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黒の誓い
 6


「なりません!」

振り上げられた腕がクリスタルの小箱を床に打ちつけることはなかった。振り下ろそうとした瞬間に、その腕は捕らえられたからだ。
バスティアンは怒りを滲ませたような、安堵を浮かべたような、どっちつかずの表情で声の主を振り返った。
おそらく命がけで制止したのは、先ほど退出させられたはずの部下だった。淡いグリーンの瞳の軍竜だがバスティアンは名前を思い出せなかった。

「お前は――?」

「第五部隊第八戦士、ヴォルフ・モーガンであります!ご無礼をお許しください!ですが、それだけはなりませんっ」

バスティアンの腕に必死にしがみつき、ヴォルフは叫ぶように言った。
勢いに押されるようにバスティアンの腕から力が抜ける。それに気づいても、ヴォルフは警戒するように腕を放さなかった。

「何故だ」

「自分は不届き者ですので先ほどのお話を聞いてしまいました!罰ならばいくらでも受けますが、今は話を聞いてください。その小箱に納められしはクリフ様の記憶と愛。それはクリフ様にお返しにならなければなりませぬ」

つかまれた腕に力が篭る。バスティアンは少しだけ眉を潜めたが咎めなかった。
無意識なのだろうか、ヴォルフは目に力を宿して熱弁を続けた。

「クリフ様の物なのです、バスティアン大将軍殿。それに自分はクリフ様に借りがあります」

「借り?」

「はい。自分は恥ずかしながら婚約者に逃げられてしまった者です。あまりの哀しみに弱くも自害しようとさえ致しました。そのとき、たまたま近くを通りかかったクリフ様が止めてくださったのです。あのとき止めてくださらなければ、自分は己の爪で咽喉を裂いていたでしょう」

「クリフが?」

「はい。自分がバスティアン大将軍殿の執務室に時折出入りしていたので覚えてらっしゃったようで。言葉はわかりませんでしたがあの瞳に自分は目を醒まさせられたのです」

ヴォルフの言っている日がどれかバスティアンにはわからなかった。クリフはそんな素振りは一切見せていなかった。
バスティアンの混乱をよそに、ヴォルフは手を滑らせ、そっと小箱を受け取った。
クリスタルの冷たい感触が離れ、バスティアンの体から力が抜ける。咄嗟にそれも支えてヴォルフはバスティアンをソファに座らせた。

「もし此れを壊して、クリフ様と愛し合えたとしても、クリフ様には以前のバスティアン大将軍との記憶が無いままなのです。クリフ様は悲しいのではないでしょうか」

「・・・」

「あなた様との日々は、クリフ様にとって重要なはずです。それこそ、お命よりも」

うなだれるバスティアンの前に跪き、手を握る。この大将軍の足元にいつもいたライオンが消えてから、彼は何度悲しげな表情を浮かべただろう。
王代理の重責も、あのライオン以外に癒せない。
何度、哀しみの夜を越えたのだろう。
ヴォルフは痛ましい思いで一杯だった。憧れの大将軍が哀しみに沈んでいるのを軍一同、心配しているのだ。
威風堂々としたバスティアンの姿の裏に、恐ろしいほど儚い涙があるなんて誰が考えるだろう。

まるで神の如く強い彼の弱弱しい姿。思わず抱きしめたくなるような姿だがそんな非礼は出来ず、ヴォルフはただ手を握った。

「悲しみは抑えられますな。ですが、その小箱の中身をクリフ様へお返しになられたらあなた様は幸せになれるのです」

「だが――、記憶がなくても、愛してくれるかもしれん」

「もう!もう・・・クリフ様はあなたを愛してらっしゃる。自覚の無いだけの話しでしょう」

クリフが記憶を失った後もヴォルフは仕事の合間に何度か二人のやりとりを見る機会があった。
クリフは自覚していないだろうが、確実にバスティアンを愛しているだろう。
でなければシラユリジェネラルなどという危険な奥地にしか生えない花をわざわざ取りに行き、渡すはずがない。
ヴォルフは執務室に飾られているその花を横目に、立ち上がった。

