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甘い恋を召し上がれ 2
偶然だった。そのカフェを見つけたのは本当にただの偶然でしかなかった。けれども自分は今でもその偶然に感謝せずにはいられない。その偶然が愛しくて堪らない。いっそ泣きたくなるほどに。強く強くそう思えるのだ。


いいや、寧ろこれは偶然などではないのだ。本当は偶然などでは片付けたくなかった。ガラス越しに彼を見掛けて。初めて彼を見たのはもう随分と前のことなのだが、その日を境に確かに自分は変わった。彼が、変えてくれたのだ。彼が、思い出させてくれたのだ。


土方は駆け出しの舞台役者だ。デビューしてまだ日も浅いので、知名度がある訳でもなければ有名な舞台に数多く出ている訳でもない。所謂若手の新人役者だった。まだまだ有名ではない。けれども最近は少しずつではあるが、演技がきちんと評価されるようになり、大きな役ではないがコンスタントに舞台に立つことができるようになってきている。演じることが素直に楽しく、まるで呼吸をするかのように自分にとっては自然なことで。役者という仕事を選んで本当に良かったと感じているのだ。今の土方は演じることを通して色々な人生を生きることが嬉しくて仕方なかった。今でこそこんなにも演技を楽しむことができて毎日が充実しているといえるのだが、以前の自分は違った。今とは全く違っていたのだった。


少し前の自分は酷く焦っていた。土方は数ヶ月前の自分自身を振り返る度にそんな風に思う。あの頃の自分はいつも焦燥感を抱えていたのだと。一人前の舞台役者としてデビューしたはずだった。それなのに貰える役は台詞の少ない名前もあるかどうかの端役ばかり、主役を募集しているオーディションを受けてみても、いつも結果は不合格で。自分は決して演技力がない訳ではないのに。一生懸命演じているのに。何故か上手くいかない。自分の気持ちと現実が酷くかけ離れており、そんな無味乾燥な毎日の繰り返しに土方は苛々していた。苛ついて仕方がなかった。演じることも楽しいとは思えなくなり、むしゃくしゃした気持ちだけが胸の中に消えない暗い炎のように燻り続けていた。


やり場のない苛立ちと焦りを抱えて過ごしていたそんなある日のことだった。土方にとって決して忘れられない出会い。その出会いが待っていたのは珍しく稽古が早く終わった日だった。どんな役であろうと舞台に立てることは役者にとって何よりも幸せなことであるはずなのに、その時の土方には稽古が苦痛に感じられた。全くと言っていいほどやる気が出なかった。台本を読み込んで台詞を喋っても、吐き出された言葉は舌の上を虚しく滑っていくだけだった。今回の舞台も大きな役で出演できる訳ではなく、個人的に受けていたオーディションも結局満足な結果とはならなかった。もっともっと上に行きたいんだ、俺は。なのに何でこうなんだよ。土方は心の中の苛々を消し去ることができないままに稽古場を後にした。


稽古が珍しく午前中に終わってしまった訳だが、午後からの予定について特にこれといって考えていなかったので、土方は駅の周辺をぶらぶらと歩くことにした。今日はいつも以上に時間がたくさんある。たまには普段通らないような駅の裏通りや奥まった道でも歩いてみるか。土方はそれもいいなと考えた。1人でのんびり歩くのはそう悪くはないし、今は人通りの少ない静かな場所に行きたかったからだ。土方は軽い散歩のつもりで駅前の大通りから奥に入った中道へと進んだ。そして、彼を見たのだ。


「……あの人。」


何気なく視線を向けた先の小さなカフェ。そのカフェの窓ガラスの向こうに彼を見つけたのだ。彼を。ふわふわとした銀髪を優しく揺らしながら、彼は楽しそうな顔で笑っていた。客に注文の飲み物を渡すその笑顔に土方はただ癒やされた。ギスギスとしてささくれ立っていた心が一瞬で柔らかく、そして一気に軽くなった気がして。彼の笑顔はふわりと土方を包み込んで、温かな木漏れ陽のような癒やしをくれたのだ。だからもう無理だった。一目見た瞬間から彼に傾く気持ちを止めることなど。


「笑顔、綺麗だな。」


土方は彼の眩しいまでの笑顔に心を奪われてしまったのだ。彼からどうしても目が離せなくて。惹かれる気持ちを抑えられなくて。土方は歩くことを忘れてしまったかのようにその場に立ち尽くしたまま、彼の横顔を見つめ続けたのだった。柔らかくて優しいその笑みをずっと。


それからだ。土方が変わったのは。あの日彼を見てから、土方は大きく変わったのだ。考えてみるまでもなく自分は馬鹿みたいに単純だろう。けれども土方の中で彼の存在はそれくらいに影響力があった。舞台の稽古が早く終わった日や、稽古がないそれ以外の日でも土方は必ずあのカフェの前を通るようになった。彼の笑顔を見る為に。彼の笑顔に癒やされる為に。彼の楽しそうな顔を思い出す度に、土方の心は温かくなった。そして楽しそうに働く彼を見ている内に、自分も彼のように頑張ろうと思うようになったのだ。気が付けば、土方は演じることが楽しいと再び思えるようになっていた。役の大きさなど関係ない。がむしゃらに頑張ればいい。楽しんで演じることが何よりも大切なことなのだと改めて感じることができたのだ。それは何もかも彼のおかげだった。彼が思い出させてくれたのだ。彼の楽しそうな笑顔が土方の焦っていた心を救い、前を向いて進んで行く力をくれたのだった。


