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三十話 芽生える疑惑は春の芽のように
小学生のテストなんて、哀には造作もない。
簡単すぎて逆に合っているのか不安になる程だ。
「はい、みなさん。今日は昨日の算数テストを返します。順番に取りに来てね〜。安達さん、石田くん、井本くん……」
先生が教壇の前で出席番号順に名を読み上げ、一人一人が取りに行く。
やがて哀の名も呼ばれ、席に戻って確かめた答案は当然の如く満点だった。
テスト用紙の余白部分に消された鉛筆の跡があるのは、暇つぶしに問題を変えて解いていたからだ。
小学5年生といっても、円錐に満たされた水から出来る発電量や抵抗力などの計算が残ってしまっては明らかにおかしい。
そんな計算すらも、ものの1分もかからずに解いてしまう彼女は、周りの騒ぎをものともせず、代わり映えのない結果に溜息を漏らした。
そのとき、先生が二度手を叩き、児童は静まって席につく。
「昨日の最後の問題、発展問題だったけどみんな難しかった?」
先生の呼びかけに、口々に文句が飛ぶ。
「私、全然わかんなかったー」
「私も〜。最後で頭グチャグチャになったよ…」
「あんなん分かるわけねーじゃん!」
同級生達の情けない言葉に、哀は問題を見直してみるが、そこには白い余白…ではなく、赤の花が咲いていた。
要するに、よく出来ましたということだ。
「じゃあどうしたら答えが出るか、教科書見てもいいし話し合ってもいいから、みんなだけで探してみてね」
先生のそれを最後に、再び教室は騒がしさに包まれた。
気のせいか、「話し合って」のところで先生と目があった気がする。
先生の瞳がたまたまの偶然ではないことを語っていて、哀は再び溜息を漏らした。
「なぁ光彦ぉ、どう解いたんだよ?教えろよっ」
うるさい喧騒さえ突き抜けて鼓膜を震わせる野太い声は、相変わらず勉強が苦手な図体のでかい少年、小嶋元太である。
「ダメですよ、元太くん。他人の答えを写そうなんて虫が良さすぎです。…って言いたいところですが、今回は僕もお手上げなんです〜」
いつもの如く元太を諌める役の円谷光彦は、黒くなったテスト用紙と睨めっこしながら情けない声を上げた。
あの様子では時間ぎりぎりまで粘っていたのだろう。
「光彦くんもできなかったみたいだね…。ねぇ哀ちゃん、哀ちゃんはできた?」
余程点が悪かったのか、どうにも解けないのか、歩美はすっかり項垂れて哀の元にやってきた。
コナンのいない少年探偵団の4人は、偶然にも4年ぶりに同じクラスに収まったのだった。
哀は久しぶりの感覚に和みながら、歩美の質問に首肯を返した。
どうせ気づかれてしまうのなら、初めから嘘をつかないほうがいい。
「全くのあてっずっぽうだったのだけど、どうやら合っていたみたいよ」
変なやっかみを避けるため、哀は適当に謙遜しつつ誤魔化す。
哀の言葉に最も反応を示したのは、光彦だった。
「えっ!?!?灰原さん解けたんですか!?」
彼は目を真ん丸に見開いて、失礼ではないかと言いたくなる程驚愕を素直に表に出していた。
まるで元太が給食を残したか、幽霊をその目で視認したかしたような仰天ぶりである。
「さっきも言ったでしょう、あてずっぽうだっただけよ。そんなに驚かないで」
「あ、すみません……」
反射のように謝罪を返し、光彦は意気消沈して椅子に座り直した。
入れ替わりのように、元太が体を乗り出す。
「おい、灰原?どうやったか教えてくれよ」
「人に勉強を教えるにはその人の理解度を知らなくちゃ、教えようにも手が出ないわ」
すました彼女の答えに元太は『?』を浮かべて、いつものように光彦に尋ねる。
「どうすりゃいいんだ?」
「えっと……」
はっきりと答えを示すことができない光彦を遮って、哀は元太に手を差し出した。
「小嶋くん、テスト見せてくれる?」
「おう、ほらよ」
元太は机の中からくしゃくしゃになったテスト用紙を取り出し、哀に手渡した。
その答案から彼の間違えた要因を掴み、哀は算数の教科書を出して説明を始める。
勉強が苦手の彼でも半分以上は分かっているようで、思ったより説明は簡単になりそうだった。
元太へ説明をする哀の空いている隣に陣取り、歩美もそれに聞き入る。
光彦はしばらく解き直そうと奮闘していたが、哀の説明が自分の分からなくなったところに差し掛かると素直に耳を傾けた。
そうしてみれば、彼が躓(つまず)いたのは単純なことだった。
いつの間にか、騒がしかったはずの教室は哀の声が通るだけになり、説明をする彼女をクラスメイトたちが囲むかたちになった。
クラスメイトたちは口々に己の疑問を哀に質問し、哀は教科書のページを進めて当てはまるページを前に、丁寧に説明をする。
少年探偵団再集結したとともに、やはり4年ぶりに彼らの担任になった小林澄子は、そんな児童たちを微笑を浮かべて見守っていた。


