こんな風に始まる恋も悪くない
御曹司白蘭×貧乏大学生骸
「こんにちは♪」
「え、あ…こんにちは。」
玄関扉を開けて部屋に入ろうとしたら、突然背後から声を掛けられた。誰だろうかと振り返ってみたら、ふわふわとした白い髪の男が立っていた。夕暮れ時の茜色が彼の髪を淡く染め上げている。目の前に立っている見慣れない彼を見て、整った顔立ちをしている人だと骸は思った。にこやかな笑みを浮かべている彼は人当たりの良さそうな雰囲気を纏っており、初めて会ったばかりではあるが、女性が放っておかないタイプなのではと、そんなことも思ってしまった。背丈もであるが、年齢も多分そう変わらないだろう。骸がじっと見ていると、白い彼はすぐ側まで移動して、ふふっと嬉しそうな声を出した。
「良かった。やっぱりお隣さんだったー!僕は白蘭。君の隣に引っ越して来たんだよ。よろしくね。」
「隣に…」
そういえば数日前に今まで空き室になっていた隣の部屋が何やら騒がしかったことを思い出した。骸は大学に通い、さらに奨学金返済の為のアルバイトもしているので割と忙しい毎日を送っており、新しい住人に会うのは今日これが初めてだった。
「そうですか、引っ越して来た方だったんですね。僕は六道骸です。こちらこそよろしくお願いします。」
「うんうん。よろしくねー、骸君。」
白蘭と名乗った彼はにこにこと骸に笑い掛けたが、表情を戻して、ところでさ、と言葉を続けた。
「ここの部屋、狭すぎない?壁もなんか薄いし、とにかく狭くない?」
「え?」
突然の問いに骸は困惑した。部屋が狭いとはいきなり何の話だと男の様子を窺う。家賃の安さに比例するように外観は年季が入っているし、確かに彼の言う通り狭い内装ではある。だが、最寄駅から近くて便利であり、学生の、しかも奨学金を借りていてお金に余裕のない大学生である骸にとっては部屋の狭さなど気にしていられなかった。
「僕の家のトイレより狭いんだよ。嫌だなぁ、ほんと。それにね、何か用事があって呼ぼうとしても、当然だけど今までみたいに誰も来てくれないし。お風呂も足伸ばせないしさー。ベランダから見える景色も悲しいくらいに味気ないし。慣れるまで時間掛かりそう…」
「……」
骸は改めて目の前の彼を見つめた。白いシンプルなカットソーの上に黒の薄手のニットカーディガンを羽織ってグレーのストールを巻いているラフな格好の自分とは違って、白蘭は首元や手首にいかにも値の張りそうなシルバーアクセサリーをつけているし、着ているレザージャケットやダメージジーンズも非常に凝ったデザインで、どこかの高級ブランドの物だと納得できる作りになっている。彼がこの古びれたアパートに似つかわしくないのと同じように、その手に持っているコンビニの袋も彼からは浮いて見えた。オーラ、というのだろうか。彼のように派手で華やかな雰囲気の人間は大学のキャンパス内でもそうそう見掛けやしない。それに先ほどの口振りからして、もしかしたら彼は名家の出身なのかもしれないと感じた。
「…あの、この周辺にはこのアパートよりも部屋が広くて高機能なマンションも結構ありますし、もし、働いていて余裕があるのでしたら…」
「えーと、まだ働いてはいないんだけどね。…あ、ミルフィオーレ財閥って知ってる?僕、一応その後継者でさ。」
「ミルフィオーレ…!?」
知ってるも何も名家どころか超有名大財閥ではないか。骸は予想外の返答に目を丸くした。元々は銀行経営から始まり、証券や不動産、建設、ホテル経営などの業績も素晴らしく、たくさんの傘下企業を抱えている名門財閥系の大企業だ。最近では製薬関係の事業にも手を広げていると、この前テレビのニュースで見たばかりだった。
「あの、ミルフィオーレの…」
