義弟(きみ)は恋を知らない 3 *** 携帯の着信は無視できても、現実からは逃げられない。 出勤すれば、いやでも尚哉さんと顔をあわせることになる。 蓮は直前まで休めばいいじゃんと言っていたけど、私情で休むわけにはいかないからと、結局出勤することにした。 いつもより3本早めの電車に乗りこむ。会社につくと、打刻するなりネームプレートを外回り用の赤色に変えた。 事務と外回りのローテーションをいつもの逆にすると、尚哉さんと業務のほとんどがすれ違うことを知っているからだ。 逃げてどうこうなるものではないと思う。だけど、話かけられて、普段どおりに対応できる自信なんてない。 それに、もし別れ話を切り出されたら、その場で泣きくずれてしまいそうだ。 いまごろ気付いたんだけど、かなり精神的に追い詰められていたみたいだ。 なんで蓮の言う通り休まなかったんだろう。自分の真面目さが本気でいやになる。 「あれ?ん?お前矢嶋かよ?へー誰かとおもった」 営業所につくなり、一日のスケジュール表をサブリーダーの鬼島さんに渡しにいった。 他の先輩らとおなじく、眼鏡を取った僕の顔を、切れ長で一重のイカツイ顔でまじまじとみてくる。 とてもじゃないが、これで尚哉さんと同い年だとはおもえない。おもわず受け身になり、体を引いてしまった。 鬼島さんは、僕の反応はまったく気にして無いようで。 「いつものガリ勉眼鏡はどうしたよ」と、さらにズイと顔を近付けてくる。 「え、あ、ちょっと、失くしまして」 「ふーん。ま、いいんじゃねーの、表情明るくみえるし」 学生時代はバスケットボールプレーヤーだったようで、2m近い長身のこの鬼島さんは、中身以外は本当に鬼のような人だ。 「でなんか用?ん、外回り?ああ行け行け。今週は月締めだからな、回れるとこはどこでも行ってこい」 朝から忙しそうに動き回る鬼島さんは、「ホラよ」と引き出しから取り出した社用車のキーを僕に投げてよこした。 あれ、このキー番号、車はミッション仕様のはず。 「あの、鬼島さん。僕オートマしか運転できないんです」 「んあ?そこに居んだろ運転手が」 え?と振り向いた。壁に背中を向けていた僕のすぐ後ろに、いつのまにかグレーのストライプスーツの人影が立っていた。 その色合いと、襟元に付けられた赤い責任者バッチは、嫌になるくらい見覚えがある。この数カ月間、ほぼ毎日目で追っていたのだから。 尚哉さん。 急激に息苦しさが襲い、思わず呼吸が止まりそうになる。 「おいで。乗せてくから」 尚哉さんは僕とは目をあわせずにそれだけ言うと、キーをもった僕の腕ごとつかみ寄せる。どうして尚哉さんが、朝から外回りなんてするんだろう。 理由さえわからないまま、腕を引く強引な力に促され、僕らは営業所のそとへ歩き出していた。 *** 気まずい空気のまま、沈黙の続いている車内。 ときどき小石を跳ねた車輪の振動が、ブルリと体内を揺らす。そのたび、服の擦れる音がやけに耳についた。 冷戦状態の車内で、最初に端を発したのは尚哉さんだ。 「悠里、すこし寄り道するぞ。営業にまわるには時間が早すぎるだろ」 ふいに名前を呼ばれ、胸があつくなるも、「はい」と気持ちを抑えこんだ平たい返事をかえした。 大通りから一本小道をはいったコンビニの駐車場に停車すると、尚哉さんは「中で待ってろ」とひとこと、車を降りていく。 しばらくして戻ってきた手には、缶コーヒーがふたつ握られていた。 「ほらよ」 「あ……りがとう、ございます」 「ばか、敬語つかってんじゃねえよ」 不満げな口調であるものの、依然として目線は合わない。だから、僕も下を向いたまま差し出された片方のコーヒー缶を両手でうけとった。 すぐさま尚哉さんの手が、まわりから包みこんでくる。 「……」 僕の倍ほどはある、大きくて無骨な手。 指先や手の平のふっくらした部分が、仕事のしすぎで硬くなってる、尚哉さんの手。 がっしりしているのに、僕の手をすごく優しく握り返してくれる。 壊れ物をいたわるような、目にはみえない不器用な優しさは、やっぱり僕の心の中をきゅんと疼かせた。 「悠里、なんで昨日こなかった」 僕の手の甲を親指でそっとなぞりながら、ポツリと尚哉さんがつぶやいた。 「なんでって……行けるわけないでしょう」 「来いよ」 「なん……っ」 思わずうつむいていた顔をあげた。 じっと見据える尚哉さんの綺麗な奥二重の瞳のなかに、戸惑ったかおをした僕の顔がうつっている。 僕が思っていた以上に、尚哉さんの表情は暗く強張っていた。 いつもの男らしい覇気さえみあたらない。自信に満ちた眉は、情けなくうなだれ、眉間にしわが寄せられている。 「この二日間、俺がどんな気持ちだったか分かるか」 「それは、僕の言う台詞でしょう」 どうしてあなたが、そんな顔をしなくちゃならないんだ。 