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スプーンひとさじの甘いキモチ 1
白蘭がパティシエです




僕の恋人は、魔法の手を持っている。その指先からはケーキやプディング、クッキー、本当にたくさんのキラキラ輝くスイーツが生み出されるのだ。


彼が作るスイーツを食べると、いつも僕はふわりとした幸せに浸ることができる。ケーキの甘さが、彼の優しさを感じさせてくれるような気がして。


彼は仕事を大切にするタイプでいつも忙しそうだけれど、僕にとっては自慢の恋人なのだ。



*****
僕の会社の最寄り駅の近くに、恋人である白蘭の店、「Un'orchidea bianca」がある。店の名前はイタリア語で、彼の名前を表す白い蘭の花という意味らしい。白蘭が1人で切り盛りしている小さい店ながら評判も上々で、会社帰りに僕が店に行くと同じように会社帰りのOLや学生達で賑わっている。でもそれは当たり前なのだ。自分で言うのも何だが、白蘭の作るものは大袈裟ではなく思わず目を見開くほどそれは本当に美味しくて、食べると幸せな気持ちになるのだから。僕がそうであるように、ここに居る客達も彼の作り出すスイーツに魅せられてしまっているのだろう。本当は僕だけがその幸せを1人占めできればいいのに。白蘭が僕だけのことを考えて、僕だけの為に作ってくれたらいいのに。そんな有り得ないことを考えながら、白蘭の店のドアを開けた。僕は残業がない日は、ほぼ毎日閉店間際に彼に会いに行く。一緒に住んでいる訳ではないので、こうでもしないとなかなか会えないからだ。


「あ、骸君♪お仕事お疲れ様。」


僕を見付けて白蘭がニコリと笑って手を振った。まだ店内には何人か客が居たので、僕は気恥ずかしさから小さく彼に笑い掛けた。そのまま僕は今日は何にしようかとショーケースの中の色とりどりのケーキを眺める。季節の果物を使ったタルトが新しく並べられていて、今日はこれを買っていこうと決めた。


白蘭は、閉店前に急いで買いに来た客の相手をしていた。ショーケースから注文されたケーキを取り出し丁寧に箱に詰め、嬉しそうな笑顔で客に渡す。そんな彼を見ていると、本当にこの仕事が好きなのだと感じる。だから彼の中では、パティシエとしてスイーツを作ることは1番なのだろう。何故なら時々一緒に居ても、白蘭は僕の話に上の空な時がある。そういう時は大抵、新しいスイーツのレシピを考えていたりするのだ。デートをしていても、どうしても明日の準備があるからと、早めに切り上げられた日もあった。僕は白蘭が楽しそうに仕事をしている姿をこうやって見ることが好きであるし、彼の作り出す魔法のようなスイーツには本当に癒やされている。だから彼が仕事を優先することに対して、とやかく言いたくはないと思っている。それに僕がこうして会いに行けば良いだけの話なのだから。





気が付くと、店内には僕以外に誰も居なかった。閉店時間が過ぎていたので、白蘭は今日の仕事は終わったと黒いエプロンを脱ぐと、僕の横を通り過ぎてドアにcloseと書かれたプレートを掛けた。


「今日はこのタルトを頂きます。」


僕はショーケース内に何とか残っていたタルトを指差した。


「おっけ〜。あとは、いつものザッハトルテだよね。ちゃんと骸君の分とっておいたからね。今冷蔵庫から出すね。」


そう言って白蘭は奥の厨房に入っていった。僕は仕事の関係で、どうしても閉店間際にしか白蘭に会いに行けない。彼の作るケーキはとても人気で、いつもそのほとんどが売り切れてしまうので、僕が買いに来る頃には僅かしか残されていないのだ。白蘭はそんな僕を気遣って、僕の好物のザッハトルテをいつも残しておいてくれる。彼の作るザッハトルテはチョコレートクリームがスポンジに絶妙に絡んで、何度食べても飽きることのない美味しさだ。このケーキは店でも人気の品で、開店後すぐに売り切れてしまうので、こうやって食べられるのは恋人の特権だなと思わずにはいられなかった。


「いつもありがとうございます。本当にあなたの作るケーキは美味しいんですよね。…それにケーキだけではありません。ここにあるクッキーやマカロン、フィナンシェも。…あなたの優しさや愛情が詰まっていると思います。」

「うわ〜、すごく嬉しいよ。お客さんにも美味しいって良く言ってもらうけど、やっぱり骸君がそう言ってくれるのが1番だよ。」


白蘭は照れながら僕にケーキの入った箱を渡した。だが残念そうな口振りで、実はまだ片付けがあるからと言われてしまい、今日は邪魔をしてはいけないなと、僕はこのまま帰ることにした。ドアを開けて外に出ようとすると、白蘭がそっと近付き、新作のタルトの感想教えてねと耳元で囁いた。僕は彼の吐息に驚いて、思わず持っていた箱を落としそうになった。慌てる僕を見て、白蘭は店の入り口の前でふふ、と笑っていた。僕が呆れたような目を向けると、彼はまた来てね〜、と嬉しそうに手を振っていた。ケーキが台無しにならなくて良かった。白蘭、あなたって人は本当に。僕は再びケーキの入った箱をじっと見た。今日も彼に会えて、彼が大切に作ったケーキも買えた。小さなことだけれど、僕にとってはこんなに幸せなことはない。いつの間にか僕の心は、満たされた気持ちで一杯になっていた。