その御曹司が一体何故このような所に居るのか。全く理由が分からない。骸が困惑していると、驚かせちゃったかなと白蘭は困ったように笑った。
「まぁ、僕が跡取り息子っていうのは別にそこまで気にしなくてもいいんだけど。」
「いえ、どう考えてもそういう訳には…」
「教育係のユニちゃんにさ、突然言われちゃったんだよね。」
「え…?」
「帝王学や経済の理論なんかをただじっと机で学んでいるだけじゃ意味ないから、外に出て社会勉強してこいって。で、必要最低限の物だけ持たされて、いきなり、ぽいっ、だよ?僕の意見とか全部無視されてさ。あり得ないよね?ひどくない?しばらく帰って来てはいけませんから、だよ?ブラックカードも試してみたけど使えなくなってるし、そんなのってないよ!」
「……」
「で、住めるとこ探して、駅に近いここを見つけて。」
「……」
「あーもう本当に最悪だよね。今は何とかなってるけど、これから先どうしようって感じだし。」
白蘭はむうと頬を膨らませて自分が置かれている状況を骸に話した。何だかドラマや本の中の物語のように現実離れした話であるが、一般人と財閥の御曹司とでは住む世界が違うのだから、そういうこともあるのかもしれない。
「狭いのやだなぁ。落ち着かないし。3時にドルチェが出て来ないのもつらい。何もすることがないから1日中暇だしさー。やんなっちゃう。」
「……」
ぶつぶつ不満を口にし続ける白蘭を見ていたら、何だか段々と腹が立ってきた。こちらは奨学金返済の為に毎日一生懸命アルバイトをして頑張っているというのに。大学の講義だって休むことなく真面目に受けているというのに。努力を怠っていないというのに。この男はただ不平不満を口にするばかりで現状から目を逸らしている。近い将来、立派な人物になって経済界を動かしていく自覚があるのだろうか。いや、多分ないのだろう。だからこうして骸に不満を零し続けている訳だ。そんな彼に対して、気付けば勝手に口が動いていた。
「そのユニさんという女性はあなたの為を思ってこのようなことをしたのではないですか?あなたに成長してもらいたいと。それなのに、あなたは狭いだの最悪だの、ここに来た意味も考えずにさっきから不満ばかりではないですか。ここで当分1人暮らしをしなければいけないのでしょう?僕だってここで1人で頑張ってるんです。あなた、もう成人してるんですよね?小さな子供ではないんですよ、分かってます?ですから、文句を言うのはもういい加減にして下さい!」
「僕…はじめて、怒られた…」
「あっ…」
初対面の相手にいきなりなんてことをしてしまったのだろう。聞き分けのない子供のように延々と文句を言う彼に苛々して一気に捲し立てるように説教してしまった。とんでもないことをしたのだと我に返った骸は思わず後ずさろうとした。だが、逃げる前に両手を握り込まれた。
「嬉しいよ。ありがとう、骸クン♪」
「あの…」
白蘭が骸の両手を握りしめたまま、嬉しそうに勢い良く上下に振る。なかなかもう1つの体温は離れてくれず、骸が離して下さいと懇願するとようやく解放してくれた。
「僕、こんな性格だし…僕に近付いて来る子達は皆いつも僕の後ろにあるお金が目当てで。だから、友達って呼べる子も全然居なくて…こんな風に僕のことを思って注意してくれたのは君が初めてだよ。そういうの、すごく嬉しいっていうか…本当にありがとう。」
「僕は、」
言葉通りの嬉しそうな顔を見ていたら、何も言えなくなってしまった。彼にも色々と事情があるのだ。先ほどのことはやはりちゃんと謝るべきだろう。少し言い過ぎだった。骸は白蘭を見据えると、謝罪の言葉を口にしようとした。けれども先に口を開いたのは白蘭の方だった。
「僕、頑張れそうだよ!だって隣にこんな綺麗な子が住んでるんだって分かったからね♪」
