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黒の誓い
 2


ヴァルディスはムッとしたようだったが何も言わなかった。堅物の自覚はあったのだろう。
クリフに乗っかられたバスティアンは不満そうな顔で同じ場所に戻り、また周りを警戒しはじめた。
クリフは大人しくバスティアンの背中に乗っている。

『主、それ』

ディシスに指摘され、レオニクスは手を見た。
伸びた爪が皮膚を傷つけている。慣れない爪に己の皮膚を切り裂いてしまっていた。

「あ」

『随分深く切っている』

ハレスのもとからレオニクスのところへ来たディシスは注意深く傷を見て言った。
痛みはあまりなかったため気づかなかった間に結構な血が流れていた。

「自覚したら痛くなってきたぜ…でも嘗めたら治るだろう」

「レオニクス様、私にお任せください」

「いいえ、これくらい…」

「なりません。貴方はヴァルディス様の唯一無二の存在だという自覚をもっと持たれませ」

ハレスは拒絶を許さない口調で言うとレオニクスに「ふぅ」と息を吐きかけた。
温かな不思議な感覚。癒しの力に包まれるといつもそんな感覚に襲われる。まるで母親の腕の中に抱かれているような、そんな安心感。

この安心感の中、痛みがなくなるのは幸福だ。だが、レオニクスはこれに慣れるのが恐ろしかった。
慣れてしまえば必ずハレスが癒してくれると思えば、どんな無茶でもやるだろう。
だが、ハレスが怪我してしまえばどうなる。

それを思うと、あまり頼りに出来なかった。

「ありがとうございます」

綺麗に傷跡までなくなった手を眺め言ったレオニクスにハレスは微笑んだ。

「…貴方の心配は、正しいことです。その心をいつまでもお持ちください」

「え…」

ハレスはそれ以上何も言わずにレオニクスから離れた。
見透かされていたとは思っていなかったレオニクスは唖然としたままハレスを見送る。ディシスは一度レオニクスに自分の鼻面を押し付け、ハレスについていった。

「どうした」

「いや」

何と言ったらいいのか分からないという風のレオニクスをいぶかしんだのかヴァルディスが尋ねたが空振りに終わった。レオニクスは首を横に振っただけで答えなかったからである。
レオニクスは空を見上げた。昼過ぎの、綺麗な空。

「ヴィー」

「何だ」

「羅針帯がない空って、こんな感じなんだな」

何も人工物の無い空は見慣れないもの。突き抜けるように透き通った青に、吸い込まれそうだ。

「ここで飛べたら、ハイニールさんも気持ちいいだろう」

「どうだか。大鷲はクロノスの空を愛しているのだろうからな」

「意外だ」

「何がだ」

「そんなに深く、ハイニールさんのことを見てたこと」

「注視せずともあれだけ分かりやすければ嫌でも分かる」

「それもそうか」

ヴァルディスが唸るように言うのを笑って聞いていたレオニクスは最後に納得した声をあげた。
気持ちいい天気に、瞼が重くなる。治癒のせいもあってか、眠たくなった。

「レオ?」

「ん…」

「眠いのか?」

「ん、」

気づけばディシスも瞼を閉じ、ハレスも寝入っている。ヴァルディスの前でここまで無礼講なのは珍しい。どうやらこの天気に寄り添うディシス、上機嫌なヴァルディスという好条件には抗えなかったようである。
ヴァルディスは陽射しからレオニクスを守るように翼を広げた。
薄暗がりという条件も加わり、いよいよレオニクスの瞼がぴったりと閉じられる。
ヴァルディスの首に寄り添うように寝そべったレオニクスが穏やかな寝息を立てはじめた。久しぶりの穏やかな午後に、昼寝。こんな贅沢はとことん味わっておかなければもったいない。

「寝てしまわれましたか」

「ああ」

クリフもいつの間にか寝ており、起きているヴァルディスとバスティアンは声を潜めて会話した。

「ヴァルディス様もお休みになられては?」

「…そうだな」

バスティアンが見張っているなら、万が一があってもすぐに起こされるだろう。
ヴァルディスは頷き、金色の瞳を隠した。規則正しい息を聞きながらバスティアンは庭を眺める。
こんなに平和な午後は久しぶりで、ささくれだった神経がやっと癒された気がした。
ハレスもヴァルディスも誰かの前で寝るようなタイプではなかったはずなのに、すやすやと寝息を立てている。
甘くなったと言ってしまえばそれまでだが、これはいい変化なのかもしれない。

「…」

バスティアンはゆっくりと瞬きした。誰かが起き出すまで、こうして見張り守っていよう。
誰かが、彼らの眠りを妨げないように。
奇跡のような、平和で心休まる時間を邪魔されないように。

しかしそんなバスティアンの願いは、二時間後、打ち破られることになる。



■□■■


「シュイノールが、襲撃されました」

その連絡が入り、全員が起きて執務室に戻ったときには夕方になっていた。
詳しい情報はまだ揃っておらず、ぴりぴりとした空気が漂う。

「アイレディアか」

「おそらくは」

「シュイノールは黒竜族を何頭派遣していた」

「三頭です」

ヴァルディスの眉間の皺が深まった。
襲撃を受けたというのは初めてではない。だが、中にまで押し入られたのは初めてだ。

「まさか、黒竜が負けたか」

「…はい」

「どうやってだ」

「分かりませんが…今、シュイノールは魔界軍とアイレディア軍で泥沼の激戦区になっております」

バスティアンも険しい顔をしていた。
グッと眉を寄せて考え込んでいる。

「ガイアは?」

「ガイアは応戦しています。しかし、ドックに入れていたときに襲われたようですので…」

「完全じゃない、ですか」

レオニクスは唇を噛締めた。明らかに狙われたタイミングだ。しかし疑問が残る。

「…あの、どうやってアイレディアは狙うタイミングを知ったんですか?今回の俺達の魔界行きは殆ど知らないしガイアだって堂々とドックには入らないでしょう」

今回、ヴァルディスたちが魔界に帰ってきたのは緊急事態があったためでガイアですら知らない事項だ。
またガイアがドックに入ったことをヴァルディスたちは知らなかった。
完全に、計画性の無い行動をしていたはずなのに、はかったようなタイミングで行われたシュイノールの襲撃。

「まさか」

「…内通者がいると考えていいでしょうね」

ハレスが重々しく言った。
腹心中の腹心であるハレスとバスティアンしか部下はいないこの場でしかいえないことでもあった。
裏切り者の発覚にヴァルディスは表情ひとつ変えなかった。

「ガイアにもいるのか…魔界でガイアを探れる地位の者か…どちらにせよ早く見つけなければ」

「危ないな。俺達も」

ハレスの呟きを引き取ったヴァルディスは足を組み替えた。

「黒竜を倒せる魔物も野生も人間もクロノスにはいない。だが…」

そこでヴァルディスはレオニクスを見た。

「ヘリオスのキメラか、クローンがいれば、話は違ってくる」

「なっ」

『…クローン…』

ハレスたちに動揺が走った。ヘリオスはやはり、脅威だったのだろうか。
レオニクスは裏切りよりも動揺するハレスたちを不思議に思いながら見つめた。

「ヘリオスの…」

「…仮説に過ぎん。動揺するな」

ヴァルディスは静かに言うと立ち上がった。

「どちらにしろ、シュイノールに行くぞ。バスティアン、詳しく調べておけ」

「はっ」

ヴァルディスに付き従い、ハレスとレオニクス、ディシスは魔界を後にした。




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