*****
今日もいつものように白蘭に会いに行く。最近は仕事で残業が続いていたので、彼に会うのは久しぶりだったし、彼のケーキもお預け状態だった。今日は残っているケーキを全部買ってやるくらいの勢いで、僕は閉店前で客がまばらの店内に足を踏み入れた。白蘭は相変わらずエプロン姿で客の対応をしており、僕は少し離れた所でそれを見ていた。手持ち無沙汰になったので、ショーケースに目をやるとパイナップルを使ったゼリーのスイーツが目に入って、夏が近いことを感じさせた。




最後の客を笑顔で送り出した白蘭は、ゆっくりと僕の所に戻ってきた。


「ふぅ。今日はお客さんがたくさん来て疲れちゃった。新しいムースとゼリーのやつも好評みたいで、忙しいけど嬉しいかな。」


白蘭は頻繁に新作のスイーツを考案しては、店頭に出している。白蘭のケーキを買いに来ると、いつも何かしら新しい物が目に入るからだ。彼は皆に喜んでもらいたい一心で、時間を惜しんで精一杯作っているのだろう。彼のスイーツ作りに対する思いは、僕には分からないほど強いものなのだと思う。新作といえばタルトのことを聞かれていたことを思い出して、僕は白蘭に細かく感想を伝えた。彼は僕の話にうんうんと頷くと、参考になったよと微笑んだ。いつもならば、閉店後のこの時間は僕と白蘭の2人きりだから、恋人同士の甘い時間を過ごしている。次の日の仕事のこともあるので時間の許す限りだが、一緒に話をしたり、店内に備え付けられたティーテーブルで彼の用意してくれたケーキを食べたり。だけど今日の白蘭は口数も少なく、僕は小さな違和感を感じていた。彼が何か言いたそうにしているように見えて、そっと尋ねてみた。


「何か、あったのですか?」

「え…?あ…」


黙ってしまった白蘭の言葉をじっと待っていると、彼は漸く口を開いた。


「あの、…当分お店には…来ないで、欲しいかなって…」


白蘭の口から紡がれた言葉に僕はショックを隠しきれなかった。頭に殴られたような衝撃が走る。


「……僕が、ここに来るのは、本当は…迷惑だったんですか?」

「違うよ!そんな訳ない。…理由は今は、まだ言えないんだ。でも骸君が嫌いとかそういうことじゃないからね。それだけは信じて欲しい。」


理由が言えないなど意味が分からなかった。白蘭の言葉が胸に突き刺さって、僕は複雑な表情をしている彼に背を向けると、ケーキも何も買わずに店を飛び出した。やはり、彼にとっては僕より仕事の方が大切なのだろうか。仕事中に店に来られて、本当は迷惑していることを恋人だから言い辛かったのだろうか。店に来ないで欲しいだなんて、それくらいしか理由が思い付かない。


僕と過ごすより、仕事の方が大事なんですか?僕は仕事の邪魔ですか?


そんなことは絶対に聞きたくなかった。女々しすぎて笑いそうだ。僕はパティシエとして楽しそうに働く白蘭が好きで、そんな彼が生み出すスイーツが好きで。彼が仕事を大切に考えていて、僕より優先してしまうことがあっても、ちゃんと割り切っていた。寂しくなったら彼の店に行けば、彼が笑って僕を出迎えてくれるから、何も問題などないと思っていた。だけどそれが、彼には迷惑になっていたかもしれないなんて。





僕は電車に揺られながら、やるせない気持ちになっていた。移り変わっていく窓の外をぼんやりと見ていると、あることに気付いてしまった。白蘭が作るケーキを食べている時間は、僕にとっては疲れた日常を癒やしてくれる大切な時であることは確かなのだ。彼が仕事に真面目なことも、僕には自慢であった。しかし心のどこかで、僕のことを1番に考えて欲しいという思いがないかといえば、それは嘘だった。ちゃんと割り切っていたはずだと思っていたのに。これではまるで、白蘭の仕事に嫉妬しているみたいではないか。僕は白蘭が頑張っている姿が好きだったのだ。なのに彼が自分ではなく、スイーツばかりに夢中になっていると考えると何だか悲しかった。 自分の中にこんな気持ちがあったなんて、気付かなければ良かった。


店に来るなと言われて、もう当分会社帰りに白蘭に会いに行くこともできなくなった。彼の休みの日に、一緒に過ごすことも今は辛くてできそうにない。あれほど好きだった甘い物も、今は食べたいとは思えなかった。

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あきゅろす。
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