狭い部屋でもカード使えなくても我慢するよ。御曹司の自由気ままなアパート暮らし!あ、このタイトルでブログとか始めてみようかなぁ。白蘭は楽しそうに目を輝かせていたが、骸にはへらへら笑っているようにしか見えなかった。やはり何も考えていないただの頭の軽い男なのではないだろうか。この時の骸は白蘭のことをそんな風に思ったのだった。
*****
骸は書店でアルバイトをしている。最寄駅の駅ビルの中に入っている書店だ。生活にあまり余裕がないので、賄い料理の出る飲食店でも働いている。だが学生の本分である勉強も疎かにはしたくないし、自分の時間も少なからず欲しかったので、アルバイトで毎日の予定がみっちり埋まってしまうような生活は避けていた。
最近になって、骸が働いている書店に新人のアルバイト店員が入った。そう、白蘭だ。御曹司である彼は今まで一度も経験したことのないアルバイトを始めた訳であるが、それには骸が大きく関わっていた。幼い頃から専門の家庭教師の下で大財閥の後継者としての教育を受けていた白蘭は大学には通っておらず、このアパートに引っ越して来てからは日がな一日お菓子を食べたり、ゲームをしたりと部屋でごろごろしているだけだったのだ。このまま自堕落に生活していればすぐに所持金も底をついてしまうだろう。それに社会の荒波に揉まれて成長するという目的も果たすことはできない。だから骸は白蘭にアルバイトをするように助言した。まずは僕と一緒に働いてみないか、と。白蘭は育ちがあまりにも良すぎるせいで、庶民の生活がいまいちよく分かっていない。彼と色々と話している内にそれがはっきりと分かった。だから自分の目の届く範囲に彼を置いておこうと考えたのだ。アルバイトを始めた彼が、骸の知らない所で何かトラブルを起こして、どうしよう骸君助けてと泣き付いてくるのだけは絶対に嫌だった。それならば自分と一緒に働いた方がそれはそれで疲れるとしてもだ、何かあった時に先輩としてすぐに対処できると思った訳だった。
「それに、運良く求人も1人募集していましたからね。ちょうどいいと思ったんです。」
「なあに?」
「別に何でもありませんよ。」
「ねぇ、このバイト選んだのって、本が好きだから?」
平日の午後はそれほど客も多くはなく、のんびりとした空気が店内に漂っている。客が少ないのをいいことに隣に立っている白蘭がそっと話し掛けてきた。
「そうですね、読書は好きなので。確かにそれが理由かもしれません。」
「そっかー、本好きなんだね。僕も読書好きだよ♪」
楽しそうに笑う白蘭に今は仕事中ですよと注意しようとしたら、女子大生の2人組がちょうど会計にやって来たので、骸は白蘭から視線を外して客である彼女達に向き直った。
「いらっしゃいませ♪商品、お預かりいたしますね。」
「あ、はいっ。お願いしますぅ!」
骸は白蘭と2人でレジを担当している。ここでのアルバイト歴は言わずもがな骸の方が遙かに長いし、接客だって優しく丁寧にやっている自信はある。本のカバー掛けも客を待たせてしまわないようにと早くて完璧だ。それなのにここ最近は骸ではなく、白蘭のレジの方に並ぶ客が多いのだ。今も女子大生達は真っすぐに白蘭へと向かった。
「560円になります。あ、この新刊、とっても面白かったですよ。今回も前作に続いてハラハラする展開が多くて。」
「そうなんですかぁ!?読むの楽しみ!」
「じっくり読んで下さいね。」
彼は店長にもすぐに気に入られ、仕事を覚えるのも早くて特に骸に迷惑を掛けることもなく真面目に働いている。超カッコいいよね、うん、イケメンだよねと囁き合う声が骸の耳に届いた。別に自分だってそう悪くはない容姿だと思っているが、白蘭のような華やかな空気は持っていない。やはり顔のいいセレブは違うのかと横目でちらりと見遣ると、彼は明るい笑顔で楽しそうにお釣りを渡していた。本を買ってくれてありがとうという真っすぐで純粋な思いが伝わってくる。彼は元来温かくて優しい人間なのだろう。ああ確かに、これでは人気が出るのは当然か。骸は素直にそう思った。
