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中編
43
 


 それは本当に一瞬で、揺らぎを認識し終わる頃には既に彼は瞼を下げて一度閉じると、少しだけ手に力が入った。



「もうすぐ夕飯の時間だし、戻るか」
「………え、あ、はい」



 姿勢を正してこちらを見た久住さんは笑顔で、片付けよ、と言って撫でるように手を離した。
 体温が移ったのか自分の体温が上がったのか手はとても温かく、二・三度握ったり開いたりしてから立ち上がる。

 ビニールにゴミを入れ、新聞紙を畳んで日本酒と甘酒は久住さんが持ち、それ以外を俺が持って妙な雰囲気を残したまま湖を後にした。


 宿所に戻る道すがら、林の中に比べてやはりまだ明るかったが時間は夕方くらいだろうと当たりを付けてゆっくりと歩いて行く。
 少し前を歩く大きな広い背中を見て、彼が無言である事に落ち着かない気持ちを何とか不安に変えないように風景を見ながら下駄を鳴らす。



 結局宿所に着くまで無言のままで、落ち着きのなさは見事に不安に変わってしまっていた。
 中に入り真っ直ぐに居間へと向かうのかと背中を見ていると、振り返った久住さんと目が合って一瞬体が固まった。



「足、大丈夫?」
「え…えぇ、大丈夫です」



 俺の返事に安心したように笑った久住さんは、行こ、と短く促して慌てて下駄を脱いで廊下を進んだ。
 居間に入ると老夫婦が迎えてくれて御夫人が「ちょうど夕食を作ろうと思ってたの」と、覗いていた冷蔵庫から顔を上げる。



「なんだ、二人で酒飲んだのか?」
「甘酒でしたけど、頂きました」



 御主人の言葉に返すと、久住さんが「日本酒初めてだったから、やっぱキツかったって」と言って日本酒の瓶を揺らした。



「まあ初めては大概そうだわな、集会所で飲まなかったんか」
「喧しいから湖のとこで飲んでた」
「いつもの事だろうがよ」
「静かに二人で飲みたかったのー」



 久住さんの言葉にドキリとしたが、悟られないように御夫人の傍へ行って夕食作りの手伝いを願い出ると「大丈夫、疲れてない?」と優しく聞かれて首を横に振った。
 座っているよりは他に意識を向けられるから、今は何か作っていたい。


 手土産に買ってきていた屋台の食べ物に加えて、軽く野菜などを足しただけだったが、それでも気を紛らせる事が出来た。


 夕食後しばらく久住さんは宿所に居て御主人と冷酒を交わしていたが、夜が更けてくると緩慢に立ち上がる。
 あれだけ飲んでも表情や足取りに変化はなく、酒豪に囲まれた結果なのかと感心すら抱いた。

 老夫婦とは居間で挨拶を交わし、俺に見送りを願い出た久住さんに頷いて玄関まで向かう。



「楓は明日なにすんの?」
「たぶん商店街で子供たちと遊んでいると思います」
「あー…、なんか絡まれてたもんな」
「懐いてくれて驚きましたが、折角の機会なので」
「……そっか、楓は明日もまだこっちに居るんだな」



 言葉だけ聞けば「居なくていいのに」とも取れるものだったが、その表情は安堵を滲ませていて。

 明日の夜にはここを出るのだと、それを知らないのは宿所の中では彼と新しいお客さんだけだ。
 口を滑らせないように笑みを返すと、靴を履いてこちらを振り向いた久住さんが感情の読めない表情で目を細めた。



「………じゃ、おやすみ」
「お気を付けて。おやすみなさい」



 特に何も突っ込んでは来なかった彼は、片手を上げてから背を向けた。
 玄関の戸が閉まるまでその場で立ち尽くし、閉まった瞬間に深く息を吐いてしゃがみ込んだ。


 新しい上書きされた片想いを自覚して、明日の事を考えながらも風呂と着替えを済ませて浴衣を老夫婦に返し、少し話をしてから部屋に戻った。



 


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