境界線を越えたその先に
ジーノがぐるぐる悩んでいます
その感情に気付いたら、あとはもうあっという間だった。
真っすぐに見つめてくる瞳は、いつもこちらの心の中まで知ろうと瞬いているように見えた。フットボールについて何を思い、何を考えてボールを蹴っているのか。どんなプレーをしたいのか。チームの為に何ができると考えているのかと。そんな風に瞬く瞳に見つめられれば、彼のフットボールがとても楽しくて、汗をかくことも厭わないプレーをしてもいいと思えるようになったことなど、すぐに分かってしまうだろうと感じた。そして、こちらの心を知ろうとする瞬きはそれだけではなかった。その瞳はボールを蹴っていない時にもしばしば向けられることがあった。調子はどうかと訊かれたり、最近楽しそうな顔してんね、彼女といいことあったのとからかわれたり、この前の試合頑張ってたなと嬉しそうに褒められることもあった。ユニフォームを脱いだ後でも、心の中を覗いてくる瞳。その瞳が輝いて見えてとても綺麗だと思った時には、もう、落ちていた。
常識的に考えて決して落ちてはいけない恋に落ちてしまった。望みのない恋。想う分だけ切なくなる恋。だから、境界線を引いた。自分から。これ以上こちら側に入って来てもらっては困るから、目には見えないそれを引いた。ピッチの中と外を隔てるあの白線のようにはっきりとした境界線だ。たとえその境目ギリギリまでは近付いたとしても、絶対にその先へと踏み出さないようにした。戯れのように見せて彼の髪や肩に触れても、決してそれ以上引き寄せたりはしなかった。理由は明白だ。一歩先へと踏み出した時、彼が背を向けることがどうしようもなく怖かった。彼に会う度に余裕ぶって笑顔を振りまいていたけれど、本当は恐れていたのだ。心の内側を理解しようとしてくれるその瞳がいつか自分を映さなくなってしまうことを。
「ジーノ。お前、本当は調子悪いのに無理してたな。」
それなのに、彼は思ったよりも簡単にこちら側へとやって来る。もう走れない足を使ってこちらが引いた境界線などあっさり飛び越えて。
「えーと、そんなこと…ないよ。ボクはまだ大丈夫だったんだけど。」
「無理すんなっての。」
ちゃんと分かるんだからな、そういうの。それに、お前が頑張ってたのも俺は分かってるから。伸ばされた指先できゅっと鼻を摘まれてしまった。途中交代でパフォーマンスが下がったままベンチに下がることよりも、無理をしてプレーし続ける方がいけないことなどジーノ自身が一番よく知っている。だから達海の言葉を冗談めかして否定してはみても、大人しくその指示に従った。ジーノは一旦ロッカールームに戻ってクールダウンや左足のケアをして上着を羽織ると、外よりも静かな通路を再び通ってサブ組が座っているベンチへ座った。試合終了までまだまだ十分に時間があるからだろう、達海は少し離れた所でヘッドコーチと共に様々な指示を飛ばしている。その真剣な横顔にどしようもなく惹き込まれてしまう。だがそれ以上に試合中のジーノの体調の変化にちゃんと気付いてくれたこと、そして鼻先に触れた細い指の感覚がジーノの心を激しく揺さぶった。
「そういうの、ずるいよね。」
心が揺らぐ度に心の中の境界線が酷く不安定になる。境目が曖昧になりそうになる。ジーノは小さな吐息を洩らした。気に掛けてもらえて嬉しい。触れてもらえることが嬉しい。彼とチームの為に頑張っていることを理解してもらえていることが嬉しい。嬉しくて、どうしようもない。だから、その分だけ切なくなる。その分だけ何度も境界線を引き直さなければならなくなる。
「こっちに来ては駄目なんだよ、タッツミー。」
ボクは傷付くことを恐れる人間だから。境界線の向こうから半端に手だけを伸ばして手招きして、少しだけ君に触れて、それで満足しようとしているだけなんだ。口にしようとした続きの言葉は音になることはなく、心の奥へと沈んでいった。ジーノは達海と、そして目の前の白熱した試合からゆくりと視線を外すと、赤と黒が映える青い空を仰いだ。
*****
午後過ぎまでの合同練習が終わり、ジーノはシャワーで全身の汗を流した後、仲間と軽く言葉を交わしながら着替えを済ませた。そして愛車を停めている駐車場に向かうべくクラブハウス内の廊下を歩いていたのだが、奥の角を曲がって現れた人物に思わず足が止まった。