「ありがとうございました!またのご来店をお待ちしております。」
手を振る彼女達に白蘭もひらひらと手を振り返す。客が去って再びレジ周辺が静かになったので、骸は前髪のヘアピンの位置を直していた白蘭に声を掛けた。
「あなた、女性には本当に優しいですね。手慣れている、とも言えますが。」
「女の子は優しく扱うようにって小さい頃から言われてきたからね。社交界の常識だからって。でも、僕、骸君にも優しくしてるつもりだよ。君のことは誰よりも優しく扱いたいんだ。あ、もしかして今の妬いちゃった?」
「なっ…何馬鹿なこと言ってるんですか!」
ぺしりと頭を叩いてやったら、骸君に頭叩かれちゃった〜と白蘭は側頭部に手を当てて嘘泣きをしたが、藤色の瞳は嬉しそうに輝いていた。
「まだ痛いから撫でてよ。」
「嫌です。仕事中です。」
「えー!ちょっとだけ!」
「全力でお断りします。」
「…ふふっ。」
「…っ、何がおかしいんです?」
「んー、楽しくて幸せだなと思って。」
白蘭が少しだけ遠くを見るような目をした。初めて会った日、彼は今まで友達に恵まれなかったと言っていた。だからこんな風に対等に話したり、一緒になって笑い合うことはそう多くはなかったのだろう。
「僕も、別に…悪くはないと思っていますよ。」
それは確かに骸の本心だった。出会いの印象はあまり良くはなかったが、白蘭とアパートで顔を合わせたり一緒にアルバイトをするようになって、彼と過ごす時間がそう悪くはないと思うようになっていた。
「ありがとう。嬉しいよ。」
「白蘭…」
相変わらずセレブ同士にしか通じないだろうことを平気で言ったり、一般庶民の常識が分かっていなくて振り回されることも変わらないのであるが、何故か彼から目が離せないでいる。気が付けば世話を焼いて目で追ってしまっている。その理由が骸自身よく分からなかった。
*****
白蘭はこのアパートに来た当初はコンビニ弁当ばかりを食べていたが、1人暮らしに慣れてからは骸と同様に自炊をすることが多くなったらしい。今まで一度も行ったことのなかったコンビニが非常に物珍しくて頻繁に通っていたこともあったそうだが、今では必要な時にしか買わなくなっていた。自身が貧乏だと自負している骸もコンビニでは無駄遣いをしないようにしている。朝食も夕食も基本的に自分で作るし、昼食は弁当を持参している。大学の友人からは弁当男子だな、家事ができない女子より骸と結婚した方がいいかもと揶揄されたりすることもあったが、骸は笑顔で受け流して1人暮らしを頑張っていた。
「今日、お鍋なの?」
「ええ、そうです。」
「あれだよね、皆でお箸でつつきなが食べるやつ!お肉とか本気で取り合ったり、嫌いな野菜をそっと相手のお皿に入れたり。僕、そういうの初めてだから楽しみ!」
やはり彼の中の鍋のイメージとはそういう物なのかと思うと何だか微笑ましくて、骸は美味しそうな湯気を立てている土鍋をこたつの中央に置いた。
「それにしても、こたつだよ、こたつ!」
白蘭が興奮したように木製の天板を叩く。どこまで子供なのだろうかと骸は笑い出しそうになるのを我慢した。
「ほんとすごい!僕、生まれて初めて入ったけど、あったかくて幸せだね。僕もうこたつから出られない!こたつに住んじゃいたい!」
「確かにこたつはなかなか出られなくなりますね。この季節は必需品ですから。」
