3 さっきからずっと、鼓動が嫌な音を立てている。 予感はあった。 きっと、ずっと前から。 けれど、ずっと見ないふりをしていた。 彼女を、手放したくないがために。 …ドク……ドク……ドクン…… さっきからずっと、鼓動が嫌な音を立てている。 せめて少しでも逃れようと、風の通り過ぎる庭を見やった。 天から降り注ぐ月光が彼女を照らし、長い陰影を廊下に伸ばす。。 夜の帳はとっくに世界を満たしていた。 枝垂桜が風に揺れて、ざわりとざわめいた。 春の匂いを運ぶそれは、そのまま彼女の長い黒髪を揺らした。 「リクオさま。氷麗です。お邪魔してもよろしいですか」 襖の前で正座をし、声をかける。 こうして彼の部屋の前に来るのはひどく久しぶりに思えた。 「どうぞ」 中から声が聞こえる。 それは、彼女を部屋に誘う声だった。 夜闇に瞬く星の輝きが、眩しかった。 庭の桜は、もう既に花を咲かせている。 部屋に足を踏み入れた氷麗が正座をするのは、襖から一歩程度の距離。 文机の前に胡座をかいているリクオとは、畳一畳分離れている。 「夜分遅くに申し訳ありません。リクオさま」 「大丈夫だよ。明日の予習を終えたところだから」 ぺこりと頭を下げれば、難なく帰ってくる笑顔。 それは、従者に向けるべき笑顔? いつから、境界が甘くなっていたのだろう。 「また、眠ってないの?」 向かい合った彼が独り言のように呟いた。 その声が小さかったことに加え、吐息と共に吐き出されたものだったので、氷麗にはよく聞き取れなかった。 不思議そうな顔をする氷麗に、リクオは苦笑しながら続けた。 「隈。気づかないとでも思った?」 その指摘に、氷麗はそっと目元に手を当てる。 リクオがずば抜けて目が良いのは知っているが、こんなにすぐ気づかれてしまうほどひどい顔をしているのだろうか。 みっともないところを見せてしまったと思うと、この場にいるのがひどく居心地が悪くなった。 けれども、隈ができてしまうほど眠れないことも、そのみっともない顔でこの部屋に踏み込んだのも、仕方がないことだ。 それが自分のことしか考えていない視野の狭い者の考え方でも、もう氷麗にはどうでも良いことだった。 さっきからずっと、鼓動が嫌な音を立てている。 氷麗はそっと、畳に両手をついた。 「本日は、暇(いとま)をお願いするために参りました」 そう言って、彼女は深く頭を垂れた。 リクオは、瞠目する。 驚きに瞠った瞳でしばし彼女を見つめ、その手の届かない距離に目眩がした。 彼は瞳を寂しそうに揺らす。 「__…………暇…?それって、里に帰りたいってこと?」 絞り出された声は、静かなものだった。 「…………はい」 さっきからずっと、鼓動が嫌な音を立てていた。 「先日は、大変恐れ多いながらもありがたいお言葉をいただきまして、恐悦至極に存じます」 いつになく他人行儀な台詞に、彼は一瞬だけ、泣きそうな表情をした。 どうして、彼女はこんなにも硬い言葉を口にする。 その先に続く言葉を、おそらく彼は知っていた。 氷麗は淀みなく、まるでそれが与えられた台詞のように、感情の篭らない声で、いつだかの答えを返した。 「しかし、大変申し訳ありませんが、私はご辞退させていただきたく存じます。これ以上、若さまの側近でいるわけには参りません。したがって、私は若の側近を他の者に頼み、里に帰らせていただきたいのです」 そして、まるで赦しを請うように彼女は深く頭を垂れた。 沈黙が、重く横たわる。 胸が、ツキン…ツキン…と悲鳴をあげていた。 誰か、気づいて。 この痛みに……。 思ってもいないそんなことを、嘲る月に願ってみた。 だから、言ったでしょう? やがて、審判は下される__と。 彼女の隈の原因が、自分にあることは分かっていた。 軽率とも言える決断__想いを彼女に伝えてしまったから。 それが彼女を苦しめていることは、知っていた。 それが彼女を苦しめることも、分かっていた。 やはり、僕が彼女の心を欲することは赦されないのか、とリクオは表情を歪める。 けれど……。 彼女を手放したいがために、言ったのではない。 彼女をこの屋敷から追い出すために、言ったのではない。 彼女を傷つけようと、言ったのではない。 __気づいてほしかった、というのは、わがままだろうか。 「…………氷麗」 名を、そっと呼んだ。 幾度も口にした名を。 寂しさを込めながら。 「氷麗。顔を、上げて。僕を見て」 できるだけ優しい声色を意識したが、それでも彼女は顔を上げようとしなかった。 相変わらずの強情っぷりだ。 泣きそうに、笑って。 リクオはふらりと立ち上がると、彼女の目の前に座った。 氷麗にも、気配だけでなく視界で分かっているはずだ。 「…………氷麗、顔を上げて」 三度目でようやっと氷麗は顔を上げた。 表情は泣きそうに強張っていて。 リクオもまた、泣きそうに笑った。 「怖がらなくていいよ。これくらいで、お前を嫌ったりしない。だから、気にしないで」 氷麗が唇を噛む。 まるで何かを隠すように。 まるで何かを言い返さないように。 リクオはぎゅっと墨染の生地を握り込んだ。 「氷麗、忘れていいよ。あの日のことも、暇を請いに来たことも。全部、忘れて__」 けれど、一つだけ覚えていて欲しい。 雪の止んだ深夜、ここで話したことだけは……。 一番辛いことは、お前が傍にいないこと。 それ以外は、もう望まない。 言っただろう? 彼女を手放すくらいなら、自分の気持ちくらい抑え込んでみせる、と。 「僕が氷麗を好きだって言ったことは、無かったことにしよう。そうしたら、お前は暇を願うことはしなくていいだろう?」 彼女に伸ばしたい手を、ぐっと堪える。 触れることは、もうできない。 「今のまま、お前が飽きるまで、この屋敷にいて。僕の傍にいて。__それが叶うなら、もう隣になんてわがままは言わないから」 約束したろ、傍にいてと。 お前は、はいと応えたはずだ。 距離なんてどうでもいい。 お前が嫌がるのなら、隣にいて欲しいなんて…もう言わないから。 その代わり、願わくば__。 「今まで通り、僕の傍にいて」 それが音となって消えた頃には、部屋の空気に妖気が漂っていた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |