中編
41
高校入ってすぐに働けるだけ働き貯金して、卒業と同時に家を出た。父親とだけは最低限会話が出来て保証人にはなってくれたがそれからは絶縁状態に等しく、きっと母親がそうさせているんだろうと思う。
保証人の話を持ち掛けたのだって、母親やその他の親族に気付かれないように都合をつけてわざわざ区を跨いだ離れた場所でしたくらいだ。
その時父親は大学の費用を半分も出してくれて、自分に唯一出来る事だからと感情の見えない顔で言っていた。
父は母や親族に囚われている。離婚が出来ないのは父に身寄りがなかった事に関係しているらしいが、その辺りの話はまったく聞いていない。
それを思い返すと、自分に楓という名前を付けたのは父親だったのではないかと思った。
花言葉を知っていたのか、何かの願いを込めていたのか、その真実は分からないままだが考えてみるとまだ自分の名前の意味や理由を受け入れることが出来そうな気がした。
「───…楓?」
「え、あ、すみません。昔を思い出していました」
隣を見ると久住さんは僅かに目を細め、空いた紙コップに甘酒を追加してくれてそれに口をつける。
過去の記憶で心は冷めているのに体はほんのりと温かかった。
「楓の過去ってさ、なんか寂しい感じ」
「………そうかもしれませんね。自分では分かりませんが、たぶん、間違えではないと思います」
「会うたびに楽しませたいなぁって考えるんだけど、どうすれば楽しいのか分かんなくて悩む」
「楽しいですよ?」
嘘ではないのに、久住さんは納得出来ないと言った表情で首を捻りチョコを摘まんだ。
楽しいと思っている。これは自分でも驚くくらい素直にそう考えていて、だけど彼からしたらそうは見えないのだろうかと自分の表現力の低さに腹が立ってしまう。
「……楽しいって思うのに、向こうに帰ったら息苦しくなるのかなって考えると淋しいのかもしれませんね」
「息苦しい?」
「ここは呼吸が楽に出来ます」
「よく分かんねーよー」
「だから余計に苦しいです」
「どっち」
「帰る時に会えたら分かりやすく言いますよ?」
約束ですからね、と笑うと、彼は「意地悪してんな」と苦笑いを浮かべて後ろに体を倒した。
「すみません、意地が悪いもので」
「もー、腹立つなー。そこまでして言えない理由なのかよ」
「はい」
「そこは誤魔化さないんかい」
横向きで腕を支えに頭を乗せた彼は、浴衣じゃなかったら引っ張り倒してやるのにと悪戯っ子の笑みで言った。
正直浴衣で良かったなと思う。
それをされたら耐えていた心の違和感が暴発してしまいそうだ。
ゆっくりと上書きされている事を自覚している。
本当はもう瞬間的に切り替わっているのかもしれないが、なんの意地なのかそれに抵抗している自分が滑稽だ。
日が傾いてきて、木に囲まれている湖の周りは林の外より早く暗さが姿を見せてきている。
ぼんやりと湖を見つめていると、不意に起き上がった彼が俺の結っている髪の束に触れて肩が強張った。
「……っなんか付いていましたか?」
「いや、……うん、付いてた」
「どっちです?」
「着物の襟ってさぁ、」
言葉を切った彼に振り返ろうとした瞬間に生え際の首筋を撫でるように指が触れ、反射的に息が詰まる。
「っ……、くすぐったいんですが」
「くすぐり弱いの」
「そうじゃなくて、」
触れている指を退かそうと手を出すがあっさりと掴まれて、そのまま肩に固定された。
何を考えているのか、行動の意図が分からなくて、いや予想をしても自分に都合が良すぎると思ってしまい混乱する。
掴んでいる手は暖かくその骨張った感覚に意識が引っ張られて動けない。
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