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空気の変化に気づいてふと顔を上げると、そこにいたのは茶と黒の昼の姿ではなく、銀と黒の夜のリクオだった。
「ちっ、あいつ……」
リクオが苦々しげに舌打ちをするのを、氷麗は見つめていた。
「……リクオさま?」
さっきまで昼の姿だったのに、どうして急に入れ替わったのだろう。
夜の帳はとうに降りている。
時間帯で言えば、氷麗がこの部屋に訪れたときにはもう夜の姿でもいいはずだった。
そういえば、彼は言っていたではないか。
『このところあいつが気を張ってて、寝ねぇと出てこられなかったからな』
ならば、何故今入れ替わった?
脳裏を過(よぎ)るのは、彼の顔。
辛そうに歪められた、昼の表情。
傷つけたい、わけではなかったのに……。
胸が、ひどく痛む。
それは罪悪感ではなく、己の心とは真逆の台詞を言わなければならない痛みだった。
「__氷麗」
低く響く声に名を呼ばれて、氷麗は我に返った。
見つめるリクオは、罰の悪い表情を浮かべていた。
「悪ぃ、あいつ引っ込んじまった。……でも、気にすんな。心の整理がつかねーだけだ」
やはり、昼と夜が入れ替わったのは、氷麗の答えが彼を傷つけたからなのだ。
氷麗は瞳の黄金に哀しみの色を混ぜ、俯いた。
すれ違って、苦しくて。
話せなくて、哀しくて。
どうしようもないこの心は、どこに行けば良い?
リクオは、そんな彼女を無表情で見下ろしていた。
「氷麗。オレとあいつじゃあ性格も姿も変わっちまうから別人かと思うかもしれねーが、どっちもが奴良リクオで、オレとあいつは同じ存在なんだ。言うなれば裏と表みてーなもんだな。簡単に言や、二重人格みてーな存在だ。記憶も思いも共有してる。あいつの思いはオレのもんでもあるし、オレの思いはあいつのもんでもある」
氷麗はきょとんと彼を見つめた。
そんなこと、今更確認しなくても分かっていることなのに。
リクオは居心地が悪そうに身じろいだ。
がしがしと無意味に頭を掻いてみる。
それはまるで、言葉を探しているような、口にするのを躊躇っているような雰囲気だった。
「だから、オレもお前ぇが好きだし、気まずくなってお前ぇが出て行くって言うくらいなら忘れちまっていいというのも同意見だ」
氷麗は唇を噛む。
違うのだと叫びたかった。
何も知らない彼は、きっと誤解している。
けれど、それは言えない言葉だった。
言ってはいけない言葉だった。
心の叫びを無視して、氷麗は唇を噛む。
声を上げてしまわぬように。
想いが漏れてしまわぬように。
しかし、ぬっと急に伸びてきたリクオの指は、それを解そうとしてくる。
それはまるで、堪えていた感情を露わにしろと言われているみたいだった。
「__けど、決断を下す前に、一度腹割って、話さねーか。お前の話、聞かせてくれよ」
赤い瞳が真っ正面から彼女を見つめる。
挑発的な光を含んだ瞳は、背筋をぞくりとさせた。
視線が、彼女を捕らえて離さない。
氷麗は、もう逃げられないと思った。







