伝えられなくて 1 雪の気配は収まったものの、まだ寒さの残る冷気が空気を澄ませている。 しん、と冷え込む朝の空気。 生き物は寝坊をしているのか、音らしきものは聞こえない。 耳が痛くなりそうな静寂を、突如張りのある声が破った。 「氷麗〜!!なにやってるの。遅刻するよ〜」 静かな大きな屋敷に響く男の声。 その主は制服の上にコートとマフラーを着込み、外気の冷たさに鼻を赤くして待っていた。 「あっ……すみません、若。今すぐに」 若のご登校だと暇な妖怪たちが起き出して見送りに集まる。 その間を縫って、氷麗と呼ばれた女が彼の待つ玄関に躍り出た。 同じく制服にコートを着込み、純白のマフラーを巻いている女。 リクオとは違って、氷麗はどことなく浮かれている様子だった。 見送ってくれる妖怪たちにいってきますと礼儀正しい挨拶を残し、奴良組三代目総大将とその側近たちは並んで屋敷の門をくぐって出ていく。 「なにしてたの?」 学校までの通学路を歩き、リクオはマフラーに頬を埋めながら尋ねた。 半歩後ろを歩く氷麗は申し訳なさそうに肩を竦めた。 「すみません、久しぶりで楽しくなっちゃって、ついつい時間を忘れて片付けしてました」 氷麗は家事を楽しみながらこなす。 仕事を好いて楽しんでできることは良いことだが、リクオは時々心配になる。 だから、氷麗が熱を出して以来、リクオは静養を命じていたのだ。 二日ぶりの家事に時間を忘れるくらい夢中になった彼女は、どこかほくほくと弾んでいた。 「病み上がりなんだから、ほどほどにしなよ」 リクオが思わず苦笑すると、氷麗は満面の笑みで快諾の返事をした。 いつもより少し遅い時間。 この時間はちょうど生徒たちがたくさん登校してくる時間帯のようで、いつもより校門が騒がしい。 不意に視線を感じたような気がして、リクオは周囲を不自然にならない程度に見回した。 しかし、確かな証拠も見つけれなくて、リクオは首を傾げる。 ……?いつもより人が多いからそんな気がするのかな? そのまま校舎に入り教室に向かうが、それでも違和感は消えなかった。 「それじゃ、若。放課後に迎えに参りやすね」 「うん」 拭えきれないそれを抱いたまま、教室の前でリクオは側近たちと別れる。 からからと扉を開けて入ると、教室中の目がリクオに向き、リクオは思わず固まった。 数多の視線が突き刺さったかと思うと、それらはすぐに背けられ、何故かひそひそと内緒話を始める。 「………ぇ〜っと?」 何がなんやら分からないリクオは扉を開けた格好のまま動けずにいた。 「おい、奴良っ!!」 そんな彼に近づく人影が四人。 言わずもがなの清十字怪奇探偵団のメンバー(一部)である。 先頭を切ってリクオに詰め寄るのは、島だった。 「あ、おはよう、島くん」 目を吊り上げている島に気づいていないのか、リクオは緊張感が欠けるほどのほほんと朝の挨拶を述べる。 しかし、島はそれに応える余裕すらないようで、鬼気迫る雰囲気で更にリクオに詰め寄った。 その気迫にリクオは、まさか夜のリクオと昼のリクオが同一人物だとバレたのかと肝を冷やす。 「正直に答えろよ。お前、及川さんとつ…つっ……__」 「付き合っているんじゃないかという噂があるんだが、事実かい?」 どうしても認めたくない事柄を口にできない島の代わりに、清継がその先を引き継いだ。 リクオは懸念した事柄ではなかったことに安堵し、予想の斜め上を突く内容に呆けた。 …………。 え、及川さんって雪女の氷麗のことだよね。 付き合ってるって……恋人ってこと…………? パチパチと瞬きを繰り返しながら思考を纏めていく。 瞬きの合間に見渡せば、四人が冗談でからかっているわけではないことが分かった。 事態の理解ができた瞬間、その思いも寄らない内容に、リクオは驚きの声を上げる。 「ええっっ!?ちょっ、なんでそんな噂が……」 「この前の木曜だったか?君は我らのクラブもないのに残っていて、更には及川くんが迎えに来たそうじゃないか」 「一度気づいてみれば、なんで今まで気づかなかったのか不思議なくらいだよね〜」 「ね〜?いつも二人ともくっついてたし」 噂の元をいちいち説明してくれる清継に加勢する形で、巻と鳥居が更に追い討ちをかける。 四人にじりじりと詰め寄られ、リクオは思わず後退(あとずさ)った。 「ちょっと待ってよ、みんな。