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「まぁったく、雪女が風邪引くなんて聞いたことないねぇ」
毛娼妓が枕元で呆れた声を零す。
隣にある桶にはどこから持ってきたのか雪がたくさん詰まっていて、雪女用の氷枕を作ってくれている。
「それともなんだい、知恵熱かい?」
雪女が寒くて風邪を引くことはまずない。
とすれば、この熱の正体はそれしかないだろう。
「ね…若は?」
熱で息苦しいのを堪えて尋ねれば、毛娼妓は小さな子供にするように、私の額の髪を払ってくれた。
「若は今は学校だよ。今日はあいにく、まだ金曜日だからねぇ」
その言葉で、今がまだ昼だということに気づく。
もう時間の感覚も狂っている。
「熱が出るまで何をそんなに考えてたんだい?雪女。あんたはいつも頑張りすぎるんだよ」
「いいえ。私は…私は、若のお役に立てない未熟者です。今だって、若の側近なのに……」
情けなさが身に染みると同時に、そういえばもう学校へは行かないと言ったことを思い出す。
熱のせいか、思考が上手くまとまらなくて、ぐちゃぐちゃな感情のまま何故だか泣きたくなった。
毛娼妓はそれを分かったみたいに、頬を手の甲でそって撫でてくれた。
「とにかく、おやすみなさいな。寝なくちゃ治るものも治らないよ」
その声に導かれるように、私の意識はそっと闇に呑まれていった。



毛娼妓は、雪女が深い眠りに落ちたのを確認し、氷枕の雪を替えて、そっと雪女の部屋を出た。
そして、空を仰ぐ。
天からは牡丹雪が庭に舞い落ちている。
それは昨日の夜から降り続き、辺りに銀化粧を施していた。
それを溶かすはずの太陽は既に沈み始めている。
「一途すぎるのも見ていて辛いもんだね」
小さな呟きは、しんと冷えた冷気に紛れて消えた。







昨日の夜から降りしきる雪を、縁側に腰掛けて眺めやった。
学校でも授業中も休み時間もずっと眺めていた。
集中なんてできるはずがなかった。
彼女が学校に来ていないだけで、どうしてこうも胸がざわつくのか。
自問する前に、答えはもう決まっていた。
雪を見ていると、それらを眷属にしている女を思い出す。
その冷たい手を思い出す。
その温かい気遣いを思い出す。
その笑った顔を思い出す。
その怒った声を思い出す。
その、零した涙を思い出す。
こうしていると、彼女が泣いている気がして胸が痛い。
その涙を拭ってやりたくても、彼女の涙は頬を濡らすことなく、凍って畳に落ちていく。
それならば、どうしたら僕は彼女を慰められるのだろうか。