だからこそ、あの日からずっとずっと思っていた。いつか声を掛けようと。いつか会いに行こうと。いつか自分のことを知ってもらおうと。その笑顔にどれだけ癒やされたのか。その笑みにどれだけ力を貰えたのか。彼に伝えたかった。仕事をしている時の楽しそうな顔を見ていて、自分は演じる楽しさを再び思い出すことができたのだと。だから、この偶然を偶然で終わらせない為に。運命の出会いなのだと証明する為に。土方は勇気を出して遂に彼に会いに行ったのだ。普段舞台上で演じている時にはほとんど緊張しないはずなのに、あのカフェを訪れて彼を目の前にした途端、土方は極度の緊張に襲われ、頭の中で考えていたことなど何ひとつ言えなくなってしまっていた。自分がどれだけ感謝しているのかを分かってもらい、あなたのことが好きなのだと伝えるつもりだった。何度となく頭の中でそのシーンを思い描いたのに。


「…俺、土方っていいます。土方十四郎。… また、ここに来ますから。」

「……」

「コーヒーゼリー、美味しかったです。今日初めて だったんですけど、ここに来て良かったで す。必ず…また来ます。」


結局、土方は自分の名前を告げた後、また来ますからとそれだけ言うのが精一杯だった。彼の名前も住んでいる場所も恋人がいるのかどうかも訊くことすらできずに早足で店を出てしまっていた。こんな格好悪い自分を彼には見せたくなかったのに。土方は自分自身に呆れて笑うしかなかった。それでも彼のことが好きな気持ちは変わらない。彼が好きで好きで堪らないのだ。いつか必ず彼に自分の気持ちを伝えよう。そして自分のことを好きになって欲しい。土方は小さな想いを胸に秘めて、これからも彼に会いに行くと心に決めたのだった。





「土方くん、見て見て!」


軽やかな声が耳元で響き、土方はハッと我に返った。注文したアイスコーヒーを先ほど飲み終わって一息ついていたのだが、どうやら無意識に彼との出会いを思い出していたようだった。土方は慌てて気持ちを落ち着かせると、目の前に立っていた愛しい人を見上げた。


「…坂田さん、どうしたんですか?」

「土方くん、これ見てよ。俺ね、夏バージョンのラテアート考えてみたんだ。最近暑くなってきてるけど、冷えた店内でラテ飲むお客さんも居てさ、ハートとかありきたりな物じゃつまんないかなぁと思って、色々考えて、さっき思いついた物なんだけど…」


どうかな?土方くんに感想聞きたくて。銀時がテーブルの上にカップをそっと置いたので、土方はそのまま中を覗き込んだ。彼が新たに考案したのは、これからの季節に合う爽やかな波模様のラテアートだった。小さなカップの中で踊るさざ波に土方はただ感心するしかなかった。


「すごく…いいと思います。」

「ほんとに?嬉しいなぁ。ありがと、土方くん。」


銀時ははにかんだような笑顔を浮かべてとにかく嬉しそうだった。それほど年齢は離れていないが、この人は自分より年上なのにどうしてこんなにも可愛いのだろうか。誉められてはしゃぐ彼が可愛くて可愛くて仕方がなかった。


「…やっぱりすごいですよ、坂田さんは。」


坂田さん。土方は銀時のことをそう呼ぶようになっていた。2回目にここを訪れた時に銀時に名前を教えてもらったのだ。土方くんから先に自己紹介されちゃったから、俺も教えるね、と。それ以来土方は坂田さんと名字で呼んでいるのだ。けれども本当は銀時さん、いや、銀時と呼びたかった。想いを込めて、銀時と。だがそんな風に呼ぶことなどできやしない。自分はただの客でしかないのだから。名前で呼ぶ権利など持ち合わせているはずもなかった。けれでも今はそれだけでも十分だ。お客様と店長さんではなく、土方くん、坂田さんと呼び合うことができているのだから。ほんの少しだけだが、彼に近付けていると実感できるのだから。


「土方くん。」

「はい。」

「アイスコーヒー飲んでたからお腹一杯かもしんないけど…良かったらさ、それ飲んでみてよ。……土方くんに一番に飲んで欲しいなっていうか、何ていうか、その…」


あ、いや、別に今のは何でもないから。ごめん、俺、仕事戻るね。銀時は早口で告げてじゃあねと小さく手を振ると、何故か慌てたように戻って行ってしまった。何なんだ、あの人、可愛過ぎるだろ。再び1人になったテーブル席で土方は嬉しさを隠すように口元に手を当てた。すぐ目の前には銀時が居た名残りのラテが置かれており。土方は再びカップの中身を見つめた。このさざ波と同じように自分の心も銀時のせいで波打っている。酷く疼いて切ない時もあるけれど、彼が自分の心の中に居ることがこんなにも嬉しくて幸せだった。彼のことが本当に好きで好きで堪らない。それはもう困ってしまって仕方がないくらいに。それでも彼を好きで良かったと思いながら、土方はカップの中身を口に含んだ。


「美味いな、やっぱり。」


せっかくのラテアートが消えてしまうのは残念だったが、自分に美味しい物を届けたいという銀時の素直な思いが伝わってきて、土方は優しい気持ちになったのだった。

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