中編
2
長いようで短かった一件が落ち着いた頃、俺は槙野の部屋に移動した。
理事に私案を持ち掛けた際に、部屋の移動の件も話したのだ。驚いてはいたものの、本来二人部屋である俺と槙野の使用していた部屋がどちらかひとつ空く事について異論はないらしく、今回の件が済んだら引っ越しをするという事であっさり纏まった。
槙野にそれを伝えたのは、部屋を移動する前夜である。
もちろん、本気にしていなかったらしい槙野は目を見開いて唖然としていたが、独断のようなそれに否定の言葉はなかった。
土日を利用して、殆どない私物を槙野の手を借りて部屋に移動させ、理事に引っ越しの完了と今回の件の結果を伝えに行くと、穏やかな中に罪悪を滲ませた目で理事は深く礼を言った。
結局どれもこれも自分の為だったのもあるせいで、素直に受け取れなかったが。
そう思うと、槙野と話すようになってから随分変化したと思う。
変化というのか、戻ったというのか。
何かをしたい、という行動の欲が出てきたことは、悪いことじゃない。好き嫌いに関してもそうだ。
以前のような豊かさはないにしろ、表情も少しは変わるようになったと思う。
楽しませたい、楽しみたい、という欲はないが、笑うことは出来る。それでいいと思える。
この件を処理する発端になり、俺に強力な薬品を摂取させた長岡文也は一週間の謹慎処分を受けた。
もともとそういう類いの薬の使用は、薬のランクがA以上のものを使用したと発覚した場合、所持又は与えた側に処罰が下る。
それ以下は没収と厳重注意、薬品関連の所持者リストに載るが謹慎はない。
今回の件で、同類のものを所持していた生徒も見つかり、仲介役をしていた生徒の名前はそのリストに要注意として載っただろう。
一部のものは依存性もあるというから、またどこからか出てくるだろうが、しばらくは外界も警戒して流してきたりはしないはずだ。
「…朔、」
「なんだ」
槙野の部屋であり俺の部屋にもなった居間で、コーヒーを飲みながら槙野が吸う煙草を見つめていると、名前を呼ばれた。
ソファで隣に座る槙野は正面を見たままだったが、ちらとこちらを見ると煙草を消してコーヒーを飲む。
「…いいのかよ、俺と同じ部屋で」
不機嫌そうには見えない。何かを耐えているように見える。
本当に言いたかった言葉ではなく、繕ったような言葉に聞こえた。
「決めたのは俺だ」
「そうだけど」
何を気にしているのかは分からない。俺は槙野新ではないから。
だけど、知りたいとは思う。
槙野が俺に何を言いたいのか、本当は聞きたいのか、何を思い、考え、そんな表情をするのか。その理由を。
あれから、不可抗力の結果槙野に抱かれた日から、槙野はよく俺に触れてくる。
おそるおそる、というよりは、何かを吹っ切ったような動きで。
腕に、頭に、髪に、頬に。
無意識なようで欲に忠実に動いているような触り方で、然り気無く、優しく。
それを不快だとは思わない。
寧ろ槙野の触れ方は心地好いと思える。
他意のない、ただ自らの欲求を満たすためだけに行われているようなそれが、心地好いと思える。それは俺の変化なのだろうか。
髪を梳く手を受け入れながら、じっと見つめてくる目を合わせる。
躊躇っているように見えた。
「何を考えてる?」
「……いや、自分の下らねぇ独占欲に呆れてる」
独占欲。支配欲ではなく。
誰に対するものなのか聞くほど、俺は鈍感ではない。槙野は独りで居ることが多い。誰かに独占欲を抱くほど、側には特定の誰かを置いていない。
そんな槙野の、独占欲。
「…表情とか、感情とか、そういうの全部、俺のためのものであってほしいと思ってる。だけどそれを、強制する気はない」
望んでいる事はあるが、無理矢理そうさせるつもりはない。心からのものでないそれらは、受けとる側からすればそれに気付いてしまう。虚しいだけの、ただの束縛。支配。
だからせめて、相手がそれを自ら向けてくれればいい、と、ただ望み、けれどそれを悟らせないように。
けれど、
「俺はお前と居るとき、感情が動く」
「……今はそれで満足しとく」
はにかむように笑った槙野は、それを隠すように立ち上がって無くなったコーヒーを淹れにキッチンへと向かった。
世界の色が変わっていくような気がした。
それが以前まで見ていたものなのかは、もう分からない。
ただ、俺はそれでいいと思った。
E N D
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