別にそんなんじゃ__」 弁明しながら廊下に追い立てられていくリクオの肩が、誰かに当たる。 「ぁっごめっ__あれ、青?」 咄嗟に謝るために振り向くと、そこにいたのはさっき別れたばかりのがたいのいい男子。 もう一人の側近、青田坊だった。 思わず素で呼んでしまって、慌てて倉田と呼び直す。 「ど、どうしたの、倉田くん」 倉田は強面に似合わず困った顔をしていて、腰を屈めてリクオに耳打ちする。 「すいません、若。ちょっと俺じゃどうしようもなくて……。その、雪女が__」 「氷麗が!?」 氷麗の名を聞いた瞬間、上がった声は最早反射だ。 そのまま悠長に倉田の話を聞く余裕を失い、リクオは氷麗の教室に視線を向ける。 ざわつくその前には人集(ひとだか)りができていて、視力の良い目はその中心に氷麗を見つけた。 困っている表情までを読み取って、リクオは考える間もなくそこに走り寄った。 「氷麗っ!!」 人集りを掻き分け身を捩り、囲まれている氷麗まで辿り着くリクオ。 「リクオさまっ」 「この騒ぎはなに?」 その答えは既に島から聞いて知っているのだが、如何せんここまで騒ぎになるとは思いもしないのか、リクオはそんなことを問う。 事の顛末をリクオに説明しようとする氷麗より一拍早く、彼女を囲んでいる周りの女子らが口を開いた。 「奴良くん、この場ではっきりさせようよ」 「二人は付き合ってるの?」 畳み掛けられる質問に、リクオは往生際が悪くも逆らう。 「だから、なんでそんな話に__」 「だって、この前二人で帰ってたじゃない。ちゃんと目撃者がいるんだからねっ」 「二人は家の方向が一緒なの?」 「幼馴染とかそういうオチ?」 「付き合ってないなら、なんで一緒に帰ってるの?」 答える間もなく次々と浴びせられる質問の嵐。 リクオはこの場をどう切り抜けようかと思考を巡らしていて、気づかなかった。 氷麗が真面目にもそれに答える気配を。 「そりゃ、同じ家に住んでますから……__」 「氷麗っ!!」 氷麗は奴良組三代目総大将の側近だ。 住んでいる家だって同じだし、したがって帰るのも一緒だと、さも当たり前のように続けようとする彼女を慌てて遮る。 しかし、声となって聞こえてしまったものは取り消せれない。 恋人関係であることを肯定するよりもさらなる事実を肯定した言葉に、周りの女子は色めき立ち、男子は絶望に打ちひしがれる。 黄色い悲鳴を四方八方から聞かされる身は、煩いことこの上ない。 余計に事態を悪化させる一言を投じてくれた本人はまったくの無自覚なのだから、どうしようもない。 リクオは精神的疲労に目眩を覚えて、顔を覆った。 ………なんで、こんなことに……。 つい心が折れそうになるが、嘆いてばかりもいられない。 このままでは埒が明かないと判断したリクオは、強行突破を決意する。 「氷麗、逃げるからしっかり捕まってて」 氷麗の耳元で囁く声が終わるころには、二人はもう人集りの中心にはおらず、氷麗の黄金の瞳が映す景色はまったく別のものにすり替わっていた。 肌を撫でる冬の冷気。 優しい光の冬の太陽。 澄み切った冬の青空。 静かなこの蒼さを、リクオはとても気に入っていた。 「どっどうやったんです?」 彼らがいるのは、まだ雪の残る屋上だった。 教室からここまでは果たしてどれくらい距離があるのか。 簡単には分からないほどの距離を、リクオは一瞬で移動したのだ。 いくら普段リクオの畏れを間近で見ているとは言え、氷麗は目を見開いて問うた。 感情のままに真ん丸になる渦を巻く瞳に、リクオはくすりと笑みを漏らす。 「人間相手に畏れを使うまでもないよ。僕はぬらりひょんの孫だからね」 ぬらりくらりと本当を掴ませてくれない、ぬらりひょんの本質らしいにっこりとした笑顔。 氷麗はその表情に見惚れるが、それは早くも曇り、困り顔に変わる。 「それにしても困ったね」 その一言でさっきまでの騒ぎを思い出し、やっと事の重大さを理解した氷麗は慌てて頭を下げた。 「すっ、すみませんでしたっ。私、余計なことを……__」 「別に良いよ。事実なんだし」 妖怪である氷麗に人間の機微を察しろというのも無理な話だ。 付き合ってるという根も葉もない嘘は肯定しないものの、一緒に住んでいるという事実は肯定してしまうところは、いかにも氷麗らしい。 「でも……まあ、同棲してると思われただろうなぁ……」 別に良いと答えておきながらも、構わないで済まされる事態ではなくなった。 