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間違い探し
 


 裕生は学生鞄を手にしたまま、しかし部屋から出られずにいた。扉は開いているが、鎖に繋がれているかのようにそこから先に足が進まなかった。
 落ち着いてきていたはずの呼吸がまた荒くなり、手が震える。


「裕〜?」


 遠くから足音と聡の声がして、裕生は閉じていた目を開けた。聡はすでに近くに来ている。


「なにしてんだ?ほら早く行くぞ」
「っ、」


 制服の上から手首を掴まれ、聡に引かれて裕生はそのまま部屋から足を踏み出した。
 階段を下りてリビングに入ると、裕生の父は穏やかな声で「おはよう」と言った。記憶の中とは違う。
 あの時の母と同じ目をしていた父は、優しい頼りになる父だった。両親の仲睦まじい姿と聡の存在は、今の裕生にとって遠い過去のもので、二度と見ることなどないと思っていた。鞄を持つ手に力が入る。


「……おはよう」
「具合悪かったら無理しなくていいからな」
「うん、大丈夫」


 それが当然であるように、父もまた裕生を気にかける。その言葉が全身に染み込んで、しかし泣くまいと裕生はダイニングテーブルに用意された朝食に視線を落とした。
 トーストとサラダと炒り玉子にソーセージが一枚の皿に彩られている。プレーンヨーグルトにはブルーベリーのジャムが掛かっていて、懐かしい母の洋風朝食だった。ブルーベリーは裕生が好きなジャムで、いつもそれをつけてくれる。隣には聡の分もあって、既に半分ほど減っていた。
 記憶の中と同じ光景がある。温かかったあの空間のなかに、自分がいる。


「早く食わないと遅刻!走って腹痛登校は勘弁な」
「うん、いただきます」


 香ばしいパン、ほんのり甘い玉子、塩気のあるソーセージに脂をさっぱりさせるサラダを口に放る。噛み締めて、飲み込む。
 これはこんなに美味しかっただろうか、と裕生は驚き瞬いた。
 それまで裕生にとっての23年間は、食事なんてただのエネルギー補給でなにを食べても味気など無かった。冷たくて、怖かった。生きなければならない脅迫のような空腹と、それを誤魔化し埋めるただの物体であった。
 若い体に沁みわたるそれらは、母の情を多分に含んだ豊かな食事だった。


 のんびりと食事を済ませた裕生は、また聡に引っ張られて慌ただしく家を出た。
 外は快晴で、鳥の囀ずりと住宅の向こう側から車の往来が聞こえ、僅かな通行人が足早に裕生たちの前を通り過ぎる。


「今日あっついんだってさ、まだ6月にもなってないのに」
「もうすぐ梅雨だね」
「裕のクセ髪が爆発する季節」
「切ろっかな」
「えー、あんま短いの似合わないだろ」


 案外普通に会話出来るものだな、と自分を誉めながら、裕生は周りを観察しながら歩いた。
 家から学校までの道は記憶と変わらない。住宅地を抜けて広い道路に出ると、すぐ向かい側に中学校がある。そのまた更に奥の方が裕生たちが通う高校だ。横断歩道の前には信号待ちの中学生と、同じ制服の高校生が数人のグループで喋っていた。


 


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