「バスティアン大将軍殿、どうか幸せになられませ」

「…」

「ご無礼をお許しください」

ヴォルフが下がっていくのをバスティアンは止めなかった。
つかまれていた腕が熱い。胸のうちが焼け焦げてしまったように熱かった。悲しみの熱さなのか怒りなのか解らない。
ヴォルフの気配が消える。バスティアンは決壊してしまったように泣き崩れた。
どうして神はここまで試練を与えるのだろう。シリウス様の慈悲なのか残酷な遊びなのか。これくらい耐えなければと思う反面、あまりに焦がれる想いに焼ききれてしまいそうだった。
小箱を取り上げて抱きしめる。この中に、クリフの全てが入っているのだ。これを壊して、まっさらな状態から始めたかった。
けれどヴォルフの言う通りかもしれない。クリフのものを勝手に壊していいわけじゃない。

「フェオッ…」

バスティアンは己の弟の名を呼んだ。目を閉じれば鮮明に思い出す。黒髪に、同じ銀色の目をした、似ていない弟。堅物な自分とは違って他と付き合うのが上手く、ちゃらちゃらした性格だったが内面は義理堅い立派な軍竜だった。
バスティアンを差し置いて自分が当主になる気は無いと表明し、兄弟で争ったことも無い。
いつも一緒だった。まわりからアドルガッサー兄弟といわれるほど。
フェオドール・アドルガッサー。バスティアンの最愛の弟であり、彼を庇って死んでしまった。

「フェオ…おれ、は」

いつも笑っていた弟。何度その笑顔に救われただろう。
バスティアンが罵られれば、本人よりも怒った。ヴァルディス関連でバスティアンが我を失うほど激昂したら、彼が止めてくれた。

「たすけて、フェオ・・」

俺はどうすればいい。
お前が死んだのは俺のせいだ。俺が幸せになっていいはずがない。
ないと分かっているのに、この胸はまるで壊れたおもちゃのように鼓動を繰り返すのだ。叩きつけるような拍動は胸を押しつぶし、脳まで冒す。軍服で押し隠した動揺を白日のもとに晒し、威厳と風格を内側から食い破って叫ぶのだ。

「愛してるんだ…」

かなわぬ思いを抱くより、お互い愛し合っているのにそれを見ぬフリをすることのほうが何十倍も辛いとこの年になって知った。

「どうすればいいフェオ、フェオドール、おまえは、俺の幸せを許してくれるのか」

本当はわかっている。フェオドールは幸せになれよ、と言うだろう。彼はそういう男だ。
バスティアンは閉じていた目を開けた。
大切なフェオドール。失ってしまったもの。彼を失った悲しみを唯一癒してくれたライオン。
これ以上、何かを失いたくない。

決戦が終わったら、クリフに会いに行こう。

抱きしめて、謝って、小箱を返して。


愛に、おびえることはない。

今度は何があっても守る。クリフが己の全てをかけてバスティアンを守ってくれたように。


「フェオドール…許してくれ」

バスティアンは小箱をそっとデスクに置くと、目頭を拭った。最愛の弟に許しを請いながら、一歩を踏み出すと決めた。これが神の遊戯だとしても、与えられたのは絶望ではない。
希望なのだ。
バスティアンは踵を返した。儚い姿は立ち消え、威厳ある大将軍の姿を取り戻していた。
報告書を出しに来た部下に入室許可を出し、水差しから水を入れる。

「失礼します」

杯を空にして振り返ったバスティアンは、すでにいつもの彼だった。



■□■□


シリウスは、自分の神殿でぼんやりとしていた。
先ほど帰った死神、ニコとトンドルの報告はやはりと言うべきものだった。

『人工生命体004の中にはピーター・フィンセントという死後天使の魂が確認されました』

すなわち、輪廻しているのだ。どうやったかは定かではないが、通常ありえないはずの輪廻を、彼はしていた。その原因追求をアルスが命じたため、004はまだ生きている。
だがそんなことはシリウスにはどうでもよかった。

