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何度も夢に見るのは、あの日のこと。







「氷麗」
彼女を呼ぶ声を思い出す。
それは彼女が今までに聞いたことのない、熱の篭った男らしい声だった。
思わずびくりと肩が震えたのは、その熱を知らなかったから。
「ぁ……」
何かを言わなければと思い、言葉を探すが、何を言うべきかなんて分からなかった。
耳元で囁かれた甘い言葉は、向けられることなんて想像さえしていなかったもので、どうしていいか分からない。
胸がどきどきと高鳴って気恥ずかしくて、氷麗は戸惑うようにリクオの胸から身体を離す。
肩を強く抱く腕は意外なほど素直に離れ、そのことにほっとする。
けれど、どこか寂しさをも覚え、氷麗は纏まらない己の感情を持て余した。
高鳴る鼓動が思考をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
いよいよどうしようもなくなって、誤魔化す方法しか見つからない。
氷麗は笑おうとして、失敗した。
「……私も、屋敷の皆も、若のことをお慕いしております」
心臓が飛び出そうなほど鼓動を打つから、胸が痛い。
リクオは寂しそうにその瞳を伏せた。
「氷麗。そういう意味じゃないって、分かってるだろ」
思いの外 力強い声に、氷麗はきゅっと袂を握り締める。
だって、そういう意味でなければ、思いつくのは一つだけ。
熱い声を思い出す。
想いがたくさん詰まった声音。
どこか苦しそうなそれに、胸が締め付けられる。

『僕の隣で笑ってて』
そしたら、辛い表情を見なくて済むのだと彼は言うけれど、隣にだなんていられない。
そこは、彼の妻の居場所。
側近はせめて一歩後ろが限界だ。

『氷麗…。__好きだよ』
彼が戯れでそんなことを言い出すはずがないことはよく知っている。
その声が切なくて、苦しくて、込められた想いを彼女に伝える。
氷麗は首を左右に振った。
「だっ、だめですっ」
耳に染み付いたその声を記憶から追い出そうとする。
思い出すな、忘れてしまえ。
彼の純粋な想いを自分が穢すわけにはいかない。
その想いを受け入れるわけにはいかないのだ。
「そんなこと、言わないでください……」
心に逆らう拒否の声は、ひどく弱いものだった。
「…………どうして?」
顔が上げられない。
問われる声には感情が篭っておらず、彼の表情が読めれない。
氷麗は唇を軽く噛んで、胸元で拳を作った。
鼓動は今や嫌な音を立て続ける。
「……勘違い、してしまいますから……」
あなたが私と同じ想いを抱いてくださっていると、勘違いしてしまう。
だから、どうか早く取り消して。
冗談だよ、って笑ってください。
そしたら、年上をからかうものじゃありません、って久しぶりに怒って差し上げますから。
笑って、忘れてしまいますから。
しかし、氷麗の願いとは逆に、リクオは手を伸ばして彼女の手に触れた。
驚いて表情を上げると、リクオがじっと見つめていた。
その瞳から目が離せられなくなる。

__これ以上、聞いてはいけない。

直感がそう告げるも、握られてしまっている手では耳を覆うことさえできない。
「__勘違いじゃないよ」
瞳の奥で揺らめく熱に、侵される。
声が彼女の心に染み込んで、心にかけた鎖を、外そうとする。
「……っ、いけませんっ!!」
寸でのところで、その握られている手を離そうとする。
これ以上近づけば、ずっと抑えていた感情が露わになるという予感があった。
しかし、いつかのようにリクオは優しくなかった。
腕を自分の方に引くが、リクオは離そうとしてくれない。

__怖い。
自分の感情を抑えられなくなることが、怖い。

「いけませんっ。お分かりですか、その意味を?」
あなたの隣が妻の居場所であることを。
その言葉を、従者に言う意味を。
戯れでなければ、言ってはいけない言葉のはずだ。
あなたの隣は、従者が収まっていられるような場所ではない。
魑魅魍魎、百鬼夜行の主たる存在。
彼は、彼女にとって永遠に手の届かない存在でなければならないはずだ。
一生、憧れのままでなければならないはずだ。
本当は、こんなに傍に寄れるお方ではないはずだ。
側近とはいえ、こんなに簡単に触れていいお方ではないはずだ。
彼の傍は居心地が良くて、ときどき忘れてしまう。
忘れてはならない、己の感情の制御さえ__。