柔らかな月光が降り注ぐ。
風は、春の匂いがした。
ざわざわと揺れる梢の間から、一組の男女が見え隠れする。
幹に向かい合わせに座る彼らは、何をするでもなく月を見上げていた。
不意に、男が口を開く。
女は彼を見上げた。
銀と黒の混じった髪毛が風と遊んでいた。
「__オレらはな、お前ぇを独り占めしたいんだよ。どこの馬の骨とも分からねー男にお前ぇを掻っ攫われて、オレの傍からいなくなるのは、嫌なんだ」
リクオは天を仰いでいた顔を俯け、がしがしと月に光る髪を掻いた。
口元に浮かぶのは、自嘲の笑み。
「ほんと、わがまま坊っちゃんだって自分でも思う。けど、止められねーんだ。いつからお前ぇが特別になったかは分からねー。分からねーくらいずっと前から、お前ぇはオレの傍にいて、それが当たり前だと思ってた。いつの間にか、お前ぇが居ないことが想像もできねーくらい、大事になってた……」
やがて自らを嘲っていた口元は引き締まり、真剣な表情を氷麗に向ける。
まるで血のように赤い瞳が、月の光を受けて輝いていた。
「氷麗、お前ぇが好きだ。
……お前ぇの気持ち、教えてくれねーかい」
その瞳が彼女を射る。
それは吸い込まれそうに美しく、氷麗は思わず見惚れた。
その瞳に見つめられたら、誤魔化すことはもうできない。
彼は彼女の気持ちを聞かせろと言ったのだ。
答えを聞かせろと言ったのではない、と自分に言い訳をして。
氷麗は震える指を拳に握り込んだ。
「……わ、私は…リクオさまをお慕いしております。それは間違いなく恋慕の情です。リクオさまが他の女と__例えば、家長と夫婦(めおと)になることがあれば、私は耐えられません」
彼は組の跡継ぎを望まれている。
だから、彼もいつか女を隣に置く。
それは、ずっと前から分かっていたことだった。
覚悟はしていたつもりだった。
けれども、彼が女と仲良くするのを見る度、黒い感情がむくむくと湧いてきて。
想像するだけでも、我慢ならなくて。
いくら割り切ったつもりでも、諦めきれなくて。
「側近としてお仕えしている身では、過ぎた想いだということは百も承知ですが、どれほど殺そうとしても消えるものではありませんでした。……ですから、リクオさまのお気持ちを知ったときは、夢かと思うくらい、泣いてしまいそうになるくらい、嬉しくて……」
けれど、喜びと同時に湧いたのは、恐怖だった。
氷麗は天を仰ぐ。
月の光が、目に染みた。
降り注ぐ月光を浴びて淡く微笑む彼女はひどく儚く美しく。
それはさながら天女のようで。
リクオは知りもしなかった彼女の独白に、ただ驚くばかりだった。
「私は、怖いのです。今まで隠そうと必死になっていた想いを露わにするのは、自分がどうなってしまうのか分からなくて、怖くて……。
一度崩してしまった関係には、きっと戻れない。あなたの横で幸せな日常に浸ってしまえば、私は二度と想いを隠すことは出来なくなります。もう二度と、側近としてお傍でお仕えできなくなります。この想いが叶うことより、このままずっとリクオさまのお傍にいたいって気持ちの方が大きくて……。結局、私は臆病者なんです」
月を見上げていた視線を膝に戻し、そこで硬く握りしめた拳をひたすら見つめる。
垂れ下がる桜の花が、視界で風に揺れる。
このまま、消えてなくなればいいのに、と思った。
こんなリクオを傷つけることしかできない自分なんて、消えてしまえばいいのに、と。
その美しさはあまりに儚くて、リクオは躊躇う腕をそっと伸ばす。
剣を握る大きな手が、小柄な冷たい拳に触れた。
びくりと震えて氷麗は怯えた瞳でリクオを見やる。
「じゃあ、何故 暇を請いにきた?」
いつまでも傍にいたいと言うのならば、どうして自ら離れようとしたのだ。
リクオには、それがどうにも理解できなかった。
「『恋が叶うよりお傍にいたい』というのは、長年かけて出した私なりの結論でした。それが私のストッパーになっていたのです。まさか、リクオさまが私のことを好いてくださるとは思いもしなかったので、全く予想していませんでした」
氷麗は儚く微笑んだ。
触れたらすぐに崩れてしまいそうな、そんな笑みだった。
「リクオさまは、優しい方です。もし私が断っても、そのまま側近として置いてくださるおつもりでしたでしょう?しかし、リクオさまの優しさは大変嬉しいのですが、お断りしてしまえば、側近を続けるわけにはまいりません。
それが、私のけじめなのです」
きっぱりと言い切る彼女は、やはりどこまでも気高く誇り高い雪女だった。
その頑なまでの心意気に惚れたのだと改めて認識させられた。
リクオはふっと笑う。
その強い意志を込めた瞳を見つめながら。
「考えすぎだ、お前ぇはよ。もっと気楽に構えてりゃ良いものを……」
呆れたような口調で言いながら、そんな彼女だから惚れた自分に苦笑する。
ああ、愛おしい。
心が弾む。
彼女が、自分のことをこんなに想っていてくれただなんて。
「なぁ、氷麗。やっぱりお前ぇが暇乞いする必要はねーよ」
軽い物言いに、氷麗は当然の如く反抗する。
首を左右に振った。
「いいえ。
今まで私は、私などがリクオさまのお隣に立つなんておこがましい話だと、リクオさまの奥方となる方には、私などより相応しい方がいらっしゃるのだと、言い聞かせて気持ちを抑えていました。ですが、リクオさまが私を好いてくださっていると分かってしまっては、そんなことはどうでもいいと思えてしまうのです。きっと気持ちを抑えられず、リクオさまにご迷惑がかかってしまいます。それならばいっそ…__」
リクオは眉根に皺を寄せ、不快を示す。
そして、続くだろう言葉をぶった切った。
「言ったろう。オレに迷惑がかかるくらいなら自分を犠牲にした方がいいみてーな考えは、嫌いだって。
オレが、傍にいろって言ってんだ」
それは、ひどく傲慢な物言い。
けれど、氷麗には甘い言の葉に聞こえた。
「お前ぇの不安を取り除いてやることなんてできねー。でも__」
ぐいっと腕を引かれ、暖かいものに包まれる。
それが抱き締められたのだという理解は、遅れてやってきた。
ざあっ、と桜が一際ざわめく。
それはまるで、咎めるように。
それはまるで、祝福するように。
「なあ、氷麗。お前ぇを独り占めする口実をオレにくれねーか。オレの後ろじゃねー、隣に居ろ。後ろじゃあ、お前ぇの笑顔がよく見えねーんだよ。なあ、オレに見せてくれよ。
オレにお前ぇを守らせてくれよ」