自分の愛した男の魂が、まだ存在する。

そこに喜びを見出すことは出来なかった。シリウスはピーター・フィンセントを愛している。だが彼はもう死んだのだ。

彼はピーターであって、ピーターではない。

「シリウス」

「アルスか」

棺の間でピーターを見つめ、押し隠せない動揺を消化しようとしていたシリウスに声がかかった。シリウスはめんどくさそうに答える。声の主のアルスは予想済みだと言いたげに棺に触れた。

「これも、もう、吹っ切ったらどうだ」

「――」

「これがお前を縛り付けているのだろう、シリウス」

眠る黒髪の天使。長いまつげも白い肌も死んだときと寸分も変わらない。組まれた手、白い服、白い羽根。これらは全てシリウスにより時を止められたモノだ。棺が、時を遮断している。
もしこれを割れば、時が流れ込み、かの天使は灰になるだろう。何度そうしてやろうとしたことだろう。

「アルス」

「なんだ?」

「今日、あの竜にロヴェゴの子孫から奪ったものをやった」

「―――なに?」

アルスは耳を疑った。対価としてもらったものを返したなど初めてのことだ。これが他の神なら慈悲からかとも考えるがシリウスに限ってそれはない。
昔から意味の解らない行動をたまにするが、今回は特にわからなかった。
呆れ気味のアルスには構わず、シリウスは続けた。

「あの者が嘆き、哀しむさまは―――まるで私だ」

「シリウス?」

「ピーターを失ったとき、ヴァルが封印されたとき。私もあのように嘆き、哀しんだ」

シリウスは静かに言った。アルスもそのことは覚えている。どれほど苦労してシリウスを立ち直らせたか、忘れるほうが難しい。
だがそれとこれとの関連性がわからなかった。

「私はあの者が再び希望を掴むさまを見たいと思った。そのために石を投げ入れたのだ」

「重ねているのか。最高神であるお前と、神ですらないあの者を」

呆れた。本当に呆れた。常々変な奴だとは思っていたがよもやここまでとは思わなかった。
アルスは巻いているストールを掴み、緩めながらため息をついた。シリウスは少し気に障ったらしい。冷め切った目を向けてきた。

「たとえあの者が幸せになったとして、シリウス、お前に何か関係があるのか」

「つまらぬ遊戯だ」

「シリウス」

咎める響きを含んで呼ばれた名を無視してシリウスは棺に触れた。

「それに」

「何だ」

「これから――絶望の嘆きの饗宴が始まる…。その前の―食前酒にはちょうどいいだろう?」

「・・・」

「クロノスや魔界だけじゃない。他の世界も争っている。――始まったのだ。我らも傍観しよう、アルス。もがき、悲しみ嘆き笑い、誰が勝つのか」


――本当に、性質が悪い。
悪趣味な腐れ縁に付き合ってやるあたり自分も相当に性質が悪いかもしれない。
自分にもシリウスにも呆れながら、アルスは懐から禁断の実の酒を取り出した。

「――今日は、晩酌しに来た。一緒に飲むぞシリウス」

「変な気を回すな」

「そう思うなら付き合え。ホラ、死体を前にしちゃ酒も不味くなる。来い、せっかく立派な庭があるんだ、泉のほとりで飲もう」

シリウスの腕を掴み、アルスは半ば強引に連れ出した。
酒を飲み、月を愉しんで、長い時を思いながらひとときに酔いしれたなら、少しは気も晴れるだろう。

「ほら見ろ。お前のために今宵の月はあんなにも美しく輝いている」

「女でも口説く練習か?今更?」

「残念ながら情を交わすことはとっくに飽きた」

「くくく、右に同じだな」

甘い蜂蜜色の酒を杯に満たし、くだらない冗談を言い合う。

こんな時間が、傷を癒すのだ。


夜明けまで続いた酒宴の間中、二人は笑い合っていた。






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