一緒に住んでいることまでは知られてしまったのだ。 若い男女が一緒に住んでいるとなれば、きっと同棲関係にある恋人同士だと思われるのが一般だろう。 さてどうするか、と考え始めるリクオに、氷麗が思いつきを口にした。 「使用人として住み込みで働いているっていうのはどうでしょう?」 側近というと人間には理解し難いかもしれないと思い、使用人と言い換えたが、そこには嘘がない程度の案。 確かに体裁は整っているように思われるが、リクオはすぐにそれを棄却した。 「いや。同級生を雇ってるなんて僕が何者だってことになるから、それはやめよう」 そんなことを言ったら、どんな富豪か社長の子息かと、またもやありもしない噂を掻き立てられかねない。 「何者だなんて……。リクオさまは奴良組三代目総大将。百鬼夜行を率いる、魑魅魍魎の主様でしょう?」 一瞬の間もなく切り返されるその答えに、リクオは苦笑するしかなかった。 「うん、そうなんだけど。だからって、それをみんなに説明するわけにはいかないだろう」 リクオが妖怪一家の主であることと氷麗が雪女であることはトップシークレットだ。 何があってもバレるべきではない。 「ぁぁ、そうですね……」 納得し、再び考え込む彼女をリクオは見つめた。 人の噂も七十五日とは言うが……__。 リクオは氷麗の視界に入らないところで、口角を引き上げた。 「ねぇ、氷麗。こうなったら本当に付き合ってることにしようか」 「__…ぇっ……」 回避すべきだと思っていた事態を受け入れるような発言に、氷麗は驚きを隠せない。 「まあ、青と氷麗が付き合ってて僕が青の友達っていう設定にしてもいいけど、それじゃあ困るだろう」 抽象的な言葉に氷麗はハテナマークを浮かべる。 その様子に微笑しながら、リクオはフェンス越しに校庭を見下ろした。 そこでは体育の授業が行われており、そういえばもう授業は始まっている時間であることを思い出す。 「ここまで広まったら周りの目もあるだろうし、そしたら僕は一緒に帰るわけには行かなくなるからね。僕がどちらかと一緒にいやすくするためには、多分 僕と氷麗が付き合ってるってことにしたほうが、何かと便利だと思うよ。……まあ、青には悪いんだけどね」 例えば有事のときの緊急相談もしやすくなるだろうし、みんなが気を遣って近寄らないだろうから話を聞かれる心配も減るだろう。 護衛のため、四六時中くっついていても誰も文句を言わない。 こうして考えてみると良いことばかりな気がして、何故もっと早く気づかなかったのだろうと思う。 「一緒に住んでいるのは、氷麗が居候してるからってことでどうかな」 氷麗は本家の構成妖怪だ。 しかも天涯孤独な彼女は、確かに居候同然だろう。 「氷麗の両親が忙しい人だとか、職業とかは適当に作って、意味ありげに笑ったら誰もつっこまないだろうし」 ね、とリクオは氷麗を見て笑った。 それは曇りを知らないかのように屈託ない笑みで、そんな笑顔の下で隠される主の黒い部分を知った気がした。 騙し、騙され、罠をし掛け、策略を練らなければ、生き抜けない妖怪の世界で、彼もまた生きている。 リクオも成長して、子供ではなくなっていることも知っていた。 しかし、夜のリクオはときどき呆気にとられるくらい真っ直ぐで、正々堂々と真っ向勝負をしかける人だから、どうやら忘れていた。 昼のリクオが力を持たない分、頭が回ること。 そして、必要があれば罠も嘘も仕掛ける人だということ。 その笑顔の下に、本音と痛みを隠していること。 優しい気性の裏に、純粋なまでの想いがあること。 だから、氷麗は主の意思には歯向かわない。 彼女が自らに課しているのは、リクオの心が壊れないようにすることだけだ。 「…………良いんですか?」 それは、確認だった。 学友に嘘を貫いても良いのか、あるいは、その相手が氷麗で良いのか。 そんなわずかな不安を解消したいがために、氷麗は問う。 リクオの意思に不安を持つことも珍しいことだが、事が事なのだからそれも仕方のないことだった。 そして、そんな滅多にない思いに惑わされ、氷麗は居候という設定だけですべての辻褄が合うことに気づいていなかった。 きょとんとするリクオに、氷麗は付け加える。 