・・・・・


「光彦くん、今日は塾じゃないの?」
放課後、帰ろうと荷物をまとめながら歩美が声を掛けた。
光彦は去年から教育熱心な両親に促されて学習塾に通い始めている。
「はい、今日はお休みなんです」
「光彦がいるなら公園寄って野球しようぜ♪」
光彦の返答に被せるように、元太が嬉々として提案した。
それに異議を唱える者が一人もいないことを確認し、歩美が先頭を切って帰りを促す。
教室に気合の入った二つの声が響き、歩美が顔をほころばせた。
「久しぶりだね、4人が揃うなんて」
「何だかんだいってそれぞれが別の用事を抱えるようになったしね」
光彦の学習塾を初め、元太は柔道を、歩美はピアノを習い始め、哀は不定期に新一の助けを引き受けるようになったため、4人一緒に下校するのはほぼ半月ぶりと言えよう。
久しぶりだからこそ、歩美は跳ねるように足取り軽く、男児2人も楽しそうに言い合っている。
歩美の話を片耳に入れながら、哀の頬も自然に緩んだ。
4年前は…組織がなくなった頃でも、こんなにも穏やかで幸せな日々が送れるとは思ってもいなかった。
組織を抜け出したときには望んでもいなかった。
けれど今、その幸せは当然のものとして日々の生活に横たわっている。
それが、言葉では言い表せれないくらい嬉しくて仕方がなかった。
心の中で絶えず囁かれている謝礼の言葉を、伝えるべき人がたくさんいることが、ひどく贅沢だと思った。
思わず見上げた空が眩しいほどに輝き、祝福の陽の光を受けて新しき芽がその青さを増す。
冬を耐え抜いた強さは、これからの成長を暗示しているようだった。
僅かの肌寒さを伴って、慈しむ瞳の下を優しく撫でる春風。
不意に、優しさを牙に変えて突風が彼らを襲う。
「きゃぁ…!」
「わっ……」
視界を埋めるのは、桃色の桜の花弁。
突風が落ち着くと、足元のアスファルトに淡い色が散らばっていた。
「おっどろいたなー」
「春一番ってやつですね」
「ねぇね、足元が桜色の絨毯(じゅうたん)みたいだよ
元太が目を丸くし、光彦が得意げに話し出し、歩美が乙女チックなことを言い出す中、哀は微かな音を聞き取ろうと耳をそば立てた。
哀の行動に疑問を持ち、初めに声を掛けたのは光彦だった。
「灰原さん、何してるんですか?」
「聞こえない?何か…」
哀の瞳が鋭さを増して背後に向けられる。
「何ってなんだよ?」
声を潜める哀とは対照すぎる呑気な声がいつもより大きく思えて、歩美が咄嗟に元太を叱る。
「元太くん、しっ!」
沈黙の中、耳を澄ませた彼らに子供が泣き叫んでいる声が届いた。
「あれ、誰か泣いてるみたいですよ?」
「どっから聞こえてくるんだ?」
「こっちよ」
哀が方向を定め、彼女に他の3人が付いて行くと、声はだんだんと大きくなっていく。
「Where is mom? (ママどこ〜?)」
米花公園入り口の真正面の森の中で、小さな女の子が母親を探して泣いていた。
腕に桜の花びらがたくさん詰まったナイロン袋を提げているところから推測して、おそらくジャムの原料を集めることに夢中になりすぎて母親とはぐれたのだろう。
歩美がすぐに駆け寄って幼女の肩を抱いて慰めようとするが、幼き迷い子は陽に輝くブロンドヘアだったので、言葉が通じない。
四苦八苦しながらも慰めることを諦めない歩美はついに、眉根を下げて哀に助けを求めるような視線を送った。
彼女のその瞳に弱い哀は仕方なくも彼女に近寄り、幼女の視線に合わせてしゃがみ込んだ。
「What's wrong?(どうかしたの?)」
彼女が話すのは小学生とは思えない、流暢なQueen's English(イギリス英語)。
言葉が通じることに安心したのか、幼女はしゃくりあげながらも言葉を紡ぐ。
「There isn't mom. A mom left me alone! (ママがいないの…。ママが私のこと置いていっちゃったよぉ!)」
再び泣き喚く幼女の頭を一撫でし、
「OK. I take you to a mom. Come here! (大丈夫よ、私が連れていってあげるわ。こっちよ)」
哀は彼女についてくるように促した。
涙に濡れる瞳を拭い、幼女は哀のスカートを掴む。
彼女の空いている手を歩美が繋ぎ、後ろを男児二人がついてくる。
哀は森を出て、公園前の道路に顔を出した。
適当に周囲を回っていると、角からひどく取り乱した女性が現れる。長く伸ばされたブロンドヘアが足元の幼女によく似ていた。
「Flora!! Flora!! Where is Flora!?(フローラ!!フローラ!!どこにいるの、フローラ!?)」
「Oh,mom〜!!(あ、ママー!!)」
哀のスカートに皺がつくくらいキツく握っていた彼女は、声を上げると泣きつくように母親に縋りついた。
ママ、ママとしきりに声を上げて泣く幼女を、母親は目に涙を浮かべて抱きしめる。
幼き子の泣き声に胸を痛め、親子の温かい抱擁を哀は目をすがめて見つめた。
「ねぇ、哀ちゃん。これ返さないといけないよね?」
おそるおそる歩美が差し出したのは幼女の持っていたナイロン袋だった。
手を繋ぐには邪魔だったので預かったのだろう。
哀は歩美からそれを受け取ると、二人に近寄って声をかけた。
「Excuse me? Here you are. She gathered it. WellShe was lost among that forest.(ちょっといいですか?これを。彼女の集めたものです。ええと、彼女は森で迷子になっていたんですよ)」
「Oh!! Thank you very much!!(あら、どうもありがとう)」
女性は哀が流暢な英語を話すことに驚いたが、哀の髪毛を一瞥して納得したように微笑み、袋を受け取った。
立ち上がった女性の足に抱きつき、幼女は笑顔を返す。
「Thank you! Bye〜!!(ありがとう!じゃあね〜)」
小さな手を懸命に振って、やがて彼女は哀たちに背を向けて去っていった。
哀は仲間を振り返って、小さく溜息を零す。
「ありがとね、哀ちゃん。助かっちゃった」
てへっと舌を出す歩美に、どうってことないわと軽く返した。
「じゃ、早速遊ぼうぜっ!!」
「うん、そうだね!哀ちゃん、光彦くんも早く!!」
元太は我慢ならないという勢いで公園に戻っていき、歩美もそれに続く。
遅れるように彼らを追った哀は、光彦が暗く沈んでいることに気づかなかった。



