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黒の誓い
 1




反乱を鎮めたヴァルディスたちは凱旋の後、王城に戻った。疲れているためこの日はこのまま解散し今後のことを命令するのは明日に持ち越された。
興奮気味の兵士たちを納め、バスティアンとハレスが王城に静寂を導く。長老や神々も今日は訪れなかった。

「ではヴァルディス様我らも今日は失礼します」

「明日は午後、広間で命令を下す。お前達は朝から執務室に」

「はい」

「それでは」

バスティアンとハレスは揃って下がった。ヴァルディスはそれを横目に寝室への扉を開いた。

「レオ」

レオニクスはにっこりと笑うとヴァルディスの頭を掴んで髪をぐしゃぐしゃに乱した。驚いたようなヴァルディスを引き寄せ、額と額を合わせて目を閉じ微笑む。

「お帰り、ヴィー」

「――ああ」

ヴァルディスも目を閉じるとレオニクスの肩に頭を埋めて抱き寄せた。甘えるような仕草にレオニクスは更に強くヴァルディスを引き寄せる。
ヴァルディスの鎧からにおい立つ濃い血の香り。力が抜けている右手は、爪あとが残っている。本人さえ気づいていないものをレオニクスは本能的に悟っていた。その悲しみを癒せるわけもないが、少しくらい分けて欲しい。レオニクスはヴァルディスを抱きしめながら眉根を寄せた。見えない顔は、無表情のままなのだろうか。表情を浮かべられなかった顔に、今は思いを乗せてくれているだろうか。
自分には、それを見せてくれている。そんな自負があった。

「ヴィー」

「何だ」

「頑張ったな」

「…」

ヴァルディスはぐっと眉間に皺を寄せ、俯いた。レオニクスの言葉が、腕が、体温が、凍りついた心を溶かし、染み入っていく。
同族を殺した両手が、赤く濡れている。もうずっと昔から、この手は穢れていた。それは王として当然のことで何とも思わずに来た。
だが、今は、この手で愛しい男に触れるのが躊躇われてしまう。

「泣いていいんだ」

「…」

「ここには、王なんていやしない。仲間を失った、ひとりの男がいるだけだ」

「…くっ」

ヴァルディスは泣かなかった。泣けなかった。だが深い悲しみを表すように、縋りついた。王の顔が離れていく。レオニクスに与えられた心が、軋んでいく。
誰の前でも、ヴァルディスは王だった。自分だけの己など持つことも許されてこなかった。殆どはじめて公が崩れ去り、感情が波打った。涙は出ない、出し方を忘れてしまった。そんな哀しい彼をレオニクスは優しく抱き、包んだ。

「レ、オ…」

「頑張った。流石だよ。ヴィー」

頑張った。頑張り続けている。彼は王様。これ以上ない、王様。誰よりも強くて、誰よりも部下思いの。
部下のことをよく知っている分、裏切られた痛みは強く仲間思いな分殺した悲しみは深いことをレオニクスは感じ取っていた。出来ることが当たり前で、強いことが大前提のヴァルディスの努力を、レオニクスだけが認めている。

それがどれだけヴァルディスの救いになっているのか、レオニクスは知らなかった。

「…鎧、脱がないと」

「…ああ」

ヴァルディスは頷くが腕を解かなかった。レオニクスは嘆息すると鎧のベルトに手をかけた。案外すぐに脱ぎ着出来るように造りは簡単で、肩当ては滑り降りた。胸周りの鎧も落させ、腰の鎧を外させる。
ゴトッゴトッと鎧が落ちるたびにヴァルディスから血臭が強まった。鎧の隙間から入り込んだ血が彼の身体にこびりついているのだ。
篭手と足の鎧だけを残して脱がせ終わったとき、ヴァルディスが半ば強引にベッドに倒れこんだ。

「うわっ」

ばさり、と黒髪が広がる。顔にかかるそれを払いながらレオニクスはヴァルディスを見上げた。

「抱きたいのか?」

「いや…今は歯止めが利かぬ」

「別に構わないぞ」

「レオを傷つけたくはない」

ヴァルディスはレオニクスを抱き込みシーツに包まった。レオニクスは食い下がる。

「俺は傷つけられたって…」

「それに、レオを忘我の道具にしたくない。レオは道具じゃない」

レオニクスは口をつぐんだ。ヴァルディスの低い声が疲れを滲ませて意識を失う前に言葉を紡ぐ。

「俺の…生きる…糧だ」

「っ」

すぅっとヴァルディスは眠りに落ちた。美しすぎる顔を間近にレオニクスは顔を手で覆った。

(そんなこと言われたら、こっちが眠れない!)