ああ、なんて甘美な言葉。
逃れられない、甘い誘惑。

心が締め付けられて、鎖が千切れそうになっていることを、鍵が壊れかけていることを、思い知る。
けれど、再び押し込め直す気にはならなかった。

あんなに心を蝕んでいた苦しみも哀しみも、消えている。

想いが溢れて止まらない。


恐怖が不安が消えたわけではない。
それでも、これ以上拒めるほど、彼女の心は強くない。







叶えたい、ことはあった。
叶わないと言い聞かせていた。


叶えたい、ことがあった。
叶えられることを知ってしまった。


叶えたい、と望んだ。
叶えてくれることを知った。


叶えたい、ことは……
今、夢から現世(うつしよ)に変わった。







春の匂いを纏った風が、戯れて過ぎていく。
パラパラとまるで雪のような結晶が風に舞って落ちていく。
氷麗はリクオの襟を握り締めた。
その目元から涙の大粒が落ちていく。
噛み殺せない嗚咽が夜闇に吸い込まれて消える。
小刻みに震える肩を、リクオは強く抱いた。
「泣いてんじゃねーよ……」
どうしていいか分からなくなるから。
頬を伝わない涙を拭う方法を知らないから。
「リクオさまは、戯け者です……。私なんかを、お選びになるなんて……」
どうして、もったいないほどの想いを、与えてくれるの。
どうして、逃れさせてはくれないの。
嬉しさに涙が流れて、懐の暖かさに胸が締め付けられて。
涙を流す氷麗を胸に抱いたまま、リクオは笑った。
「なんとでも。それを一生をかけて証明する覚悟はできてんだ」


それは、聞いたこともないくらい、甘い甘い声音で。
胸に広がるのは、嬉しさと暖かさで。


伸ばされた手を取っても良いですか。
あなたの心を欲しても良いですか。


あなたの隣で、笑っていても良いですか?



ああ、どうか。

これが儚く消える夢ではありませんように__。







Fin…







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