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黒の誓い
 4


昨日の喧騒とは打って変わり、王城は静かだった。ヴァルディスたちがクロノスに行くのが今日だが、騒ぐのは前日まで、いざ当日となったら臣下一同いつも通り過ごすしかなかった。見送りや云々はヴァルディス直々に禁じられた為である。

バスティアンは朝から執務室に篭っていた。今日、ヴァルディスに逢うための口実は昨夜、王自身に奪われてしまった。
王代理を務めるための引継ぎやお膳立ては全て、ヴァルディスが終わらせてしまっていたのだ。おかげでバスティアンは今日発ってしまう王にも会えず落ち込んだ気分で筆を走らせていた。

「バスティアン」

「何だ」

ドアが開き、クリフが姿を見せた。一瞬の動揺を押し隠してバスティアンは平静を装う。
野生が長かったためかクリフは勘がいい。だが気づかれなかったようでクリフは何も言わずに執務室に入った。

「…俺も発つ」

「…そうか」

クリフはもともとガイアにいた。一時的にバスティアンに預けられていただけで、これ以上魔界に留まる理由はない。バスティアンは反論せずにただ頷いた。どこか落胆し、どこか安堵している自分に吐き気がした。
ハレスに抱いていたのとは違う、胸が焼け焦げるほど苦しく痛い恋に晒されバスティアンは眉根を寄せる。クリフと過ごす一分一秒が、前は楽しかったのに。
想いとは、ここまで時間も空気も心も変えてしまうものなのか。

「…受け取れ」

「…?」

クリフは無造作に書類の上に何かを置いた。目を落し、バスティアンは息を呑んだ。
真っ白い、慎ましい花。シラユリジェネラルだ。王城の花園に自生している、百合の中でも雪の如く白く水仙のごとく凛としている大きめの花だった。

「これは…」

「…お前みたいだと、思った。要らなければ捨てろ」

クリフはそっけなく言うと踵を返した。
バスティアンは言葉もなくその後姿を見送り、震える手で引き出しを開けた。
そっと硝子の箱を取り出す。中には命を失わないよう魔術をかけられ時を止めた全く同じ花が咲き誇っていた。
バスティアンはその輪郭をなぞった。

「記憶がなくても…お前はクリフなのだな…」

目の前の花が霞む。まだ摘み取られたばかりで雫さえついている美しい花。
いつの日か、同じものを野生のときのクリフが贈ってきた。一生懸命に獲物を狩っては差出し、珍しいものを持ってきては褒めてくれと言わんばかりの顔をしていたクリフ。
そのクリフが唯一寄越してきた花。

2輪目が、手の中に。


ぽたり、と書類に水滴が落ちた。滲む文字に追い討ちをかけるように続けて落ちる。

バスティアンの唇が緩く弧を描き、瞳は閉じられた。

静かな、哀する微笑。


「バース、あの件は………」


その笑みに、ハレスは思わず言葉を止めた。バスティアンはハレスに気付いていない。扉をあけ、声かけをしたにも関わらず、だ。
普段ならば有り得ない。ハレスは後ろを向き、廊下の先を見つめた。
先程すれ違った、褐色の男。バスティアンの緊張を一瞬で奪えるとしたら、ヴァルディスか彼かしかいない。

「………」

ハレスは目を伏せ、静かに扉を閉めた。気配を解き放ち、しばらく待つ。
数秒後、部屋の中の気配が動いた。
少し慌てたようなそれに小さく笑ってハレスは口を開いた。

「バース、居眠りとかしてないでしょうねー!今日発ちますから一人残る貴方に会いに来ました」

ゆっくり押し開ければ、普段どおりのバスティアンが座っていた。ハレスは微笑を浮かべ、いつもどおりに机に向かって歩いた。何も変わらない、幼馴染達のやり取りが始まった。

「バースじゃない、ちゃんと呼べ」

「細かいことはお気になさらず。どうです?ヴァルディス様の代理は務まりそうですか?」

「あのお方の代わりなど誰にも務まらん。だが出来る限りのことはする。何でもするつもりだ」

「その意気ですよバスティ」


執務机の隣りに置かれたティーセットにハレスは手を伸ばした。銀細工のそれはシンプルで無駄な装飾は一切なかった。

「淹れてあげましょう」

「お前がか?懐かしいな」

バスティアンは素直に嬉しそうに笑った。ハレスのお茶の腕前は超一流である。ヴァルディスに仕えるため、彼が習得したものの一つだった。
細やかな気配りをしながらお茶を淹れる姿はさながら執事のようであった。とても似合っていて、それでいてプロフェッショナル。指先ひとつで魔法のように香りを高めていくお茶を愉しみながらバスティアンは書類をさっと隠した。

やがてお茶が完成した。差し出されたそれは見事な琥珀色でバスティアンは酷く感心した。屋敷でも、ここまで完璧に淹れられたお茶は滅多に見ない。口に含めば、ふくよかな香りが体中に行き渡る気さえした。