白蘭が骸の部屋の隣に住むようになって随分と秋も深まり、冬の足音が少しずつ近付いていた。骸は寒がりな方なので、晩秋の朝と夜の寒さに耐えきれず、早々にこたつを引っ張り出していたのだ。骸は当たり前のようにこたつを使っているが、白蘭の瞳には新鮮に映るのだろう。珍しいおもちゃを貰った時の子供のような反応だ。すごいすごいと喜んでいる。やはり彼はお金持ちの子供なのだ。
「白蘭、熱いですから冷ましながら食べた方がいいかもしれません。」
「はーい!」
骸は鶏肉のつみれ団子と人参や白菜、豆腐などをよそった皿を白蘭に手渡した。
「いただきまーす♪」
「今日はさっぱりとした塩味にしてみました。口に合うといいのですが。」
「君が作るのは何でも美味しいよ。」
「そうですね。当然です。あなたよりは料理の腕に自信ありますから。」
いつからだったのか、はっきり覚えてはいないが、時々こんな風にお互いの部屋を行き来して一緒に夕食を食べるようになった。提案してきたのは白蘭だ。それはちゃんと覚えている。
『これからさ、都合の合う時でいいから、一緒にご飯食べない?1人より2人で食べた方がずっと美味しいから。』
揺れる藤色の瞳でそんな風に言われてしまえば、断る理由が見つからなかった。骸は白蘭の提案を受け入れ、アルバイトの上がりの時間が一緒の日やレポートや課題で忙しくない日、今日は食べてもいいかなと気が向いた日には白蘭と2人で夕食を囲んだ。1人で食べるよりずっといいと思った。材料費も折半だから心苦しくはない。それ以上に白蘭が美味しいよと言ってくれるのが密かに嬉しかったのかもしれない。理由は色々と考えられるが、骸はこの穏やかな時間を好きになっていた。
「マシマロってスーパーとかでも売ってるんだ!」
鍋や皿を台所の流しで洗い終えて2人分のココアを作っていたら、キラキラと星が飛びそうな声が聞こえた。
「ましまろ?ああ、そのチョコマシュマロのことですか。この前安売りをしていたので、おやつ代わりに買ったんでした。」
白いマグカップを白蘭に手渡して、彼が目を細めて中身を口にしたのを見てから骸は再びこたつに入った。こたつの上には甘くてふんわりとした食感のマシュマロが詰まった袋が置かれている。すっかり忘れていたが、読みながら食べようとリビングの端に積んである雑誌の上に置きっぱなしにしていたのだった。それを甘党の白蘭が目敏く見つけた訳だ。
「僕、こういうマシマロ食べるのも初めて!」
「そうでしょうね。」
「いつもはパティシエが出張で来てくれてさ、マシマロを使って美味しいドルチェを色々作ってくれるんだ。」
「…ああそうですか。それは良かったですね。」
彼に悪気がないのは十分に分かっているが、こんな時、やはり住む世界が違うのだと思い知らされる。彼は今目の前で楽しそうに笑っているが、いつかここから去ってしまうのだ。その笑顔をもっと隣で見ていたいと思うのに。そう考えたら、何故か心臓の辺りに鈍い痛みが走ったような気がした。
「骸君、どうしたの?」
「別に何でもないですが…」
「何でもなくないよ。悲しそうな顔してる。そんな顔しないで。」
伸ばされた手が頬を撫でる。突然のことに瞬きもできないまま、唇に感じたしっとりと柔らかな感触に肩が震えた。
「目、閉じて。」
「ん…」
耳元で囁かれて、言われるままにそっと瞼を下ろした。ココア味の口付けなんて子供っぽいのかもしれない。けれども口内に広がるその甘さは頭の芯をじんわりと痺れさせた。本当ならば拒まなければいけないはずなのに、白蘭との口付けに抗いようのない心地良さを感じて、骸は自分から離れることができなかった。骸は白蘭の肩に手を置いて縋るように黒いニットをきゅっと掴んだ。白蘭の肩がほんの少しだけ跳ねる。そっと瞼を開けてみると、照れた顔と視線が合った。白蘭は幸せそうに目を細めると、骸の髪を優しく撫でてから唇を離した。
「僕は、君が好きだ。」
「…白蘭。」
「僕にとって君は大切な人なんだ、骸君。」