「若」
女の声に、僕は振り返った。
彼女より少し低い声音。
当然、そこにいたのは彼女ではなく、ふくよかな女性。
「__毛娼妓」
「そんな薄着でこんな寒空の下にいたら、若が風邪を引いてしまいますよ」
僕は笑った。
笑って誤魔化すことが、いつからか癖になっていた。
「僕は大丈夫だよ。そんなに柔な身体じゃない」
今はもっと彼女の哀しみを受けていたかった。
それしか、今の僕には出来ないから。
「油断していると本当に風邪を引きますよ。若に風邪なんか引かせたら、雪女に怒られるのは私たちなんですからね」
いつからか、彼女は僕のことを怒らなくなった。
昔はよく悪戯をして叱られていたのに。
いつしか見上げていた彼女を見下ろすようになり。
いつしか懸命に追いかけていた背中が追いかけてくるようになり。
いつしか守られていた我が身で、守りたいと思うようになった。
毛娼妓は苦笑を零すと斜め後ろに正座した。
それが、七分三分の盃を交わした主と下僕の距離。
「今日は一段と早いお帰りでしたのね、若」
僕はまた、雪を被った桜の木を見やった。
「うん、まあね」
心配で心配で仕方なかったんだ。
授業も友達の話も耳に入らないほどに。
彼女の容態が、彼女が泣いていないか、彼女が…この降り続ける雪に還ってしまっていないか……。
「お見舞いに行ってあげないんですか?あの子は、病床で寝込んでいても若のことを気にしてますよ」
毛娼妓から聞かされなくても、予想はついていた。
冷たい手の、心の温かい女だ。
ずっと一緒にいたから、彼女がこんなときどう考えるかは分かっているつもりだった。
「うん……。でも、合わせる顔がないよ。氷麗の熱はきっと僕のせいだから」
見舞いに行っても、何を話せば良いのだろうと考えると、どうしても足が進まない。
「まあ、若ったら。女が風邪引いたのは自分のせいだなんて、随分大胆ですね」
毛娼妓は茶々を入れるようにころころと笑った。
「は__」
初めは何を言っているのか分からなかった言葉も、理解してしまえば顔が真っ赤に染まるのが分かった。
「ちょ、ちょっと毛娼妓っ!!なんてこと言うんだよっ」
まさか自分の言葉がそういう意味で捉えられるとは思わず、動揺しすぎて、危うく縁側から落ちそうになる。
「あら、違うんですか?私はてっきり……」
トボけながらも毛娼妓はまだころころと笑っていた。
僕は額に手を当て、疲れて溜息を吐く。
「怒るよ?」
口から出たのは、低い低い声だった。
それすらも意に介さず、毛娼妓は口元を袂で隠した。
「んふふ、嫌ですよ、若ったら。ほんの冗談じゃないですか」
「毛娼妓が言うと冗談に聞こえないよ」
「いえいえ。私こそ驚きましたよ。若も年頃の男の子なんですね」
………………。
なんだ、これは。
からかわれているのか、遊ばれているのか。
気疲れがどっと増して、僕は膝に肘をつき、両手で顔を覆った。
零した溜息が白く凍るところを見つめて、いつの間にか藍の空にぽかりと浮かぶ、彼女の瞳と同じ色の月を見上げた。
けれど、彼女の瞳の方がずっと温かい色をしている。
「…………僕は、皆が思ってるほど純粋じゃないよ。必要があれば嘘もつくし、敵を殺したりもする。この手は、もう綺麗じゃない」
それこそ、わずか八歳のときから血に汚れている。
僕はもう守られているだけじゃない。
大切な仲間を守る力がある。
守るために汚すなら、僕はこの手が血に塗れることさえ後悔はしない。
「ええ、よく存じ上げております。そして、綺麗なだけじゃないからこそ、私たちはあなたに着いてゆくのです」
正義の名の下に、僕は害をなす妖怪どもを切る。
それは人間を守るためでも、組を守るためでもある。
僕の驕りのための犠牲だ。
汚す手は、僕だけで事が足りる。
「でも、あの子はあなたのその手を汚したくなくて一生懸命でした。いつもいつも頑張ってばかりで。あの子は、ずっとずっと前からあなたにすべてを捧げて、すべてを預けていました」
言われなくても、知っていた。
幼い頃から共に遊び、共に笑い、同じ釜の飯を食べ、一つ屋根の下で眠った。
七分三分の盃を交わしたときも、真っ先に交わしたのは彼女だった。
「何があったのかは知りませんが、あの子をあなたから離そうなんて、考えないでくださいね。それが最後、あの子はこの雪のように還って消えてしまいますわ」
僕は縁側から庭に腕を伸ばす。
手のひらに落ちた牡丹雪は、僕の体温で溶かされ、一瞬で水滴となった。
雪は、一粒ではすぐに溶けてしまうほど、儚い。
しかし、こうして降り積もれば春が来るまで粘り続け、深い雪の中で雪女は生まれると聞く。
氷麗の故郷はどこだろうと思いながらも、氷麗の家はここだという直感が消えることはなかった。
「氷麗は、泣いていた?」
この雪たちが彼女の影響で降っていることは最初から気づいていた。
雪は、未だ降り止まない。
「さて、どうでしょう。気になるならお見舞いに行かれたらいかがです」
毛娼妓はやはり意地悪く笑った。







