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不安を断ち切れず
師匠の部屋は以前探検をしたときに知っていた。
僕は部屋の前で一つ大きく深呼吸をすると、そのドアを押し開けた。
師匠はやはり読書をしていて、師匠、と呼びかけても気づかない。
周りに散らばっている酒瓶を片付けながら近づき、肩を揺すりながら師匠を呼んだ。
「ああ?」
読書を邪魔されて、師匠は不機嫌を隠そうともしないで顔を上げるが、僕を見て固まった。
長い長い沈黙が降りる。
カラン、と酒瓶が一つ音を立てた。
「師匠?」
ひどく長い間瞬きもしない師匠が心配になって、僕は師匠の目の前で手を降ってみる。
「__お前、アレンか?」
やっと絞り出すように喋った師匠の声は驚きに掠れていた。
僕はあははと笑う。
「やっぱり分かります?これ、新しい団服なんです。化粧はリナリーにしてもらいました」
カートを引いてきて、テーブルを片付けて温められた食事を並べる。
「それにしても、何食抜いたんですか。何度も言ってますが、そんなんじゃ身体壊しますよ?まったく、僕がいない間はどうしてたんです」
僕が呆れながら恒例の小言を漏らすと、師匠は本当に気づいていなかったようで、怪訝な顔をした。
「何食って、今いつだ?」
「もう師匠が来た夜から二日も経ってますよ」
最後にワイングラスにワインを注ぐ。
師匠の食事のときの飲み物はいつもワインだった。
師匠にとって、ワインはきっと水代わりなのだろう。
グラスをことりと置くと、準備は完了。
温められた食事は美味しそうな匂いを部屋に漂わせていて、さすがに空腹だったのか、師匠のお腹が小さく鳴るのを聞いた。
師匠はますます不機嫌になる。
「呼びに来ないお前が悪ぃんだろ。師匠をほっとくなんざ__」
「もう、良いですから、食べてください。倒れますよ?」
不貞腐れる師匠を可愛いと思ってしまったが、ここで笑ったりしたら機嫌が直らなくなるから、僕は軽くいなした。
師匠はゆったりとワインを一口呑んでから、食事に取り掛かる。
その仕草はいつ見ても優雅だ。
僕は傍でじっと師匠を見ていた。
師匠の元を発ってから早半年ほど。
師匠は確かにどうしようもなかったけれど、師匠の元から離れてしまえば毎日が寂しくて味気なかった。
こうしてまた甲斐甲斐しく世話を焼くことさえ、幸せに思える。
ああ、やっぱり僕は師匠のことが前から好きだったんだな…。
師匠の一つ一つの仕草にさえ、想いは募る。
師匠をぼうっと見つめていると、師匠が突然口を開いた。
「お前、その格好はいつからだ?」
「え?……夕食後ですが」
それがどうかしたのだろうかと首を傾げて、嫌な予感がした。
まさか、どうしてもっと早く持って来なかったのかとでも言うつもりだろうか。
そんな仮装してる暇があったらその前に俺に食事を待って来い。
師を飢え死にさせる気か、と。
「言っときますが、夕食後コムイさんに呼ばれていた方が先約で、着替えてすぐに来たんですからね」
僕は変な言い掛かりをつけられる前に主張した。
けれど、どうやら僕の予想は外れていたようで、師匠は妙にじっと僕を見つめながら呟いた。
「ってことは、廊下ではその姿を見せびらかしていたわけだ」
「べっ別に見せびらかしてたわけじゃ……」
ただ、師匠に見せたかっただけで、とは言えなかった。
師匠からはこの格好の感想をまだ聞いていない。
どくり、と心臓が嫌な音を立てた。
「お前、今すぐその化粧落として来い」
ああ、やっぱり…。
僕はぎゅっと手を握り込む。
こんなに着飾って、みっともないと言いたいのだろう。
さっき師匠が驚いたのは、僕があまりにみっともない姿で現れたからだろう。
僕は掠れる声でかろうじて返事をして、クレンジングを持って備え付けの洗面所に駆け込んだ。
師匠が気に入らなかったり落とせと言われたりしたときのために、持ってきていて良かった。
僕は無我夢中で化粧を落として、タオルで拭いた。
このタオルは洗って返さないと。
リナリーに、謝らないと。
少しでも笑顔を向けられるかもしれないなんて思った自分は馬鹿だ。
好きだと自覚した分、気分の落ち込み方も凄まじい。
けれど、いつまでも洗面所に篭っているわけにもいかず、目が赤くなるから涙をぐっと我慢して、師匠の部屋に戻った。
そのときには師匠は食事を終えていて、ベッドでまた読書を始めていた。
ちょうどいい、情けない顔を見せずに済む。
このまま気づかれないうちに帰ろうか、と僕は片付けを始める。
けれど、こういうときに限って、師匠は僕に気づいてしまうわけで。
「アレン」
名を呼ばれて、僕は顔を上げた。
極力無表情を取り繕って。
「何ですか、師匠」
「アレン」
もう一度、呼ばれる。
淡々と、低い声で。
けれどそこには怒りも不機嫌も含まれていなくて、むしろ。
「アレン」
僕は片付けを止めて師匠に近づいた。