ちらり、と見る姿は疲れきっていて、レオニクスはため息をついた。ぎゅっと抱きついてくる腕は力強く少し苦しい。
だがこうすることでヴァルディスが少しでも癒されるのなら、一晩でも三ヶ月でも何年でも、こうやって抱きしめていたいと思う。

「おやすみヴァルディス。俺がいるから、安心して眠れよ」

きゅっと王を抱きしめて、レオニクスも目を閉じた。


□■□■

ハレスと別れ、バスティアンは王城の中の自室へ向かっていた。
だが廊下を曲がった瞬間、その足は少しも動かなくなってしまった。

「…クリフ…どうしてここに…」

「…入れ」

目線の先、自室の前にはクリフが気だるそうに立っていた。バスティアンを認めると扉を指して低く言う。だがバスティアンの足は動かなかった。混乱と緊張で頭も思考を停止している。
クリフは眉をひそめると近づき、腕を取った。さっ、とバスティアンの瞳がかげる。

クリフは頓着せずにバスティアンを部屋に押し込んだ。濃く香る血のにおいに鼻をひくつかせる。
バスティアンは咄嗟に腕を振り払った。返り血に塗れた姿を、見られ嗅がれることが耐えられなかった。クリフの腕の強さや目の光が怖かった。

「用がないなら帰れ、今日は気が立っている」

目を逸らし、バスティアンは言った。退室を促すように鎧に手をかける。
だがクリフは退かなかった。腕を引き、床に押し倒す。

「なっ!!」

「その目だ」

「え?」

「その、おびえた目」


クリフが低く言い捨てる。バスティアンは咽喉を鳴らした。

「俺には、それしか向けぬな。戦場でも、出立のときでも、凱旋のときでも、今も。お前は、大将軍だろう」

バスティアンは目を伏せた。すかさずクリフが顎を掴んであげさせる。

「いらだたしい。お前の香りに、俺は、たまらなく、欲情するんだ」

「そん、な…」

「お前が俺にそんな目しか向けなくとも構わぬ。それも一興、今のお前を俺は、抱きたい」

バスティアンは目を見開いた。人型であっても鋭い犬歯がクリフの口から覗いている。
逞しい、褐色の体。どかそうと本気で思えば退かせる。それなのに身体は石のように動かない。

「いや、だ…嫌だ!」

「ならば全力で抵抗しろ。本気で嫌がれ」

クリフはあっさり言うと鎧に手をかけた。引きちぎる勢いで脱がせていく。血がつくが全く気にしなかった。

「何人、殺した?」

「覚えて、ない」

「楽しかったか?」

「…」

「そういう本能だろう」

クリフの言葉に心が疼いていく。本能、ああ確かにそうだ。殺戮本能は黒竜族を作り上げる根底にあるものだ。
クリフはバスティアンの鎧を外すと服に手をかけた。濃くなる香り、引き締まった身体。大将軍として歴戦の痕が残る肌。この身体を、自分は知っている。
バスティアンの手がクリフの手を掴んだ。

「汚い、から、風呂に…」

「必要ない」

「だが…」

「この、香りがたまらない。俺はお前を知らん、愛してもいない、だが。俺の身体はお前を求めているんだ」

「……」

バスティアンは諦めたように体から力を抜いた。かぶさってくる獅子神に食われるまま、身体を差し出す。
どう足掻いても、抵抗一つできやしないのだ。バスティアンは自嘲した。これは、自分の罪への罰だ。
弟への罪悪に負け、クリフの思いを弄び、己の心を欺き、見ないフリをしつづけた、罰なのだ。
愛されなくとも、また触れられたことを確かに喜ぶ心がある。同時に、昔のように慕ってくれないことへの身を切られるような辛さに軋む心もある。どちらも持て余し、どちらも直視できず、バスティアンは目を閉じた。

クリフの手が身体をまさぐる。確かに熱が灯っていく。

「バスティアン・アドルガッサー」

「何だ」

「俺は、お前を…昔…」

クリフは言いかけて口を閉ざした。
目の前の黒竜は、自分を見ては居ない。きっと、彼を愛していたという己を見続けている。
どうしてだろう。
彼を、一目見たときから、自分は欲情していた。
愛と呼ぶには乱暴で、恋と呼ぶには深すぎる、この感情。
彼を抱けば収まるだろうか。それとも業火の如く燃え上がるだろうか。神に、自分は一体何を捧げ、何を得たのだろう。
答えはどこにあるのか、クリフには分からなかった。
ただ、自分の下で眦から一筋、涙を流した黒竜を、抱きたくてたまらなかった。

ふたつの心は、隣同士でまったく違うほうを見ていた。





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