「タッツ…」
達海は黒いパーカーを無造作に羽織っており、その下から白いタンクトップが覗いている。ぺたぺたと歩くその姿は時折見かける普段の達海だ。達海がジーノに気付いたようで、お、というような顔をしてそのまま歩いて来る。我に返ったジーノも声を掛けようとしたが、こちらにやって来る彼の姿に何だか違和感を感じた。もしかしたらただの思い込みや勘違いなのかもしれない。だが、ジーノは心に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「…もしかして、足、痛むんじゃないのかい?」
「何で?」
「あ、いや…何だか、いつもより、歩き方が…」
「別に平気だけど。歩き方なんていつもと同じだし。何?お前、そんなに俺のこと見てんの、吉田〜?」
達海が人の悪い笑みを浮かべる。吉田って呼ばないでおくれと言い返しながら、ジーノは目の前に立つ達海を観察した。その顔は苦痛になど歪んではいない。ジーノのことを面白がっている顔だ。彼の言葉通り、平気なのかもしれない。けれど確かに小さな違和感のようなものを感じたのだ。その違和感は確かにジーノの胸をきゅっと締め付けた。ジーノは気が付けばいつも達海を目で追っている。想いを寄せる彼のことをもっと知りたい、もっと理解したいと思ってしまうから。だから達海の変化が分かるような気がしたのだが。
「…それなら、いいんだけど。ボクの気のせいだったのかな。でも、無理だけはしないで。」
もっと理解したい。もっと触れたい。もっと見ていたい。そう強く願うくせに、いつか伸ばした手を振り払われるかもしれないと恐れて結局境界線を引いている。そんな矛盾した自分自身が情けなくて、ジーノは達海に触れようと伸ばしかけた腕をそっと下げた。
「ジーノ?」
怪訝そうな瞳がジーノを見つめる。透き通って輝いて見える瞳。それが欲しくて堪らないのに腕を伸ばしてこの手に掴むことができない。好きで堪らないのに。
「どうした?なんかお前、泣きそうな…」
「嫌だなぁ、何言ってるんだい、タッツミー。」
達海の言葉に被せるように、ジーノはそん訳ないだろうと両腕を広げて笑って見せた。彼はいつもそうだ。いつも自分達の間にある境界線を無意味にしようとする。それがどんなに嬉しくて、悲しいか。
「君の足が大丈夫なら、ボクはもう行くとするよ。今日は帰りにお気に入りの店で家具を見ようと思っているからね。」
これ以上は駄目だ。境界線が揺らいで消えてしまうから。ジーノは達海に微笑んでから背を向けて先を歩き出した。
「ジーノ。」
「……っ、」
名前を呼ばれれば、振り返ってしまうに決まっている。他の誰でもない彼に名前を呼ばれることは特別なことなのだと、彼が知るはずもないけれど。
「タッツミー…?どうしたんだい?」
「俺は、大丈夫だから。」
達海の指先がジーノのジャケットの裾をちょんと引っ張って、そっと離れた。どうして彼はこうも簡単に飛び越えてしまうのだろうか。それだけだから、じゃあね、気を付けて帰れよと笑って、今度は達海が背を向けた。
「君は、」
どうして越えることを恐れないのだろうか。この時ばかりはそんな彼が酷く眩しくて、それと同じくらい腹立たしかった。けれど、本当に腹立たしいのは傷付くことを恐れて何もできない自分自身だとジーノは痛いくらいに分かっていた。
*****
余裕ぶってみせるのは、全部自分自身を誤魔化す為だ。自分の感情を誤魔化す為の。その為に彼に笑ってみせるのだ。
境界線を引くのは、全部自分自身を守る為だ。自分の心を最優先する為の。その為に彼に近付いても傷付かない距離を決めているのだ。
そうすれば、きっと上手くいく。
今日の練習の後、寄り道しないで真っすぐ俺の部屋に来るように。王様の命令は絶対だかんな。グラウンドからクラブハウスに戻る途中で達海にそう言われて突然呼び出されることになってしまった。仕事しないで待ってるからと、とどめの言葉を吹き込まれてしまえば、境界線から目を背けることはできなかった。
「タッツミーから呼び出されるなんて珍しいというか、こういうのは久しぶりだよね。ボクに話したいことがあるのかい?プレーのこと?」
簡素なベッドに腰掛けている達海のすぐ隣に座ってジーノは優雅な笑みを浮かべた。境界線ギリギリのラインに近付くことは胸が苦しくなるけれど、結局どうしてもやめられやしない。好きな人をすぐ近くに感じたいとう願いはこの胸から消えることはなかった。