何度も名を呼ばれるのは、傍に来いという合図。
僕が師匠の前に立つと、師匠は僕の腕を掴んだ。
腕は師匠の方と下方に引かれ、それは膝に導かれているようで。
「え…」
僕が戸惑っていると、師匠は座れと一言言った。
僕にとって師匠の言葉は絶対で、だからそれがどんなものであろうと大抵は従う。
今回も戸惑うが師匠が腕を引くのを止めないから、仕方なく僕は師匠の膝に座った。
跨ぐようにではなく、姫抱きをされているように、だ。
師匠は僕のウイッグを床に落として、僕の額やら頬やらを確かめるように撫でる。
「……ぁ、あの…ししょ?」
「お前な、化粧したことねぇんだから、長時間すると肌が荒れるぞ」
唐突な師匠の言葉に僕はついていけない。
瞬きを繰り返して師匠を見えていると、師匠は荒れてねぇから安心しろ、と苦笑した。
僕はきょとんと小首を傾げる。
「ぇ……。あの、師匠は僕の格好が見苦しいから落とせと仰ったんですよね?」
「ああ?」
今度は師匠が何の話か分からないという顔をした。
「だって、この格好で廊下を歩いて来たって分かった途端に機嫌が悪くなったし……」
だから師匠は呆れたんだと思っていたのだが、どうやら違うようだ。
師匠が大きく溜息を吐いた。
「__この馬鹿。……逆だ、逆」
「逆って……」
「あんな格好で歩き回りやがって。明日には正体探しが始まってんぞ」
ったく、と悪態をつく師匠に、僕のネガティブ思考は完全に勘違いだったことを知り、ほっと身体の力を抜いた。
「なんだ。僕があまりにみっともないからじゃなかったんですね……」
「__お前、鏡見て来なかったのか?」
師匠は呆れたように、どこか驚いているように言う。
「見ましたけど、僕の審美眼なんて不確かだし、女の人を見慣れた師匠にはただの背伸びにしか見えなかったのかなって…」
「じゃあお前は鏡に映った自分を見てどう思ったんだ?」
「これ誰だろう?って。あと、女の子がいるなぁって。ただ、リナリーには悪いですけど、少し気味が悪かったです」
僕がそう言い切ると、師匠は穴が開くほど僕を凝視して、吸い込んだ息をすべて吐き出すように溜息を吐いた。
「………………。お前に聞いた俺が馬鹿だった」
そのあまりな言い草に僕はむっとするよりわけが分からなくなる。
「え、なんでですか?」
「お前な、さっきの格好を気味が悪いなんて評すのはきっとお前くらいだぞ」
「じゃあ師匠なら、なんて評すんですか?」
それは単なる好奇心だった。
呆れて僕の評価を否定するから、師匠の評価が聞いてみたくなっただけだった。
だから、師匠があっさりときっぱりと述べた評価に、僕は真っ赤になった。
「俺好みの美人」
……び、美人って……。
僕はどう反応を返せばいいのか困って、恥ずかしくなって顔を伏せる。
けれど、師匠がにやりと笑った気配がした。
なぁ、アレン。
低く甘い声を耳元で囁かれる。
それはまるで睦言のように。
「腹が減った」
けれど、睦言とは程遠いと思われるその言葉に、僕は困った。
そうだよね。
さすがに師匠とは言え、二日も食べれないのにあれだけで足りるはずないよね。
「ぇ。どうしよう、食堂ってまだやってますか?」
こんなに遅い時間もジェリーさんたちはまだ食事を作っていたっけ?と考えて、しかし導かれる答えはNOだった。
師匠も分かっていたようににやりと笑う。
「やってねぇだろうな。それから、俺の言った意味はそれとは違うぞ」
「え、何ですか__」
尋ねようと顔を上げて、唇に触れるのは温かい何かで。
見開いた僕の視界に広がるのはボヤけた肌と赤。
この感触を、知っている。
僕はそっと視界を閉じた。
師匠の大きな手が、僕の髪を掻き分けて後頭部を支える。
「んんっ」
唇を舌で舐められて、僕は薄く唇を開いた。
その隙間から割り込む弾力のある生暖かいそれは舌。
僕の口内に侵入を果たしたそれは歯列を舐め、僕の舌と絡み合い、舌の裏も舐める。
荒いというよりは、まるで僕を確かめているかのような行為。
「ふぁ……あ、ししょ……」
それに切なく、もどかしくなって、僕は師匠に抱き着きながら師匠を呼んだ。
深い口づけをされながら、ブーツが脱がされて床に転がる。
ツツツと指が露わの足を伝い上がって、それは内腿に滑り込み、身体が震える。
少し体重をかけられて、身体が傾くのが分かった。
そして、背中が僅かに冷たいシーツに触れる。
髪を梳かれて、頬を撫でられて、身体中の力がどんどん抜けていく。
ああ、また抱かれるのか、とどこか他人事のように思った。
別段、師匠に抱かれるのが嫌なわけではないのだ。
嫌ならば、最初のときから抱かれたりなどしない。
好きだから、嫌ではない。
けれど、不安なのだ。
僕らの明らかな関係は師弟だけで、この夜の関係は何なのか僕は知らない。
師匠に愛してると囁かれた。
一度だけ愛し合って抱かれた。
それだけの関係。
これを、なんて言葉にするのか、僕は知らない。
愛人?セフレ?恋人?
