと下さっておりましたこと。お言葉だけが、下さらなかったこともわしも捧げられなかったことも。生きてはみるものですな。御身からお言葉をもらえ、わしも捧げられた今、今生に未練など無いと言い切れるくらいの心地でございます。お慕い申し上げておりまする、ゲオルト師。初めてお会いしたときよりずっと…」
もう言葉は要らなかった。
抑えきれなくなったかのようにはじめられた愛撫は激しく、ジェズは何度も体を震わせた。
歓喜、喜び、まるで秘曲のように与えられる悦楽。
恋焦がれて幾星霜。
叶う恋もあれば敗れる恋も在る。
長い長い時を経て、真の意味で叶い結ばれた恋がここにひとつ。
宵闇の褥に響く淫らな音色は神の采配を乗り越えた愛が奏でる秘曲。
冬を耐え忍び、春を迎えた花のように咲き誇った恋を誰が知るわけでもないけれどそこには確かに神にも負けないほどの幸福が舞い降りていた。
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