「家長とか、他の人間の女の子にもそれを通してしまったら、リクオさまがのびのびと生活できないのでは……」 それを聞いて、リクオは苦笑した。 そして、茶色の瞳を細めて氷麗を見やる。 それは本心を隠すための笑顔ではなく、心から溢れる思いのままに自然と零れた笑みだった。 「……良いもなにも…。僕は氷麗以上に大切な女の子はいないよ」 自分でも分かっている。 それは、ただの独占欲だ。 氷麗に人気があることはずっと前から知っていた。 雪女の美しさに惚れる者は多い。 そんなことはずっと前から知ってたけれど、でも、氷麗は変わらず僕の傍にいてくれたから、この前まで気にすることなく彼女を独り占めしていられた。 けれど。 先週のラブレターの一件によって、氷麗は僕のものじゃないことをまざまざと見せつけられた。 氷麗は僕の傍にいてくれるけれど、氷麗の心はどこか遠い。 彼女が僕を慕ってくれていることは感覚で分かっているけれど、そういうことではなく。 こんなに近くにいるのに、その心には手を伸ばせられない。 だから、嫉妬をする権利なんて、僕は持っていないはずだった。 それなのに。 手放したくないと、強く願ったんだ。 その心を欲してしまった。 そして、そんな自分を知った。 ずっと知らぬ間に積み上げられ、育まれた想い。 それを無視することは、もう無理だった__。 「氷麗、どうしたの。帰るよ」 ぼうっとしていたところを呼ばれ、氷麗ははっと我に返る。 リクオとの距離が少し離れてしまっている。 今 青はいないんだから、私がしっかりしないと。 そう心の中で気合を入れ直し、氷麗はリクオに駆け寄った。 青田坊(倉田)が登下校を共にしなくなって数日が経った。 どうやら、女子に睨まれ、邪魔をしないようにとキツく言い渡されたらしい。 リクオの予想通り、彼と氷麗のことはほぼ全校生徒に知られていたらしく、リクオが付き合っていることを認めてからは瞬く間に噂となり、今では公認カップル同然になっている。 そんな二人と登下校を共にする倉田は、確かに見物者には邪魔者だったろう。 これじゃあ護衛が務まらんと愚痴を零した青田坊に、氷麗は苦笑を返した。 青田坊は今、姿を隠して近くを歩いているはずだ。 「あ……」 下駄箱を覗いた瞬間、見つけたそれに氷麗は思わず声を上げた。 それに気づいたリクオが近寄り、下駄箱を覗く。 靴の上に乗っていたのは、明らかに女物と分かる封筒だった。 「なに、これ。またラブレター?」 リクオはそれをひょいと手に取ると、目の前に掲げてみる。 しかし、以前と違ってそこには差出人の名はなかった。 なにか嫌な予感がして、リクオは眉根を寄せた。 「氷麗。悪いんだけど、中を見てもいいかな?」 一応断れば、返ってくるのは快諾の声。 もし、これが僕の予想通りなら……。 リクオの手で切られ、取り出された便箋には、愛の言葉とは程遠い文句がえげつない文字で書かれていた。 「……やっぱり。果たし状だ」 そこには、いつ どこに来いということが書きなぐられている。 もともとその美しさが際立っていた氷麗が噂の的になったのだ。 周りには微笑ましく見守ってくれる人ばかりではなく、やっかむ人だっている。 リクオはその場で便箋を破り捨てた。 「ああっ、なにするんですか!」 まだ指定内容を覚えてないのに、と続ける氷麗は、やはりよく分かっていないのだろう。 特定できる要素を残さないようなやつだ。 正々堂々と行ったところで、どんな卑怯な手を使うのか分からない。 「行かなくていいからね、氷麗。行ったらだめだ」 強い口調で、見つめる瞳に力を込め、強要する。 約束なんてものでは生温い。 もし氷麗が納得しなければ、命令さえ使うつもりだった。 しかし、氷麗は嬉しそうに破顔した。 「リクオさまのお傍でお守りすることが私の使命です。そう簡単にお傍を離れるとお思いですか」 以前は少し迷いもしたが、それは初めての経験だったからに他ならない。 二度目ともなれば、迷うことさえない。 しかも彼女の主が行くなと行っているのだ。 それに逆らってまで、行く必要性を感じない。 確かに繋がっている心。 リクオはほっと安堵の息を吐いた。 「ねぇ、氷麗。約束して。さっきみたいなのが届いたら、僕に知らせてくれるって。一人で抱え込まないって。……約束できるね」 はい、と氷麗は答える。 その笑顔が眩しかった。 帰り道を、夕陽が赤く照らしていた。 [次へ#] [戻る] |