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「リクオさまっ!リクオさま、お待ちくださいっ。どちらに……」
下校中、リクオはまったくの無言だった。
その背中に話しかけるのは、いくら氷麗でも躊躇われた。
しかし、門を潜(くぐ)り玄関で靴を揃えた直後、立ち上がった氷麗の手をリクオは掴んだのだ。
ずんずんと進むリクオに引かれ、氷麗もついて行くより他にない。
どちらに向かっているのか、なんて質問は愚問だった。
よく知っている奴良家の廊下。
その先にある部屋が誰のものなのか、氷麗はよく知っていた。
枝垂桜がよく見える縁側。
リクオは片手で氷麗の手を引いたまま、もう片方で障子を開け放つ。
そして、かばんを無造作に置くと、文机の前で胡座をかいた。
未だ戸惑う氷麗は部屋に一歩足を踏み入れたところで佇んでいたが、座るように促されその場に正座をした。
長い沈黙が下りる。
ちょうど屋敷の妖怪たちはお昼寝中なのか、ひどく静かだった。
居心地を悪くした氷麗が耐えかねて口を開こうとすると、ようやくリクオが声を発した。
「あの__」
「……氷麗、怪我してない?」
「ぇ…………」
唐突なことに頭がついていかない。
氷麗はぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、リクオを見つめた。
「怪我、ですか?どうしてそんなこと……」
「どうしてって、刃物向けられてただろう」
返ってきょとんとするリクオに、氷麗さっきのことを思い出す。
如何せん、自分の身に起こったことより、常にないリクオの様子の方が心配で、そんな些細なことなんて忘れていた。
「あ、平気です。怪我はしてません」
しかし、そう返したにも関わらず、リクオは疑いの眼を彼女に向けた。
「本当に?僕の目を見て言える?」
ぱっと見、目立つところに傷は見当たらないが、だからと言って、怪我をしていても隠そうとする氷麗の気性を知っているから、すぐには安心できない。
そんな彼の心内がわかっているように、氷麗はリクオの瞳を見つめて、微笑んだ。
「はい。大丈夫ですよ、リクオさま」
振り上げられ、振り下ろされかけた刃は、リクオの声に止められた。
変化していたとは言え、リクオに助けられたのだ。
護衛とは名ばかりの、弱い自分が情けない。
氷麗は畳に両手をつくと、深く頭(こうべ)を垂れた。
「申し訳ありませんでした。長くお傍を離れ、果てにはお手を煩わせてしまって……」
怪我はしていないと言い切った彼女にほっと表情を緩ませたリクオだが、続けられた台詞に表情が歪んだ。
「氷麗。どうして一人で行ったりしたの?言っただろう、僕に知らせてって。なんで黙ってたの」
思わずキツい口調になってしまい、氷麗は戸惑うように視線を揺らした。
「あ……いえ。その……、待ち伏せされてたんです。今日は下駄箱には何も入っていませんでしたし、私は知らなくて」
だから、予め知らせることはできなかったのだと氷麗は弁明する。
しかし、リクオは眉根を寄せた。
「今日はってことは、あれ以外にもあったの、果たし状」
「……、はい」
氷麗は決まりが悪そうに顔を歪めた。
リクオが知っているのは、最初の一通限りだ。
それなのに、氷麗は他にもあったと言う。
いつも一緒に帰っていたというのに、気づかなかった自分が口惜しい。
氷麗は懸命に弁解した。
「っでも、確かにあれ以来も果たし状はありましたが、それらは全て処分していました。私がその場に行ったことは一度もありません」
言い募る氷麗は顔を上げると、リクオを見て言葉に詰まった。
彼は、ひどく辛そうな表情を浮かべていた。
「__どうして黙ってたの、氷麗。行くなとは言ったけれど、一人で抱え込むなとも言ったよね」
僕に知らせるようにと最初に約束しただろう。
そう続ける彼に胸がいっぱいになる。
答えは簡単だ。
辛く歪むリクオの顔を見たくなかったからだ。
ラブレターのときも、果たし状のときも、リクオは何故だか辛そうな表情を浮かべていた。
約束はしたが、また下駄箱に入れられた手紙を見せれば、リクオを悲しませてしまう。
だから知らせなかったのだ。
知らせなければ、リクオのそんな表情を見ないで済むと思ったから。
なのに__。

