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第十二話… 拒絶
朝日が後ろから照らす中、僅かに震える細い指がインターフォンのボタンを押す。呑気な機械音が聞こえた後、無防備に発せられる男の声に心臓が跳ね上がった。
「あ、の…新一……」
心臓が痛いくらい鼓動を打って、咄嗟に名乗ることができなかった。しかし、戸惑いながら発せられたその声で、男は彼女の名を当てる。
「あれ、蘭?どうしたんだよ、こんな時間に」
インターフォン越しに届く自分の名は、いつもと違って無機質で、なんの感情も込められていない気がした。
それとも、今まで大切にされていると感じていたことこそが、ただの勘違いであったと告げられている気がして、蘭は長い睫毛で瞳を隠した。
「蘭?」
再び呼ばれるその名に耐えられず、彼女は心を塗り潰す負の感情を押し込めようと、その口元に笑みを履いた。しかし、それは彼女の顔を歪めただけだった。
「えっ…と、ちょっと早く起きすぎちゃって…久しぶりに朝ご飯でも作ろうかなって…」
「ああ〜…」
まずいことになったと言わんばかりの苦い声。どうせ今頃、視線を中空に投げて頭を掻いているだろう。
姿を見なくても、彼がどんな表情をしてどんな仕草をしているかなんて、彼女には手に取るように分かっていた。それほどの時間を隣で過ごしていたのに、今、彼に一番近いのは、私じゃない。その事実が、彼女の胸を抉る。
インターフォン越しの距離が、そのまま彼と自分の距離に思えた。
「わりぃ。さっき博士ん家に呼ばれて食べちまった」
予想通りの声に、蘭は急降下する心内を隠して、無理矢理になんでもない様子を装った。
「……そっか…。じゃあ先行…__」
「とりあえず入れよ。まだ学校行くには早いだろ。鍵開けたまんまだから、勝手に入ってくれ」
「いいよ、新一。朝早くからお邪魔するのも悪いし、私先行ってるよ」
「バーロー。朝ご飯作りに来たんなら、オメー食ってねーんだろ」
こんな私でも心配してくれる彼が嬉しくて、思わず声が震えた。目の淵に溜まる涙に気づかないようにして、言葉を連ねる。
「大丈夫。コンビニで買うし」
だから、私のことは気にしないでと続けようとするが、胸の苦しさにとうとう言葉が詰まってしまう。
泣いたらダメだと必死にお腹に力を入れて待つが、いつになってもインターフォンから彼の声は聞こえてこない。
「新…一……?」
涙声で伺ってみるが、それでも彼からの返答はなかった。呆れられたのかなと少し寂しい気持ちになって結論づけ、踵を返そうとしたが、その手首を掴まれて蘭は思い切り息を呑んだ。
「__っ!!」
振り返った拍子に涙が頬を伝う。滲んだ視界の眼前に、新一が立っていた。
「バーロー。何泣いてんだよ…」
呆れたような彼の声。そこには呆れではなく、哀しみと慈しみが含まれていることに、彼女は気づかない。
うそ、うそ。だって、気配感じなかったよ?
いつも重い音を立てて開く門の音にも気づかなかった。驚きに目を瞠ったまま、彼女は呆然と新一を見つめる。
ふっと彼が微笑む気配を感じて、蘭はびくりと肩を揺らした。無意識に引かれる腕に込める力を僅かに強めて、彼は彼女を家に誘った。



「わりぃな。昨日の残りしかなくて……」
新一はキッチンから白ご飯と肉じゃがを持って来て、テーブルに置いた。
「いいよ、…作るって言いながら材料のことすっかり忘れてた私が悪いもん」
今までは度々工藤邸に出入りしていたので、買い置きできるものは冷蔵庫に入れさせてもらっていた。夕食を作るときは買ってから来ていたが、朝食を作るときはその買い置きの材料を使っていた。
しかし、新一が帰って来てからというもの、ご飯を作りに来ることがなくなり、工藤邸に出入りするのもこれが初めてだ。
新一はものぐさな性格で、家事は苦手。だからこそ蘭が世話を焼いていたのだが、彼女が出入りしないにも関わらず、工藤邸は埃がなく、綺麗に片付いていた。ついでにいえば、雰囲気が以前とは微かだが変わっている。
女の勘が、働いてしまう。知りたくないことまで分かってしまい、蘭はそっと瞳を伏せた。
「ん?口に合わねーか?その肉じゃが」
箸が止まったことに気付いて、新一がテーブルの向かい側から覗き込んできた。蘭は慌てて首を振り、人参を一口口に入れた。
「そっそんなことないよ?おいしいよ」
そして、白ご飯を一口食べる。
その食感さえ自分の家とは異なり、少し固めで食べ応えがある。緩慢に口を動かして柔らかくしていると、新一が苦笑を零した。
「ご飯、オメーが炊くのよりかてーだろ。食べにくかったら水でも持ってこようか?」
「いいよ、大丈夫。志保ちゃんらしいなって思ってただけ」
新一が好んでご飯なんか炊く性格じゃないことは熟知している。
新一のお母さんが帰ってきているのかとも考えたが、この屋敷に人の気配はない。それならば、隣家の彼女が出入りしていると考える方が自然だろう。
けれども、それは認めたくない事実であり、蘭はカマをかけただけだった。否定してほしいと願う蘭の耳に、聞きたくもない肯定の声が忍び込む。
よく分かったなと彼は目を丸くし、肩を竦めた。