分からない。
もう一度、師匠を受け入れたら分かるようになる?
もう一度、師匠に抱かれたら答えは出る?
ねぇ、教えて。
不安なの。
心はショックを受けることに臆病で、期待してそれが裏切られるくらいなら、そんな気持ちは最初から持たない方がいいとよく知ってるから。
師匠、と呼びかけて、これではいけないと思い直す。
師弟でこんなことをするなんて、本当はいけないことだと思う。
きっと教団にバレたら、ただじゃ済まない。
師匠に迷惑がかかる。
師匠に嫌われてしまう。
師匠と離れないといけなくなる。
そんなのは、嫌だから。
そんなことになるくらいなら、昼と夜の顔を使い分けて、溺れないように。
どうせ乱れるのなら、いっそ愛人さんのように大胆に。
「__……クロス、さま……」
ぴくりと師匠の手が止まる。
ぼうっと天井を見上げていた視界に、師匠の顔が入り込んで、僕の目尻から零れる涙を拭ってくれた。
「なんて呼んだ?」
映り込んだ師匠の顔は、少しだけ眉が寄っている。
不快だったのだろうか。
恐る恐る答えるが、どうせ一度声にしたことを取り消すことはできない。
「クロスさま、と…」
だから、どうかあなたも……。
「理由を言え」
「理由が、必要ですか?」
「俺のことを確認するために名を呼びたいというのなら許す。だが、それ以外なら理由による」
だから、話せ。
いつものような命令口調だが、それは普段ならあり得ないほどの優しさに満ちている。
それに甘えて、僕は嘘を騙(かた)る。
「あなたの名を、呼びたいからです」
涙が一筋、こめかみを伝った。
それを師匠が拭って、大きな掌で頬を包む。
「__なら、何故泣いている?何を余計なことを考えてんだ」
「いいえ。余計なことじゃ__」
「集中してねぇくせに。最中に他のことを考えるのは、全部余計なことなんだよ」
言い当てられて、僕は押し黙る。
「……言えよ、馬鹿で__」
いつものように馬鹿弟子と呼ぶ唇を、僕は人差し指で制する。
途中で遮られたことに驚きと怪訝を露わにする師匠に、首を左右に振った。
僕は、否『私』は、ベッドの上でまであなたを師匠と呼ぶことはできないの。
それは、『私』のけじめのために。
随分勝手なわがままだけれど、どうかあなたも、『私』を弟子と呼ばないで。
師匠は僕の懇願を含めた瞳を見つめながら、唇の人差し指をそっと掴んで離す。
そして、その指に恭(うやうや)しく口づけて、ひどく甘い声音で言ってみろ、ともう一度繰り返す。
瞳は僕を見つめたまま。
ああ、なんて綺麗な色。
吸い込まれそうな深い赤に『私』は視線が外せなくて、残りの手で師匠の服を握って声を絞り出す。
「__溺れ、ないように…」
「なに?」
あまりに小さな声を聞き逃してか、意味の確認か、師匠の声に僕は続ける。
「溺れてしまわないように。ちゃんとけじめをつけるために。期待しすぎないように」
一度話し出したら止まらなくなった。
不安を吐露する。
関係のことも、師弟のことも。
僕という一人称を、私に変えて。
師匠は話が終わるまで、ずっと僕の頬を撫でたり髪を梳いたり、顔にキスを落としたりと気遣いながら聞いてくれていた。
そして、やがて話し終えた僕に師匠は苦笑を返した。
「__本当は褒めるべきなんだろうな。馬鹿弟子のくせにいろんなこと考えて、独りで抱え込みやがって」
こつりと額が当たる。
「お前はいい加減人のことを信じろよ。笑えもしねぇぞ」
それは呆れているというより、どこか寂しそうで。
怒っているというより、哀しそうで。
「何度同じこと言ったら信じるんだ?セフレだと?馬鹿を言うな。愛してるなんて他の女に言ったことなんかねぇってお前も知ってんだろ?お前は、俺の女だ。俺が唯一愛した女だ。両想いの関係を恋人だと称すしかないなら俺たちは恋人ってことになる」
それはまるで、選択肢の中に婚約者や夫婦というものがあれば、それでも構わないと言っているようで(もちろん、そんな約束も届けもしたことがないからあり得ないけれど)。
「俺の場合愛した女がたまたま弟子だっただけで、お前もたまたま師だっただけの話だ。元帥が恋愛したらいけねぇって規則も、元帥と恋愛したらいけねぇって規則もねぇ。別に誰に迷惑かけるわけでもねぇし、そんなことまで頭回す必要はねぇよ」
お前は、ただ俺に愛されとけ。
その不遜なほどの自信満々さに僕は微笑み、そして師匠の手で溺れていく。











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