握られた手に、力が込められた。
かと思えば、そのまま引かれ、彼の胸で抱きとめられる。
その懐はいつの間にか男らしく、大きなものだった。
「分かってる。分かってるよ……」
耳に入り込む切ない声音。
いつの間に、彼はこんなにも男らしくなったのだろう。

氷麗は、リクオが好きだった。
幼い頃から側近としてお世話をし、共に遊び、その成長を一番傍で見守りながら。
優しさを失わないその背中に憧れた。
痛みさえ押し隠すその笑顔に惚れた。
従者としては、過ぎた想い。
決して抱いてはいけないはずの、邪な想い。
憧れならば構わなかったのだ。
彼に従う百鬼は皆、彼の畏れに憧れた。
けれど、そこに男女の情を割り込ませるのがいけないのだ。
不純な想い。
たとえ関係を持たずとも、その想いだけでかの純粋な主は穢されてしまう。
彼を守るはずの側近ならばこそ、決して抱いてはいけないはずの想いだった。
それでも、一度芽生えた感情が消え去ることはなく、日に日に大きくなるそれを気づかれないように、細心の注意を払って自分の心に押し込めていた。
せめて一生告げるまいと己に誓って、その心を鎖でぐるぐる巻きにして、硬く鍵をかけた。
それなのに……。

__その鍵が、外れそうになっている。
彼の想いに呼応して、想いが外に出たいと暴れている。
胸が、痛い。
切なさが心に染みて、涙が黄金の瞳を覆う。
一度解き放ってしまえば、自分がどうなるか分からない。
こんなに強い感情を抱いたのは初めてだから。
怖いのだ。
自分の感情を抑えられなくなることが。
自分が自分でなくなるかもしれないことが。
氷麗は胸を押さえて暴れる感情を押し殺し、リクオに抱き締められたまま何度も何度も首を振った。
触れる腕から温かさと一緒に想いが染み込んで、彼女を苦しめる。
それを追い払うように、何度も何度も拒否を示した。
「氷麗」
呼ばれる声は、いつになく優しい。
どうしようもなく、涙が溢れた。
「氷麗、今すぐに答えを出せなんて言わない。ゆっくり考えて。どれだけかかってもいい。答えが出たら、教えて」
答えならもう出ている。
たとえ何を言われようとも、彼に応えるわけにはいかない。
彼と彼女は主従関係だ。
それを、覆すわけにはいかない。