「おおーい、光彦!!そっち行ったぜ!!」
「え?あっ!!Σ」
元太が勢いよく光彦に投げたボールは受け損なわれ、広場から転がり出てしまった。
それを光彦が追いかけて取ってくる。
さっきからこれの繰り返しだった。
「ったく、何やってんだよ光彦〜!!さっきから失敗してばっかりじゃねぇか!!集中力なさすぎだぜっ!!」
「すみません…」
元太の怒りに、光彦はうなだれて謝罪を述べる。
明らかにおかしい様子に歩美も声をかける。
「熱でもあるのかな?体調悪い?」
「いえ、そういうわけではないんですが…」
彼は曖昧に言葉を濁して、ちらりと哀に視線を送る。
離れて彼らを見守っていた哀と目線が合ったが、光彦はすぐにそっぽを向いた。
「やめだ、やめだっ!!もう帰ろうぜ!?光彦が相手にならないんじゃおもしろくねぇよっ!!」
不貞腐れ気味に元太はボールを投げ上げて、哀のかけているベンチからカバンを取り上げた。
歩美も光彦も同じようにランドセルを背負うと、哀は立ち上がってスカートを叩く。
そして、哀はちらりと光彦の様子を伺った。
未だブーブーを文句を垂れ流しにする元太に光彦が謝り、歩美が慰める。
一見いつもの光景にも思われるが、彼は話に加わっていないときは視線をアスファルトに落とし、溜息をついていた。
公園に来るまではそんな様子は見られなかったのにと考える哀は、久しぶりだったからこそ気づかなかった。
光彦のわだかまりが学校にいた頃から積もっていたことを。