ああそうか。目を離せないと思ってしまったのも。ついつい世話を焼きたくなってしまうのも。一緒にアルバイトをしてもいいと思ったのも。2人で夕食を食べる時間が楽しいと思ったのも。住む世界が違っても、隣で笑う顔を見ていたいと思ったのも。彼が好きだからだ。骸は静かに笑うと、白蘭の肩口に顔を埋めた。僕もですよ、と音にならない言葉を紡いで、与えられる温もりに目を閉じた。
*****
今日は一段と冷え込む日だった。だが骸はベッドの中ではなく、こたつに入ってひたすら手を動かしていた。こんな日に夜遅くまで起きてレポート課題を進めるのはつらいものがあったが、提出期限までに終わらせることは絶対なので仕方がない。あともう少し頑張ろうとレポート用紙に向かっていると、玄関のドアを叩く音がした。こたつの上の時計は深夜過ぎの時刻を指している。骸はレポート用紙と専門書を脇に片付けると、玄関へと歩いた。防犯用のチェーンを外して静かにドアを開けると、そこには予想通りの人物が立っていた。
「骸君。」
「どうしたんですか、白蘭。」
「寝てた?」
「いえ、まだ起きていましたけど。」
「あー…ごめん、ほんとこんな時間に。なんか、寒くて…眠れなくて。」
「白蘭…」
「だから、骸君にあっためてもらおっかなーとか♪」
白蘭はへらりと笑ったが、紫水晶の瞳が薄暗い中でも切なげに揺らめいていた。
「中に入りなさい。そのような格好では風邪を引いてしまいます。」
「骸君…」
「いいですから。さあ早く。」
自分の部屋に入るように促すと、寝間着姿の白蘭が骸に駆け寄った。
「1人で眠れないなんて大きな子供ですね、まったく。」
「むくろくん。」
抱き付いてきた背中をそっと撫でてやると、骸の耳元で安心したような吐息が零れ落ちた。
「ごめんね。1人で寝てたら、心が寒いなぁって思って。そう思った途端、君の顔が見たくなった。」
「…別にもう謝らなくて結構ですから、変なことだけはしないで下さいよ。僕、明日は1限目から講義がありますから。」
「うん。」
背中に自分より少し高い体温を感じる。骸は布団の中で白蘭に背を向けてじっとしていた。骸は1人で生活しているので、ベッドは当然シングルサイズの安物だった。骸も白蘭も横幅はなく細いけれども、さすがに成人男性2人が寝転ぶと簡単に身じろぐことはできない。いつもと随分と違う状況に戸惑いながらも、それでも白蘭の好きにさせてやろうと決めたのは自分なのだからと思っていると、背中越しにそっと名前を呼ばれた。
「……誰かと一緒に眠るのって、こんなにあったかいんだね。僕、小さな頃から広い寝室でいつも独りだったから。……君と過ごすようになってから、はじめてのことばかりだなぁ。それがこんなにも嬉しいんだ。」
真っすぐな言葉が心の中で響く。骸はゆっくりと寝返りを打つと、白蘭と視線を合わせた。こっち向いてくれた、と彼がふにゃりと笑う。薄暗い部屋の中でも輝いて見える瞳がただ綺麗だと思った。
「きっと、骸君だから、安心できるんだ。君、だから。」
「もう寝なさい。」
骸はそれだけを囁くと、再び白蘭に背を向けた。だが、ためらいがちに伸びてきた手を離すことはしなかった。ぎゅっと握り締めてくる体温の高い手に小さく笑って、骸は静かに目を閉じた。
*****
彼と過ごす時間がこれからもずっと続くのではないかと思っていた。そんな風に錯覚してしまっていた。いくつかの季節が過ぎて、別れは突然やって来た。実家に戻ることになったんだと悲しそうに眉根を寄せて告げた彼は、大好きな主人と離ればなれになるのを嫌がる白い仔犬のようで、骸とて胸が詰まる思いを感じない訳がなかった。
「絶対また会いに来るから!連絡もするし!電話でもたくさん話そうね!」