__それなのに……。
声が、出なかった__。






あれから、何日経っただろう。
いつの間にか、学校は春休みに入り、毎日の学校へのお供も今はお休みだ。
頭を整理するにはちょうどいい。
氷麗は縁側に座り込むと、ぼうっと外を眺めた。
春の空は淡い色をしていて、陽射しが柔らかい。
妖怪には居心地が悪くなるくらいの爽やかさだった。
「雪女ちゃん」
声にそっと振り向けば、そこにいたのはリクオの母、若菜だった。
昼リクオによく似た陽だまりのような笑顔を浮かべている。
「あなたはお昼寝はしないの?みんな眠っている時間帯よ」
言われてみれば、道理でさっきまで人の気配のあった屋敷が静まっているわけだ。
氷麗はリクオが八歳のときから学校にお供でついて行っているため、休みと言えども昼寝をしない習慣が身についている。
もうほとんど人間の生活リズムが染みついていることを思い知る。
氷麗は笑った。
「眠く、ないですから」
しかし、その笑顔がどこか疲れを感じさせるものであること、その目の下にかすかな隈があることは、本人だけが知らない。
若菜は氷麗の隣に腰を下ろす。
「どうしたの?ぼうっと外なんか見て」
いつものように緩い口調で若菜は問う。
「…………いいえ。深い意味はありません……」
たとえ若菜であろうともリクオの母に話せる悩みでもなく、氷麗は硬い声で視線を外に戻す。
若菜はどこか寂しそうに口元を歪めると、ぽすりと彼女の頭を抱え込む。
「眠りなさい。いくら考えても出口が見えないときは、一度眠ったほうがいいわ」
また熱を出してしまうわよ、と続けると、彼女の身体から力が抜ける。
そのまま氷麗の頭を膝の上に寝かして、宥めるようにその髪を梳いた。
その優しさに母を思い起こして、氷麗はそっと目を閉じた。
不意に寂しさに似たものが込み上げてきて、思わず泣きそうになる。
最近涙腺が緩いのだろうかとぼんやりと考えた。
ここ数日眠れていなくて、頭がうまく働かない。
鳥がチチっと鳴いて、閉じていた目を開く。
明るい光が、瞳を刺した。
「若菜さま。先代とご結婚を決意なさったとき、どんなお気持ちでした?」
どうしてこんなことを尋ねたのだろう。
もしかして、自分の悩みに答えをくれるような気がしたのだろうか。
氷麗にはもう分からなくなっていた。
若菜は漆黒の髪を梳く手はそのままに、視線を庭に投げる。
「私が人間で、あの人が妖怪とだということは、一生変わらない。だから、そんなことにこだわるのはやめたの。だって、私は彼を愛していて、彼も私を愛してくれた。妖怪だから、愛したわけではないもの。だから、妖怪だからといって嫌うはずもないわ」
若菜は遠い昔を思い出すように、そっと目を細めた。
もう思い出すことも少なくなった、けれど、大切な愛おしい記憶。
それは決して、平和なだけではなかったけれど。
「不安が全くないというわけではなかった。あの人のように、いい妖怪ばかりでもないことも私は知っていたから。屋敷のみんなに比べて、私はたった数十年生きただけの小娘だし、何の力もない。家事が凄く良くできるわけでもない。むしろ、あなたたちのようによくできた妖怪がたくさんいた。私の居場所は、最初この屋敷にはなかったの。尤もあの人が選んでくれたから、私に意地悪するような人もいなかったけれど…。あの人の隣だけが、私の居場所に思えた」
妖怪にとって人間とは、所詮 贄だ。
彼らの主が選んだ人間だからと食べられるようなことは決してなかったが、それでも当然のようにあっさりと受け入れられるはずもなく、侮られていた。
彼の前妻が妖怪で、美しくもあればそれもまた仕方がない。
「あの人は、乙女さんをいつまでも想っていたわ。事情は知っていたけれど、ときどき悔しいくらいにね。けれど、あの人は傷ついていたの。もう何百年も経っていたけれど、誰も触れようとしなかったその傷は、全くと言っていいほど治っていないようだった。深く愛した人を失ったんだもの、当然だわ」
むしろ、彼は痛ましいその傷を残すことで、彼女のことを忘れまいとしていたのかもしれなかった。
彼女と重ねられているとは思わなかったけれど、ときどき突拍子もなく外を眺める彼に、寂しさが募った。
「その傷を治すのが、私の役目だと思った。寂しい夜はそっと抱きしめて、泣きたいときには背中をさすって、弱音を吐きたいときには聞いてあげる。それが、妻の役目でしょう?唯一、隣にいられるものの役目だわ」
彼に従う妖怪たちにはできないことだった。
彼は傷なんて痕さえないというように振舞っていたから。
それができたのは、彼と対等な隣という立場にある若菜だけだった。
やがて彼がぼうっと外を見ることがあまりなくなった頃、彼と彼女の悲願だった妊娠の旨を伝えると、彼は大喜びだった。
見つめる瞳には若菜と腹の子を慈しむ色が垣間見えて、決して跡継ぎだから喜んだわけではないことを知らせ、若菜は嬉しかった。
乙女を愛し、若菜を愛し、リクオを愛し、屋敷の妖怪たちに敬意を持って対し、人間さえも受け入れる。
そんな男だった。
若菜は氷麗に視線を落とし、その頭を撫でる。
「リクオには、あなたがいる。私よりも近い位置に、あなたが。だから私は安心していられるの。ただ、あの子を信じて、あの子を愛しているだけで」
心配はいらない。
あの人との子だ。
惚れた女のためなら、どこまでも強くなれる気性を知っている。
彼女を遺して死んだりすることはないと言い切れる。
若菜は氷麗を見つめて微笑んだ。
「リクオを、よろしくね」
氷麗はそれには答えなかった。
けれど、止めどなく堂々巡りをしていた思考は一つの方向を定めた。
結局、彼女の選べる道は一つしかない。

やがて、審判は下される。



氷麗はただひたすら、外を見つめていた。









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