やがて分岐点に差し掛かり、それぞれが手を振り合って別れを言い合う。
ここで哀と光彦も方向が別れるが、哀は手を振って歩美と元太と別れた後、光彦と同じ道を歩き出した。
「あの、灰原さん?」
光彦もその常とは異なる行動に訝しむ。
沈黙が重くならないように、できるだけ無邪気に明るく、光彦はおどけてみせた。
「何か、お話でも?」
「話があるのはあなたの方でしょう?」
間髪いれず、溜息混じりに返されたそれは気怠げだった。
「彼らの前では言えないことなんでしょう、聞くわよ」
言いながら、哀は光彦と視線を合わせた。
その、綺麗に澄み切った翠に吸い込まれそうに思う。

ああ、そうだ。

この人は__無関心のようで、しかしきちんと見てくれている、そんな人。

簡潔な言葉はいつも厳しく、冷たいと誤解されがちだけれど…。

きっと、不器用なだけなんだと思う。

彼女は、迷いそうになった僕らをいつも掬い上げて助けてくれる。

その、優しさを知っているから。

だから、彼女には敵わないなという考えが頭を掠めた__。

賑やかな商店街から離れた住宅地は、異質なほど静かだった。
遠くで聞こえていた喧騒がやがて意識から抜け落ちてゆく。
この世界にただ二人だけになったような錯覚を受けた。
「灰原さんは……」
どういうわけか緊張しているようで、口が乾いて声は掠れていた。
唾を飲み込むと、ごくりと喉が鳴る。
「灰原さんは、どうしてそんなに頭が良いんですか?」
翠の目が背けられる。
腰に手を当てるようにして、哀は一つ息を吐いた。
「特別視しないで。あなたと変わらないわ」

ほら、やっぱりはぐらかすんです。

目を背けるのは相手にされていない証拠。
彼女の態度に多少傷つきながらも、今日の光彦はいつもよりも食い下がった。
腿の横で拳を硬く握り込む。
「変わりますよ。だって、灰原さんは塾に行っておられないのでしょう?それなのにあの問題を簡単そうに解いていましたし」
「たまたまよ」
「それにっ!英語もスラスラと話してましたし……
…いつも、落ち着いていて…動揺することがないって言いますか…」
食いつきの勢いはどこへやら。
光彦の視線は言葉を紡ぐにつれ下がっていき、彼は唇を軽く噛んだ。
歳に似合わない自嘲の微笑が口元を彩る。
「本当に、僕らと同い年なのか…時々、分からなくなるんです………」

消え入りそうな、それは吐露だった。

哀は彼を見つめる。
決して交わることない二つの視線が、彼の戸惑いを現しているようだった。
沈黙が、二人の間にどっしりと重く腰を落ち着けていた。
どこからか春の香りを載せて、風が髪を肌を撫でていく。
何かが始まりそうな、そんな予感。
哀はゆっくりと瞬いた。

これは、避けられない通過点。

今上手く誤魔化しても、いつかは明かさなければならない。

それは必須。

それは、絶対。

それでも、哀は__。


「これだけは覚えといて、円谷くん」
凛とした物言いに、光彦は顔を上げた。
揺るがない意思に正面から射抜かれて、その強さに光彦は半ば呆然と魅入る。
「私に追いつこうなんて焦ってはだめ。私は、あなたたちとは育ってきた環境が違ったのよ。__ただ、それだけなんだから…あなたは、あなたの人生を大切にしなさい。
どうか、ただ一度きりの人生を、楽しんで」


それは、今の彼には重すぎる望み。

音を立てることも出来ず、光彦は静かに目を瞠った。

儚く微笑む彼女の、その背負うものの大きさを垣間見た気がした__。






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