3 __バタバタと慌ただしい足音が遠くから聞こえる。 どうやらひどく焦っているようで、その勢いのまま扉が開け放たれる。 リクオが視線を投げると、そこに居たのはひどく呼吸を乱した家長カナだった。 どうしたの、と声をかける前に、彼女は叫んだ。 「リクオくんっ!どうしようっ、及川さんが__」 それを聞いた瞬間、50mを5秒代で走る俊足は、教室を後にした。 明らかにガラの悪そうな女が数人、一人の女を囲んでいた。 「あんたさぁ、最近少しばかり調子に乗りすぎなんじゃない?」 どん、と肩を押され、壁に押し付けられる。 「ちょっと美人だからって、目立ちすぎなんだよっ」 容姿が目立つのは、私が望んだことじゃない。 「かっこよくもない彼氏見せつけてくれちゃってさー、目障りなんだけど〜」 あの方は、本当は彼氏じゃない。 「ふん、よくもあんな低いレベルの男で満足してんな」 「そうそう、見てるだけで目ぇ腐りそうなんだけど〜」 きゃははは、と他人を小馬鹿にする笑いが癇に障る。 氷麗は思わず眉根を寄せた。 「黙りなさい人間。お前たちにリクオさまの何が分かる」 目を据わらせ、低い声で凄むと、女たちは彼女から立ち昇る殺気に一瞬言葉を失った。 しかし、女たちはすぐに鼻で笑い、虚勢を張る。 「はん。急にキャラ変えやがって」 「それにしても、リクオさまって……」 クスクスと漏れる笑いは、明らかに彼女の主をバカにしていた。 「あいつ、見かけによらず、そんな趣味かよ」 そんな、というのが何を表しているのかは知らないが、どうやらまた余計な口を滑らせたらしい。 苦虫を噛み潰す氷麗に、遠慮容赦なく嘲笑が降り注ぐ。 不意に、一人の女が懐に手を伸ばしたかと思えば、その手には陽光に煌めく銀色の刃が握られていた。 それが挑発するように、ぴたぴたと氷麗の頬を叩く。 「自分の立場弁えろよ、及川氷麗。この状況でそんな大口叩いてただで済まされると思ってんのか?」 ぐっと小刀が肌に食い込む。 「なあ、あんたのそのお綺麗な顔に傷がついたら、あの男どんな顔するかな?」 女たちが総じて引っ提げるのは、卑下た笑い。 完全に自分たちの立場が上だと信じ込んでいる奴ら。 彼女の主をバカにする態度に虫唾が走る。 本性を明かし、雪女としての力が使えれば、こんな奴ら敵にもならない。 けれど、ここで本性に戻るわけにはいかないのだ。 本性を明かしたが最後、二度と学友に紛れて学校にお供ができなくなる。 傍にいると約束したばかりだというのに…。 氷麗はやるせなさに彼女たちを睨みつけた。 __そして何より、リクオと恋人同士を騙(かた)っている今、氷麗が妖怪である本性を現したら、リクオにも疑いがかかる。 主に迷惑のかかる行動を選択するくらいなら、多少の怪我など気にしない。 どうせ人間より治癒力の高い妖怪だ。 多少の怪我など早々に治る。 氷麗の瞳は揺れなかった。 その黄金に怯えの色はちらとも見えない。 刃物を手に持つ女が不愉快を眉に刻んで、忌々しげに舌打ちをした。 「その目が気にいらねぇんだよっっ!!!」 刃物が、音もなく振り上げられた__。 絶対に屈することはしないと決めていた。 それが、誇り高き雪女である彼女の譲れない矜恃だった。 彼女が唯一認めた主のためならば、この命さえ惜しくはない。 もともと彼のために死ぬ覚悟は、とうに決めていた。 いつ何時も__たとえそれが死す瞬間であっても、決して目を瞑るまいと心に決めていた。 だから、人間の持つ刃が振り上げられたとき、その刃が陽光に煌めくのを彼女はしかと見ていた。 持ち主の苛立ちを乗せ、その刃が振り下ろされる__。 「そこで何やってんだっっ!!!」 声が、聞こえた。 いつもの穏やかさとは天と地ほども差のある、ひどく切迫した声色。 その語気の荒さに、振り下ろされていた刃がビクリと停止した。 その刃の向こうに目を吊り上げ、呼吸を乱す男が見えた。 茶と黒の混じった短髪。 何の加減か赤く光る瞳。 荒い呼吸を繰り返す肩。 硬く握り締められた拳。 「……リクオさま……」 彼女は彼の名をそっと零す。 その声に促されたように、刃物を手に持つ女がリクオを振り向いた。 そして、その表情を歪めて口角を引き上げる。 「はん。腰抜けが、王子様気取りか。これからお前の惚れた容貌(かお)に傷がつくんだ。そこで大人しく見てな__」 その卑しい笑みを貼り付けたまま、女が今一度氷麗の方に視線を返した瞬間__。 女は、首元のひやりとした感触に、本能が危機を訴える。 冷たい汗が一気に噴き出した。 女は一寸たりとも身動きが取れなかった。 「お前たちの方が大人しくするべきじゃないのか? __それとも、死にたいか?」 赤い目が爛々と光っていた。 男から立ち昇る殺気に気圧される。 