「無駄遣いはできないので、僕からはあまり連絡しませんよ。それに、就職活動も本格的に始まるので、これからはそう簡単に会えませんし…それでも、いいと?」
「それでもいいよ。構わない。僕は君を手放したくない。」
彼はどうしても逃げ道を与えてはくれないようだ。骸は真っすぐに白蘭を見つめた。彼がこの部屋に来るのも今日で最後になるならば。
「早く経済界を動かせるくらいの立場になって、僕を楽させて下さい。いいですね?」
骸は初めて自分から手を伸ばすと白蘭の髪に触れた。ふわふわと揺れる髪に指を絡めてそっと頭を撫でてやると、白蘭はずるいよと唇を尖らせた。
「僕は実家があんな感じだから、欲しい物は何でも持ってるつもりだったけど、君は僕が一番欲しいと思う物を持ってた。どんなにお金を積んでも絶対に手に入らない物。好き、という気持ち。」
「白、蘭…」
「君の、僕への想い。」
「…そう、ですね。戻っても向こうでちゃんと頑張るのでしたら、少しくらい期待していても良いかもしれませんよ。」
「骸クン!」
白蘭の髪から指を滑らせてその頬に触れてみると、白蘭は甘えるように骸の手のひらに頬を摺り寄せた。お互いに言葉を発しなくても確かに伝わっていると思えた。自分から触れたのはいいが、今さらながらに羞恥心が込み上げてしまい、骸は慌てて手を引っ込めようとした。だがその手は引き寄せられ、微笑む白蘭に唇を塞がれた。
「大好きだから。」
別れに交わした口付けは、2人だけの約束になった。
*****
「おかえりなさい、白蘭。お疲れ様でしたね。」
「ただいま、ユニちゃん。」
「その様子では色々と学ぶことができたようですね。」
「うん!僕、少しは成長したんじゃないかなって思うよ♪」
「あなたのことですから、特に心配はしていませんでした。昔から要領いいところがあるでしょう?」
「もう!そこは臨機応変って言って!」
「ふふ、ごめんなさい。」
「いいよ、別に許すけどね。」
「白蘭、」
「うん?」
「以前よりもずっといい表情になりましたね。本当に良かった。」
「ユニちゃん…」
「もっと広い目で外の世界を見て欲しいと思ったから、あんなことをしましたが、本当はそれだけが目的ではなかったんです。」
「どういうこと?」
「白蘭、心を許せる人は見つけられた?」
「――っ、うん。見つけたよ。僕の大切な人を見つけた。」
「見つけたんですね。」
「六道骸君っていう子なんだ。超美人で、作ってくれるご飯は美味しいし、貧乏だからってお金には厳しいんだけど、基本的に面倒見が良くて優しいし。でもそれ以上にね、彼が僕の隣で笑ってくれると、幸せな気持ちになれるんだ。つらいことがあっても頑張ろうって思えるんだ。あ、また絶対会いに行くからって約束したんだよ!連絡先も交換したから、大丈夫!」
「本当に大切なんですね、その人のことが。」
「大切で、大好きでどうしようもないんだ。僕のこと、応援してくれた。早く経済界を動かせるくらいの立場になって、僕を楽させて下さい、だって。ほーんと骸君には敵わないよね。」
「そうですか。分かりました。六道さんの為にも今日からまたしごいてあげますからね、白蘭。」
「え…?」
「まだまだ学ぶことはたくさんありますから。」
「骸君だけじゃなくて、僕、君にも敵いそうにないや。」
*****
それからも骸は白蘭とメールや電話で連絡を取り合った。通話料金のことを考えて骸から電話をすることはほとんどなく、白蘭の方が忙しい合間を縫って連絡してくれた。それで不都合はなかったが、それでも時々無性に白蘭の声が聴きたい夜があって。自分から電話しようかどうしようかと迷っている時にちょうどタイミング良く白蘭から掛かってくることが何度かあった。そのことを話してみたら、離れていても想いが繋がってるからだよと甘い台詞を囁かれてしまって、本当に彼には敵わないと思い知らされた。