「なぁ、ジーノ。何でお前、そんなに焦ってんの?」
ジーノのものとは異なる色の瞳と間近で視線が合う。ジーノをじっと見つめる達海は真剣な表情をしていた。
「最近ずっとそうじゃねえの?」
「……」
「心配、してんだよ。」
「……」
「ジーノ。」
「やっぱり…君には何でもお見通しなんだね。ああもう、悔しいなぁ。」
ジーノは困ったような声で笑った。やはり、自分で線引きすることなど無意味で無駄なことだったのだ。そんな物は最初からいらなかったのだ。
「タッツミー。君は、ボクを理解してくれる。」
「え?」
「君は、ボクのことを理解しようとしてくれる。だから、ボクの力が発揮できる場所を作ってくれた。ボクに心から楽しめる場所をくれた。」
「ジーノ…」
「ボクはそれがとても嬉しかったんだ。だけど、同時に酷く怖かった。ボクが君を求めて手を伸ばしても、君が全てを受け入れてくれるなんてそんな夢みたいなことは起こらないから。…ボクは、ボク自身が傷付くことを恐れたんだ。『王子』のくせにね。」
「ジーノ。」
「うん。」
「お前だって、俺のこと理解してくれようとしてんだろ?」
「それは…」
達海のことを理解したい。それは強く思うことだった。こんなにも愛しいと思う人なのだから。
「何やかんやでさ、お前が一番俺の変化に敏感なんだよね。」
「タッツミー…」
達海が小さく笑って、だからかな、と言葉を発した。その声はどこか楽しげで、彼を見つめ返すジーノの心は震えた。
「あの日の足のことだって、気付いたの、お前だけだったんだよ。それにね、ジーノ、お前は試合でいつも俺の頭の中にあるフットボールを見せてくれる。時々、それ以上のことなんかもね。だから、お前も俺のこと理解してくれてるって思えるんだ。」
「タッツ…」
「だからさ、お前が綺麗な笑顔で俺を遠ざけようとしても、変な境界線みたいなので最後まで近付かないようにしてても、そんなん関係なく俺はお前を捕まえておくから。簡単に越えられんだからな。」
達海がぎゅっと手を握ってくる。彼は躊躇いもなく何度だって飛び越えてしまうのだ。敵うはずがない。それに、この想いはやはりどうしても誤魔化したくはない。達海が好きだという大切な気持ちは。
「やっぱり君はプレーのことだけじゃなくて、ちゃんとボク自身のことを理解してくれてるんだね。境界線、だなんて…」
「あ、やっぱ境界線張り巡らしてやがったか。そんな気がしたんだよねー。ずっと気になってんのに、お前、俺に最後まで踏み込ませようとしないもんなぁ。」
「でも、本当はずっとこんな風に君に触れたかった。」
恐る恐る手を伸ばして達海の頬に触れてみる。それは廊下で偶然会ったあの日にできなかったことだった。少しだけ低い体温がそっと手に馴染む。戯れのように髪や肩に触れたことはあっても、ここまで強くはっきりと達海の体温を感じられるのはこれが初めてだった。ジーノの行動に達海は少しだけ驚いた表情をしたが、ふっと目を細めた。そんな彼に堪らなく愛しさが込み上げて、そのまま静かに口付けを落とした。
「タッツミー、君の言う通りだね。簡単に越えられちゃったよ。」
「お前、人に王子とか呼ばせるくせに、時々変なとこで臆病だから困んだよ。」
境界線を越えることは本当はたやすいことで。その線を越えても、傷付いてしまうことはなかった。向こう側に立つ彼が、大丈夫だからおいで、と両手で受け止めてくれたから。だから。
「タッツミー、好きだよ。大好きなんだ。」
「知ってる。分かってたよ、ちゃんと。」
境界線を越えたその先にあったのは、輝く瞳を細めた彼の笑みと、伸ばした手をそっと包んでくれる優しいその温もり。
END
あとがき
境界線とお互いを理解することをテーマにして書いてみました。ジーノが女々しい感じですみません。ですがタッツミーのことで色々と必死になって悩むジーノもいいと思います。基本的に格好良い王子が好きなのですが、格好良い王子が書けません´`原作の王子が格好良すぎですので、もうそれだけでいいと思います!
読んでくださいましてありがとうございました^^
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