氷麗にナイフを突き立てようとした女のちょうど頸動脈に、祢々切丸が当てられていた。 少しでも刀が肌に食い込めば、容赦なく血が噴き上がる急所。 そして、その殺気に満ちた瞳は、彼が躊躇なくそれを為すことを、嫌というほど彼女らに思い知らせていた。 「リクオさまっ!」 立ち昇る殺気に逆に焦りを感じ、氷麗は悲鳴のように彼の名を呼んだ。 こんなところで彼の手を余計に血に穢すわけにはいかない。 必要のない殺しなど、彼に背負わすことはできない。 「氷麗、こっちにおいで」 目線は獲物から離さないまま、リクオは氷麗を呼ぶ。 彼女に向けられる声だけは、わずかに硬いと言えども、いつものリクオの声に戻っていた。 氷麗は囲まれていた女たちの間をすり抜けて、彼の傍に佇む。 さっきまで調子の良かった女たちはリクオの気迫に呑まれ、たとえ氷麗が隣を通ろうとも一歩も動くことはできなかった。 氷麗がすぐ隣まで来ても、リクオは祢々切丸を降ろそうとはしなかった。 「この女が反撃しないのをいいことに、丸腰の女相手に刃物とは良い度胸じゃねぇか」 殺気の消えない瞳と地を這うような低い声。 「リクオさま、もう……」 平和の中でのらりくらりと育てられた人間の子だ。 ここまでの殺気と緊迫感に身を投じるだけでも、過ぎる灸を据えられたことに等しい。 これ以上は可哀想に思えて、氷麗はリクオを制止させようする。 彼は氷麗を一瞥すると、小さく息を吐いた。 祢々切丸が女の頸動脈から外される。 やっと身動きが取れるようになった女は、恐怖に身体が震え出して地面にへたり込んだ。 それを無機質に見つめる目は、いつの間にか茶色に戻っていた。 「一つだけ言っておくよ。僕の仲間に手を出したら、僕は容赦しない。僕の手は血で塗れてるんだ。今更君たちの血が染み込んでも、痛くも痒くもない。 …君たちは僕の大切な女に手を出した。僕としては殺したいくらいだけれど……、氷麗が望まないから、やめとくよ」 それは、女たちには最も屈辱だろう。 命を狙うとまではいかなくても、多少は懲らしめてやろうかという程度で貶めた氷麗に、最終的には命を救われたのだから。 「僕の仲間に文句があるなら僕のところにおいで。それが本当にこちらに非があることなら、きちんと改めさせるよ」 言い捨てて、リクオは動かない女たちに踵を返す。 その視界に映らないところで、女たちは抑え切れない激情に、唇を噛み締めていた。 ふと気づくと、彼らの前から人影が二つ走り寄ってくる。 教室を飛び出したリクオを追いかけて来たゆらとカナだった。 「奴良くんっ、その刀__」 ゆらが一目で祢々切丸に目を止め、尋ねる。 その刀が妖怪しか切れない特殊なものであることを知っていても、真昼間からそんな物騒なものが手に握られているという不自然さに、聞かずにはいられなかった。 「大丈夫だよ。今回は刀が汚れる事態にはならなかったから」 リクオはにっこりと笑う。 その言葉に隠された真意に気づくゆらは、へたり込む女たちに憐れみを含む視線を向けた。 そこに同情する価値はない。 リクオは足を止めず、後ろを振り返りさえしなかった。 祢々切丸を鞘に収め、リクオはそれを懐にしまう。 「氷麗、おいで。帰ろう」 呼ばれた彼女は彼の傍に小走りで駆け寄る。 いつの間にか通り過ぎていたその二人の背中を、カナはぼうっと見つめていた。 四人は一言も言葉を発することなく、教室に戻る。 教室に入る前に、毎朝の別れの挨拶のように、ざわつく廊下でリクオが口を開いた。 「氷麗、かばん取っておいで。今日はもう帰ろう」 彼の言う『帰ろう』が帰宅を意味していたことに気づき、氷麗は驚いた。 真面目なリクオがエスケープをしようとするなんて。 しかし、真面目なリクオがエスケープをしようとするくらいだから余程の理由があるのだろう、と氷麗は何も訊かずに従った。 ぱたぱたと軽い足音を立てて自分の教室に入る氷麗を、リクオはただ見つめていた。 そしてリクオも教室にかばんを取りに入り、準備の整ったかばんを手に、ゆらの机に寄る。 「ねぇ、花開院さん。次からの授業、適当に誤魔化しといてくれないかな」 帰宅準備の整っているリクオに姿にゆらは驚くが、すぐに笑った。 状況を知っている彼女は、何が原因だったのかも、リクオがどうするつもりなのかも、大筋読めていた。 「ええけど……、ちゃんと片、つけなや〜」 相変わらず鋭い一言に、リクオは苦笑を返した。 廊下で落ち合った二人が、階下に下りていくのが教室のドアから見て取れた。 不意にカナに視線を向けてみると、彼女は悲しそうな表情でその二人を追っていた。 目が合うと、カナの顔は歪み、泣き笑いのような表情を浮かべた。 昼休みが、もうすぐ終わろうとしていた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |