ヴァレリアネッラ
音が聞こえる。
まだ薄暗い部屋を進んで、私は小さな窓へと歩み寄った。子供がやっと通れる位小さな窓だ。
「やっぱり!」
雨が降っている。
右から左下へと斜めに激しく降る雨はまるで細い針のようだ。
でもそれは深月に幸運を運ぶ糸でもある。
今にも踊りだしたい気持ちを抑えながら、窓を硬い音を立てて、限界まで開けた。
わずかにしか開かないのだが、雨の音を聞くには十分な広さだ。
そう、これ以上窓は開かない。
深月は下を覗いてみたことはなかった。
壁に空いた隙間から見えるのは空だけで、周りの物音なんて鳥の鳴き声くらいのものだった。
私に許される世界は、太陽と空の色と窓を横切る鳥の姿だけ。
ランプの明かりをつけると、柔らかな明かりが広がった。そのぶん家具の影は濃くなる。
軽めの朝食をとると、いつもよりも少しばかり念入りに掃除をする。湯船にポプリを浮かべ、匂いたつ湯気に包まれ湯浴みをした。
昼を済ませた後は、午後のための冷えたチョコレートのお菓子を用意した。
「あっ」
小さく鈴が鳴った。
ドアに付けてある鈴である。
これが鳴るのは数えるほどしかないし、鳴らす人はただ一人だけ。
鈴の音の向こう側から現れたのは長身の美丈夫である。
微笑みを浮かべた彼は、深月を認めると柔らかに言葉を紡いだ。
「こんにちは深月」
深月はたまらずに駆け寄り、見かけよりもしっかりとしている胸に飛び込んだ。
「骸さま…逢いたかった」
「僕もですよ深月」
見上げると、骸は深月ににっこりと笑いかけた。そのまま骸は深月に口づける。
激しさの欠片もなく、ただ柔らかな愛情に満ちたキス。
「ん…」
深月背中に手を回すと、それを上回る力強さで抱き締めた。
「何か困ったことはありませんか」
「いいえ、骸さまのお陰で」
私は骸さまのちょっとした心遣いも嬉しくて仕方がない。
それに、久しぶりに会えたことで胸の高ぶりは最高潮であった。
「深月…」
「っ…」
骸の熱っぽい視線。
オッドアイには何か不思議な力が込められてるかの錯覚さえ起こってしまう。
でもその瞳に囚われてしまえば、もう何も考えられない
。
私は目を瞑って骸さまの温かさに身を任せた。
*
骸さまはとても優しいお方。
記憶もなく、気付けばひとり閉じ込められていた私を見つけてくれた。私はこの部屋から出ることができない。
『魔法』のせいなのだそうだ。
骸さまは、それは高名な魔術師の一番弟子らしく、魔法にとても詳しい。そして私を閉じ込めた張本人こそ、その魔術師。
「もう少しで君を助けてあげられそうです」
骸さまの温もりに直につつまれていると、声の振動も直接身体に響くよう。
「これで深月をこの鳥籠から出すことができる。」
弾んだ骸さまの声を聞くと私は無条件に喜んでしまう。
「でも、私は骸さまさえいればそれだけで幸せなんです」
「クフフ、嬉しいですね。ですが、世界には色々なことがあるのですよ?」
私はずっと思っていたことを口にする。
「本当のことを言えば私の世界は骸さまだけで十分なんです」
すると、骸さまは軽く目を見開いた後にまた笑い、抱き寄せてくださった。
「もちろん毎日お逢いできるようになるのはとても嬉しいのですけど…」
「おやおや、寝かせてあげれなくなる」
「むっ、骸さまっ」
私が顔を赤くすると、くふふ、と笑って額にキスをされた。
「さぁ、今日はもう休みなさい」
「でも私まだ…」
「心配しなくても深月が眠るまではここにいますよ」
「でも雨が止めば行ってしまうのでしょう…?」
深月は不安げに骸に視線を送った。
「彼は雨が止んだ後、暫くしないと戻ってきません。夜中に雨が止んでしまっても深月が寝るまで一人にはしませんよ」
「はい…」
骸は母親が子をあやすように深月の額を撫でる。
「お休みなさい僕の深月」
「骸さまおや、す、みなさい…」
ほどなくして私は混濁した夢の世界へと滑り込んだ。
「深月…」
骸が灯に照らされた深月の寝顔を眺めていると、どこからか1匹の蝶が二人の元へと現れた。
紫水晶のように煌めく蝶はどこか作られた美しさをもっていた。
「クローム」
蝶へと手を差し延べると、蝶は自分が呼ばれているとわかったかのように大人しくその指にとまった。
その様子を骸はじっと見ると暫くして
「…そうですか、もう雨が上がってしまうのですね。毎回のことですが名残惜しい」
骸は蝶に話しかけた。
気持ち良さそうに眠っている深月の頬をくすぐると、くすぐったそうに身動ぎした。
「そうそう、こちらもそろそろ潮時かもしれません」
そしてまたクフフと笑い声をもらす。
「今や彼女は完全に僕のものになったと言える」
ただし、深月に向けた微笑みとは違い、妖艶と言う言葉がぴったりな笑みを深めた。
蝶はゆっくりと羽の開閉を行なっている。
「千種たちに伝えてください『準備が調った』と。僕の痕跡を全て末梢するように。次で救助隊は殲滅しましょう。クロームはいつも通り深月の見張りを」
ベッドから降りながらさらに骸は続ける。衣服はいつの間にか身に着けている。
「僕は少々遊んできます。師匠相手に無傷はあんまりですからね」
それに無粋な誰かが訪ねてきたようですし。
そう言って骸は愉快そうに笑った。
そして骸の声にも一切起きる気配をみせない深月に顔をよせ、瞼にキスを落とす。
「君が目覚めるのは全て終わった後です。君を知る者も助けに来る者も消した後…」
そして立ち上がるとゆっくりと扉へと進む。
今では離れることも絶えがたかった。
骸は木のドアに手をかけると、何か思ったかのように立ち止まった。
「もし、君をさらい、幽閉した魔術師が僕だと知ったら、君はどんな顔をするのでしょうね」
骸は振り返ったが、そこには穏やかに眠る深月があるだけ。
骸の表情は見えない。
ただ灯を消す寸前、骸の眉間は切なげに歪んだような影が浮かび上がり、そして消えた。
深月
君を手に入れるためならば僕はどんなことでさえ…
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