氷麗の目尻から畳の上に零れ落ちる涙。
氷麗は袂で口を押さえた。
けれど、ぱらぱらと軽い音は止まない。

__また、同じ顔をさせている。
それが悲しくて、胸がいっぱいで、それらは言葉にならなかった。
「ごめん」
声とともに、ふわりと暖かいものに包まれる。
「ごめん、八つ当たりだ。こうなったのは、僕のせいなのに」
氷麗はリクオの胸の中で何度も何度も首を横に振った。
「いいえ。私が目立つ容姿のことを考えなかったから……」
ついうっかり忘れていた。
ずいぶんと雪女としての業から離れていたから。
己の美貌が男に惚れられやすいことを。
女の醜い嫉妬を受けやすいということを。
雪女は人間の中に混ざると、その美しさ故に目立ちすぎるということを。

雪女は総じて美しい。
けれど、その美しさが日常の上で役立つことなんて、一度もない。
生きている以上、醜い感情に当てられる雪女は心を守るため、矜恃が人一倍高い。
身体をいくら貶めようとも、心は決して穢されない。
ただ一人、生涯付き従うことを誓う男が現れるまで。
それが雪女なりの誇りだった。
けれど、それ故に彼女らの基準は高く、そもそも顔で惚れるような男には心を許さない。
結局、その美貌は主を決めるときでさえ、役には立たない。
ときどき、そんな美貌が嫌になるのだ。
「氷麗が目を付けられるくらい美しいのは、ずっと同じだろう。それをわざと目立つようにしたのは、僕だから」
リクオの吐露に氷麗は顔を上げた。
しかし、抱き締められた状態から見上げても、リクオの表情は見えなかった。
「僕が、氷麗は僕のものだって皆に言いたいがために、氷麗を目立たせたんだ。
……ごめんね、怖い思いさせて。人間が相手とは言え、凍らせちゃって良かったのに……」
氷麗は、涙の浮かぶ瞳で微笑した。
目に溜まった涙が、細められた目から零れて畳に転がる。
「力を使うためには、一度本性に戻らなければなりません。私が妖怪だと知れれば、学校にお供するのはもう無理でしょう。お傍にいると約束したのに……__」
「そうやって、僕に迷惑がかかるくらいなら怪我した方がマシだなんて考え、やめてよ」
急に硬くなった声音に驚き、氷麗は包むような腕から抜け出して、リクオを見上げた。
その表情は、どことなく怒っているようだった。
「氷麗に刃が振り下ろされるのを見たとき、僕がどんな気持ちだったか分かる?」
思えば、捩眼山の一件のときも然り。
命の危機にはもちろんのこと、人間が相手であろうと、毎度同じ思いだ。
これにはいつまで経っても慣れそうにない。
そもそも慣れる慣れない以前に、僕が守れるほど強ければ良いのだけれど……。
リクオはまた、表情を歪めた。
「……リクオさま……」
「心臓が、止まりそうだった。……氷麗が怪我するのは嫌なんだ。回避できる方法があるなら、僕に迷惑だとか考えなくていいから、避けてよ」
リクオは離れた氷麗の頬に指を滑らせる。
「氷麗の、自分を犠牲にしてまで何かを守ろうとするところは、嫌いだ」
命を賭してお守りするのだと彼女は簡単に言うが、そんなことされても、嬉しくない。
たとえ生き残っても彼女を失えば、彼の心は絶望に塗り潰される。
自分の身さえ守れない三代目では、その命を賭けるほどの価値があるとは思わない。
願わくば、守られるのではなく、彼女を守れる男に。
「どうしたら……どうしたら、そんな顔をなさらないでくださいますか」
辛く歪んだ表情を見たくなくて、氷麗は頬を包むリクオの手に指で触れる。
その細い指は小さく震えていた。
「いつも、僕の隣で笑ってて。後ろじゃない。隣で……」
その言葉が表す意味に、氷麗は目を瞠る。
ぐいっと強い力で引き寄せられたかと思うと、氷麗の身体はリクオの胸に飛び込んでいた。
さっきとは違い、抱き締める腕は力強く彼女を抱いていた。

胸を締め付ける想いに、リクオは目を瞑る。
従者と主の関係の彼らに、この一言は禁句だった。
先日のラブレターの一件の比ではなく、確実に音を立てて崩れるものが目に見えている。
それでも……。
愛しくて愛しくて、胸が苦しい。
大切すぎて、困るくらいだ。
知らずに育まれた想いは本人の預かり知らぬところで大きくなり、それはもう、リクオの心だけに押し留めることはできないほどだった。

氷麗の黒髪に隠された小さな耳に口を寄せ、低く囁く。

「氷麗…。__好きだよ」

想いの丈を、彼女に。



氷麗は彼の胸の中で、大きく黄金の瞳を見開いた__。









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