夢現で若のお声を聞いた気がした。
氷麗、とまた名を呼んでくださった。
目を開けてそのお顔を確認したいのに、意思に反して身体が言うことを聞かない。

リクオさま。
氷麗は、リクオさまのお傍に……。

縋るように伸ばした手が、温もりに包まれる。
その温もりが額に触れて、再び冷たい氷枕が乗る。
離れていく温もりが寂しくて、また手を伸ばす。
しかし、その手は何にも触れなかった。


ふっと浮き球が水面に浮かぶように、目を覚ます。
しん、と屋敷は静寂に満ちていた。
額の氷枕がまだ新しい。
寝乱れた着物を直し、障子を開けると、真っ暗な空に月が浮かんでいた。
月の位置で、今が真夜中だということに気づく。
ふと庭を見やれば、そこは月光さえ弾く銀世界だった。
そのまま惹かれるように、裸足で雪の上に立つ。
さっきまで冷たいと感じていた雪と体温が同化していた。
そのままさくさくと雪を踏んで庭を散歩する。
冷気が纏わりついて、心を引き締めていくようだった。
河童の泳ぐ池も凍っている。
春は見事な花を見せてくれる枝垂桜も、今は雪を被っていた。
「…………雪女」
ふと後ろから呼ばれて振り返れば、そこには予想と違(たが)わない人影。
「リクオさま」
真夜中だというのに、そこには昼のお姿の若が縁側に座っておられた。
「身体はもう良いの?」
袖の中に腕を隠し、若が尋ねてくださる。
若が私を気にかけてくださったことが、情けないのと同じくらい嬉しかった。
「はい。もう全然。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
謝罪と同時に頭を下げると、若は笑って月を仰がれた。
「雪女、一晩ずっと雪を降らせていたんだよ。おかげで久しぶりの積雪だ。東京なのにね、ここ」
東京では雪が降ることはあっても、積もることは滅多にない。
そのせいか、若は幼いときから雪が積もると一段とはしゃがれた。
しかし、そのあといつもお風邪を召されていたことを思い出し、私は慌てて若に駆け寄った。
「若、いつからここにおられたのです。お風邪を召されますよ」
手を伸ばして、部屋に入ることを促すが、若は少し困ったような表情を浮かべられた。
「雪女こそ寒くないの。それ、寝衣だろ」
「ぇ……__」
若の言葉に我が身を見下ろしてみれば、それは案の定 雪女の白い着物ではなく、寝衣用の単衣だった。
「きゃあ!?」
確かに、天候のおかげかすっかり体調は良くなったものの、さっきまで寝込んでいたのだ。
時刻を確認しようと障子を開けたら雪が積もっていたので思わず散歩をしていたが、屋敷が静かだったのでまさか誰かと偶然会うことさえ予想していなかった。
考えてみれば、当然寝衣しか身につけていなかったのだ。
どうにか身を隠そうとするものの、隠すものさえないのだからどうしようもない。
あまりに動揺しすぎて頭が正常に回らない。
すると、ふいに温かいものが上から降ってきた。
「………若?」
よく見ると、それは若の羽織だった。
さっきまで着ておられた若の温もりが温かい。
私は羽織を掻き寄せて寝衣を隠す。
しかし、それを私が着せていただいているということは、若はいつもの着物しか召されていないということで__。
「わっ若っ!!そんな格好ではお風邪を召されますよっ!!早くお部屋に入ってください」
この場は羽織をありがたくお借りするようにして、若がお部屋に入られるのを見届けてから自室に辞そう。
そう思っていたから、立ち上がられた若の言葉には驚いた。
「それなら、雪女も一緒においで」
「わ、私もですか?」
「そんな格好で歩かせるわけにはいかないだろう」
いえ、こんな格好で若のお部屋にお邪魔することの方が大変なことなのですが。
そう進言したかったが、なかなか部屋に入ろうとされない若に、話があると言われてしまえば従う他ない。
縁側に腰掛け、足の裏から結晶をぱらぱらと落として部屋に入る。
すぐに畳に正座し指をついて、非礼を詫びた。
「すみません。はしたないところをお見せして……」
くすりと若が笑う。
「本当、お前らしくない。やっぱりまだ本調子じゃないんじゃない?」
声が思いの外近くから聞こえて、私は思わず顔を上げた。
案の定、若がすぐ目の前まで来ておられて、そのまま腰を降ろされる。
そして、顔を上げた私の前髪を払って額に手を当てられる。
その温もりには覚えがあって、やっぱりあれは夢じゃなかったのだと悟る。
「若が、冷えてしまいますよ」
若の手は外気に冷やされて冷たくなっていた。
それでも私の方が冷たいから、わずかな温もりさえ奪ってしまいそうで、そっと若の胸に手を置いて身体を離そうとする。
しかし、逆にその手首を若に掴まれた。
「__ぁ……っ」
意表を突かれた上にその動きは素早くて、私はあっさりと捕まってしまう。
慌てて引っ込めようとするが、若は思いの外強い力でそれを赦してはくださらなかった。
若の手は私の手首をあっさりと一周してしまうほど大きくて、皮膚が硬くて、少しゴツゴツしている。
仲間を守るために剣を握られる御手。
「氷麗…」