就職活動が本格的になると、骸は白蘭と会わないこと選んだ。奨学金返済という至上命題を抱える骸にとって就職活動は絶対に失敗など許されなかったのだ。白蘭は無理しなくていいんだよと心配していたが、骸は彼に助けを求めようとは思わなかった。白蘭ならば大学生が抱える奨学金の返済額など簡単に払える金額であろうが、これは骸の問題なのだ。だがそれは白蘭には関係ないと突き放す意味ではなく、骸が自分自身で解決するべき使命のような物だった。僕は別にあなたとお金を結び付けてはいないので、と答えてやったら、やっぱり君は最高だよと抱き付かれてしまったのであるが。そんな白蘭も骸より先にミルフィオーレ財閥が運営する関連会社で経済の勉強をしつつ働き始めたことをかいつまんで聞かされていたので、ちょうどいい機会と思ったのだ。少しの間、連絡は取り合わない。しっかりと就職できてから彼に会いに行こう。その時はいつかの約束を叶えてあげてもいい。骸はそう心に決めたのだった。そのはずだったのだが。
「これは一体どういうことですか!」
新入社員の研修で、骸は予想もしていなかった光景を目の当たりにしたのだ。
「あなた、やっぱり財閥の跡取りだから色々と…」
「違うって!僕、何もしてないから!それよりも骸君、君ってやっぱりスーツ姿も素敵だね♪」
「そのようなことは今はどうでもいい!」
グレーの細身のスーツを着た白蘭に詰め寄ると、骸はですからどういうことですかと再度強く問い掛けた。2人は現在、午前中の研修で使用されていた部屋からそう遠くはない会議室の中に居る。昼休みになって、とりあえず2人だけで話そうと白蘭に会議室のような部屋へ引っ張り込まれたのだ。
「とにかく驚きましたよ。色々な世代の先輩達と対談して社会人としての自覚を持とう、というからどんな方達と話をするのだろうと思っていたら、先輩方と共にあなたが入って来たんですから。」
「いや、一応僕の方が長く働いてるし。」
「分かってますよ、それくらい。」
「わー怒んないで。僕もびっくりしたんだよ。忙しくて君の就職先聞きそびれてたら、まさかこんな風に再会するなんて!この会社も僕のとこが運営する系列グループの会社なんだよ。だから本当にびっくりして。でも、会えて本当に嬉しいよ。」
骸君もそうだよね?不意打ちのように耳元で甘い声が囁く。そういうのはずるいではないか。会えなかった日々を思い出して、堪らない気持ちになった。
「あの日の約束、覚えてる?」
「忘れたように見えますか?」
「骸君…」
骸は白蘭に近付くと彼の首元にあるネクタイを掴んで強く引っ張った。
「わっ、ちょ…骸くん…!?」
骸は体勢を崩した白蘭に艶やかな笑みを浮かべると、ネクタイを握ったまま口付けた。応えるようにそっと腰に回された手は、やはり自分のものより幾分か高い体温で。久しぶりのその温もりに酷く安心した。
「運命って思っていいのかな?」
「御曹司は気障で困りますね。皆がそうなんですか?」
優しく髪を梳く手に自身の手を重ねて、骸は困ったように笑った。
「僕だけかもね。骸君、大好きだよ。」
睫毛が触れそうなほどの距離で目を細めて笑い合う。骸は白蘭の背中に腕を回すと、そっと頷いた。
END
あとがき
白蘭のセレブ御曹司な設定が全然活かされていない上にキャラ崩壊が甚だしいですが、広い心でお読み頂けると嬉しいです´`2人のやり取りにどこか少しでも可愛いなと思って頂ければ!
骸は白蘭と同じ部署に配属されるかどうかは別として、しばらくはオフィスラブし放題ですね^///^
読んでくださいましてありがとうございました!
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