「あいつ、噛まないとバカになるだの、噛む方が健康にいいだのうるさくって」
「その通りだよ。私も水加減教えてもらおうかな」
耳を塞いでしまいたいのを我慢して、蘭は笑った。
新一は蘭が食べ終わったのを見届けてから席を立ち、ソファに掛けてあったブレザーを羽織る。早いけどそろそろ出るかと気を遣ってくれる彼に、食器を洗うまで待ってくれと、食器を重ねてシンクで洗い始める。泡を流して水気を切り、食器棚に立てかけたとき、見たことのないカップがそこに置かれていることに気づいた。
ズキリと胸が痛む。それが誰のものかさえ分かってしまう自分が悲しい。
「らーん。終わったか?」
ひょっこりと顔を出す新一に心臓が跳ね上がり、蘭は慌てて笑顔を取り繕った。
「うん、待たせてごめんね。行こう?」
手をハンカチで拭いて鞄を手に取り、玄関を通って並んで登校をする。登校時間には早いので当然と言えば当然だが、隣家の彼女に鉢合わせしなくてほっとした。
朝の澄み切った空気が肺いっぱいに満たされ、清らかな日の光が眩しかった。歩道に写し出された影法師を視認して、本当の自分はこの影みたいに真っ黒なのではないかという錯覚に陥る。思わず、自嘲気味の微笑が唇から零れ出た。
そのとき、ふわあっと大きな欠伸が隣から聞こえ、蘭は新一に視線を戻した。
「そういえば、新一。出てきたときばっちり制服着てたよね。最近朝も早いし、何かあるの?」
起こしてもなかなか起きないし、寝坊ばかりしていていつも遅刻しかけだった新一が…と皮肉を込めてからかってみる。新一はああ、と苦笑した。
「宮野が片付けしないといけないから、朝ご飯は7時までに食べに来いって言うからさ〜。遅れると食わしてくれねーんだよ。まあ、今日は眠れなくてたまたま早起きだったんだけどよ」
苦く笑って頭を掻くその仕草は同じはずなのに、蘭は彼が遠くに行ってしまったような衝撃を受けた。
「……新一、変わったね……」
ポツリと呟く声は朝のざわめきにすら消されてしまいそうなくらい、小さかった。小さな歩幅で新一の後ろをやっとついていくだけだった蘭の足は、完全に止まってしまった。
「蘭?」
訳が分からないとでも言うように、新一も足を止めて蘭を振り返る。二人の間の数歩の距離を新一が埋めた。
「どうしたんだよ、朝から暗い顔して。オメー今日おかしいぜ?」
『おかしい』その言葉が新一の口から発せられたとき、蘭は自分を否定されたように感じた。鞄を持つ指が震えて、唇を噛んだ。
「おかしい…?…新一は…私がおかしいって、言うの?」
「おい、蘭?」
新一は蘭に手を伸ばした。それが彼女に触れる前に、蘭はその手を振り払った。
「おかしいのは新一だよ!!帰って来てから、新一変わっちゃった…!……ずっと、遠く見てるし…、学校も、事件も楽しそうじゃないし……。なんか、冷たいよ…。なんでそんなに冷めてるのぉ…?」
蘭は涙を浮かべる。朝日を浴びて、雫はキラリと輝いた。
その輝きから目を背け、新一は眉間に皺を刻む。そして、吐き捨てるように言った。
「……事件は、楽しむものなのか?人が死んでるのに、喜ぶようなことなのか?__違うだろうが。俺は、それに気づいたんだよ。人間は成長するんだ。昔と同じ価値観じゃいられねえ。……それだけなんだよ」
蘭はふるふると首を横に振る。突き放された、そんな錯覚が身を裂くようだった。
「そんなの新一じゃない。新一じゃないよぉっ…。
新一は、ホームズが好きで、正義感が強くて、事件が絡むと子供みたいな眼をして…犯人を追い詰めるときの瞳(め)が格好良い、男の子だもんっ!今の新一はおかしいよぉっ!!」
蘭は、どこまでも以前と同じ"幼馴染だった工藤新一"を求める。しかし、人間が変わることは必然のものである。歳を重ねると共に、関わる人や出来事の影響で変わらざるを得ないものだ。
新一は、この一年で人間の悪たる極みまで体験をしてしまっている。彼が事件を解決することに快感を覚えなくなったように、彼の中ではいろいろな価値観が形を変えていた。
自分でも変わっていく流れを制御することは出来ず、自分はどうなるのだろうかと一抹の不安を抱いている中、周囲の人間が__もっとも信頼し好(す)いているはずの幼馴染であり、想い人である彼女が、そんな彼を否定してしまう。
内からも外からも襲う不安と哀しみに耐えきれず、新一は全てを投げ出すことにした。今まで頑なに守ってきた彼女との絆さえ、どうでも良いと思ってしまった。
昏(くら)い感情が心を乱す。蘭を睨む瞳に感情など籠っておらず、絞り出した声は地を這うように低かった。
「俺が、おかしいと思うなら…オメーが俺の前から消えろ。俺が工藤新一じゃねーって言うんなら、オメーの手で工藤新一を探し出せよっ」
遣る瀬無さを発散させるように、新一は側のガードレールを思い切り蹴った。朝のざわめきを突き抜けるように、ガンッという音が響き渡る。
その音にビクッと身体を固くした蘭は、次の瞬間には学校の方に走り出した。新一はそのまま顔を伏せたまま、動こうとしなかった。
二人の距離はどんどん開いていく。それは、彼らの心の距離でもあったかもしれない__。


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