「美味い」

「それはよかったです」

ハレスはソファに腰掛けた。バスティアンは忙しいはずだが追い出すことはしない。
そんな甘い優しさに付け込み、ハレスは足を伸ばした。

「ねぇバスティ」

「だからバスティアンだ。…なんだ」

「手、貸してくれます?」

バスティアンは疑わずに手を差し出した。黒い手袋に覆われたそれを掴み、ハレスは持ってきたものを握らせた。
怪訝そうな顔を微笑みでかわし、きゅっと握る。

「きっと今しかチャンスないので言いますけど」

「?」

「私、知っていました」

「何を」

「貴方が、私を好きだってことです」

バスティアンは目を見開いた。さっと引きかけた手を離さず、ハレスは続けた。

「知っていて、何も知らないふりをしていたのです」


知っていた。何もかも。バスティアンがハレスを好きだったということも、そのために色々やってきたことも。けれど知らないふりをしてきた。何も見ないフリをしてきた。
ハレスも、バスティアンが大切で離れたくはなかったから。その想いの形が違っただけだから。

「私は酷い男です。知っていて貴方に後始末を手伝わせたこともありました」

「……」

「貴方やディシスさんが想ってくれるほど私は綺麗な男ではないのです。でも、バスティアン」

バスティアンは俯いた。知られていたこともショックだったが、こうやって言われるということは完全に終わるのかもしれない。そちらのほうが何倍もショックだった。
親友で幼馴染で片割れで、恋人とは違う、なくてはならない兄弟みたいな存在に、拒絶されるのかもしれない。
そうやって怯えていた。だがハレスは全く違うことを言った。

「私は嬉しかった」

「…は?」

「貴方が私を好きで。応えられなくても貴方の一番だったことが嬉しかったのです」

それは、特有の独占欲だった。与えられるだけの愛に甘えていたのだ。その愛は酷く心地よく、美しいものだった。自分は応えず、注ぎ続けてくれる愛に向けられる眼差しに歪んだ独占欲と快感を感じていたのだと思う。
親友で幼馴染で片割れの彼は、ハレスのものだと。
時たま笑みを向け、優しさを向け、残酷にも諦めることも逃げることも許さずハレスはバスティアンの心を縛り付けていたのだ。おそらく、自分でも意図することなく。

「でももう終わりにしましょう。貴方は自由になって、好きな道を選ばなくてはならない。私は心一筋ディシスさんに捧げる覚悟が出来たのですから」


この爛れた友情を、やめようとハレスは持ちかけた。お互いに、すっきりとした友情と信頼を築こう、と。
今が精算の時期だ。この、何千年も続いた、淫らな友情を片付け子供のときのような純粋な想いへ帰るときなのだ。
バスティアンはしばらく黙っていた。握られた手をするりと抜く。

「……これは…」

「バッジです。私の」

手を開くと、確かにバッジが転がっていた。
裏にはハレスの名前が刻まれたそれ。何百年もハレスの胸で輝いていたそれが今はバスティアンの手の中にある。

「知っているでしょう?」

「もちろん」

バスティアンは小さく笑い、自分のバッジを差し出した。
バッジの交換。それは死んでも、己らは真の友で在り続けるという、魔界軍に昔からある誓いだった。ハレスとかわす、二個目の誓いだ。
同時にバスティアンはピアスも外した。自分の想いの年月だけ、耳で輝いていた血のような紅い宝石。ハレスの色だ。

「ならば、これももうつけてはられんな」

「そうですね…」

バスティアンはどこか哀しげに、しかし清清しく言った。
長い間くすぶり続けた火がやっと消えた。そんな気がした。ハレスへの想いは自分を強くも弱くもした。彼を守りたくて軍竜を目指し強くなったが彼に泣かされ、恋愛が怖くなったのも事実だった。

「…」

バスティアンの手の中でピアスが霧散した。
これで終わった。爛れきった友情も、ねじれた想いも、全てに終焉が告げられたのだ。
少し寂しく、少し哀しく、酷く清らかな気分になった。

「貴方に、謝りたかった」

「謝罪など要らん」

「ですが…」

「きっと俺は生まれ変わっても、またお前に恋をする」

今度はハレスが目を見開いた。
しかしバスティアンは清清しい笑顔のままだった。

「そしてお前は俺に恋はしないで、俺はまた失恋して、それでも片割れで…俺達は永遠にそうなのだ。それはとても幸せだろう?」

どんなに生まれ変わっても、きっとまた一緒にいる。友達として、ずっと。
そう、それは恋ではない。この恋は永遠に実らない。それでも、とても幸せなこと。

「…私も、幸せです。それなら」

ハレスは微笑んだ。
バスティアンはお茶を飲み干した。

そして、ひとつの恋が、終わった。






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