耳元で囁かれた低い声色。
心の臓がどきりと音を立てた。
頬が朱に染まるのが自分でも分かる。
本性の姿のときに名を呼ばれたのはおそらく初めてじゃないだろうか。
昨夜は人間の姿でさえも呼んでいただけなかったのに。
驚いて顔を上げると、静かな瞳に視線が吸い込まれた。
茶色のはずの若の瞳が赤い気がする。
「氷麗。僕はね、本当は欲張りなんだ。一昨日言ったことも本心ではあるけど、本音かと聞かれたら、それはきっと嘘になる。氷麗には幸せになって欲しいと思うのに、氷麗が僕の傍からいなくなることは、嫌なんだ」
昼のお姿の若は、こんなに大人っぽかっただろうか。
昼のリクオさまも夜のリクオさまも同じ方だと認識しているけれど、なんだかまるで夜の若のような感じがする。
若はいつの間にこんなにも男らしくなられたのだろう。
「だから、氷麗は人気があることを知っていたけど、人間と恋をしてこの日常がなくなってしまうことは嫌だった」
「でしたら何故、あんなことを仰ったのですか。私はてっきり、お邪魔になったものと……」
一昨日の若のお言葉を思い出してみても、そのような感情はどこにも見つけれなかった。
「言っただろう。違うって」
「けれど、それしか仰ってくださいませんでした…」
ああ、嬉しくて涙が零れてしまいそう。
若が、私のことをこんな風に思ってくださっていたなんて。
「あのときは、それしか言えなかった。氷麗が僕から離れていくことが嫌だなんて僕のわがままだったし、言ってしまえば何かが崩れる気がして…。結局、僕は日常を壊すことを恐る臆病者だったんだ」
私は何度も首を左右に振った。
それはわがままじゃないと、若は臆病者なんかじゃないと伝えたくて……。
そんな私を抱き込むように若の両手が背中に回る。
手首を掴まれたときみたいな逃げることを赦さないような力ではなく、ただ包み込まれているような優しい抱擁。
抱きしめられている状態で顔を上げても若の表情は確認できないが、垣間見えた顔は辛そうに歪められていた。
「だけど、もう嫌だよ。これが僕のわがままでも、何かが崩れてしまっても…氷麗を、手放し たくない」
ぱらぱらと乾いた音を立てて大粒の涙が畳に転がる。
若の墨色の着物を握りしめて、縋りついた。
「氷麗は、ずっとリクオさまのお傍で、リクオさまのご成長をこの目に刻みつけたいのです。私を、お傍に置いてくださいますか」
震える声で言い募れば、その答えは耳元で囁きとなって返ってきた。
「うん。これからも傍にいて、氷麗」
ぎゅっと腕に力を込められて更に引き寄せられた。
私は寝衣であることも忘れ、若の身体が冷えてしまわれることにも気が回らず、ただ我らの主の胸に力を抜いて凭れていた。



夜は、まだ明けない。

降りしきる結晶は止んでも、積もった雪は音を吸い込む。

私がリクオさまのお部屋にいることを知っている人は、誰もいない。








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