裏切られたのは、僕の方なのに。 二日間、さまざまな悪い感情が胸のなかをうずまいていた。 この前みたいに、顔を合わせたらひっぱたいてやろうとも思ったときだってあった。 だけど、いざ尚哉さんを前にすると、そんなことどうでもよくなってしまって。 強引で、自分勝手で、でもどこか優しくて、あったかくて。 浮気されたことより、この人を好きだって気持ちのほうがあまりに強くて、心のなかで塞き止めていた想いが溢れてとまらなくなってしまう。 「ちくしょう、電話も無視しやがって。しかもなんでそんなに可愛くなってんだよ。二日間なにやってたんだよ」 尚哉さんの温もりが両手からはなれ、僕の両肩を抱いた。 強引に運転席のほうへ引き寄せられると、ネクタイを緩めた白いカッターシャツの胸元に押し付けられた。 シャツにランバンのルームフレグランスの匂いが染みついていて、僕はまた泣きそうになっていた。 「なあ……悠里。今夜、俺の部屋においで」 まるで、空白の時間を穴埋めするような思わせぶりな言葉に、胸が張りつめた痛みを伴ってたかなる。 「……けません」 「は?」 だけど、一瞬フリーズした頭の中では、すでにひとつのこたえが導き出されていた。 「行けません」 「なんでだよ?」 「このままじゃ、ダメだからです」 媚びないシトラスの甘酸っぱさを閉じこめたランバンの香りは、尚哉さんの部屋でキスした、思い出のにおいだ。 恋の名残りをのこしたシャツを掴み、とうとう涙目でうっすらぼやけはじめた瞳を上にむける。 「俺……昨日告白されました。義理の弟にです。好きだって言われて……キスされました」 「――ハ?」 そう言ったとたん、声色がぐっと低くなる。 しだいに僕と尚哉さんのあいだに、じわりじわりと見えない隔たりが出来はじめていた。 酸素をうすくさせる圧迫感に苛まれながら、負けじと強張った顔を見あげた。 「俺、尚哉さんが好きです。今でも、悔しいけど……すごく好きです」 くそ……、声がうわずって、うまくいえない。 「だからこそ、分かるんです、すごく。義弟(アイツ)の気持ちが」 「何が言いてえの」 どうすればいいのか分からなくて、一晩かけて悩んだ、これが僕のこたえ。 「義弟(アイツ)が、どこまで本気で言ってるのか分からない。でも、一度ちゃんと向きあってから考えたいんです。俺らのこれからこと。 だから……いまは、行けません」 「――ハ?何だよ、これからって。まさか別れるとか、言うわけ」 「分かりません……!でも、そうなる可能性だってあると思います」 「悠里、本気で言ってんのか」 尚哉さんの指が、僕の両肩にギリギリとくいこんでいる。 僕だって、別れたくない。 浮気なんてしないでって叫んで、ひっぱたいて、尚哉さんを独占してしまいたい。 そう思うのに、こういう決断しか下せないんだ、僕という人間は。 「今はあなたの事が好きだけど、もしかしたら一か月後には、義弟を好きになっているかもしれない。恋ってそんなものでしょう?」 「ハハ……。何だよそれ。俺の目のまえで、身内と堂々と浮気するって言いたい訳?」 「そうじゃない。ただ、僕にはアイツの気持ちを受け止める義務があるとおもう。 尚哉さんが僕を好きになってくれたように、ちゃんと考えて、向きあっていかなきゃ。 今のままじゃ、僕もあいつも宙ぶらりんままなんです。 そうしないと、僕はいつまでも前に進めない」 関を切ったように話しだす僕のほおを、尚哉さんはやるせなく撫でる。まるでそこに居ることを確認しているみたいだ。 「俺のこと、好きなんじゃないの?」 「好きです……大好きですよ。何回言わせるんですか」 訳わかんねえ。小さくぼやいたあと、もういちど僕の腕をとり、胸元に引きよせる。 「じゃあ、なんで俺から離れようとするんだよ?」 「そうしなきゃ、いけないからです」 「意味わかんねえ」 それからは、ただずっと沈黙が続いていた。 聴こえるのは、服のこすれるかすかな布音と、お互いの心音だけ。 僕だって、わからない。 尚哉さんの胸元の顔をあずけ、かすれた溜息を吐きだす。ツンと鼻の奥がいたくなると同時に、力いっぱい瞼をとじた。 *** ギスギスと煮こごったわだかまりを連れたまま、なんとか営業まわりがおわる。 事務所に戻ってからも、いつもは仕事一徹な尚哉さんの視線を痛いくらい感じた。 普段は、横並びに数列つらなっている平社員用のデスクにすわる僕が、対面した監督席にいる尚哉さんを目で追うだけだった。 付き合った当初は、舞い上がりすぎて、尚哉さんが動くたびにチラチラと横目でみてしまう僕を、 『矢嶋コラ。仕事しろよ仕事』 とよく叱っていたっけ。 思えば、好きだと告白されて付きあってからも、どこか僕のひとりよがりな恋愛だったと思う。 職場の上下関係にくわえて、男と男の恋愛だ。それが、普通の関係ではないことくらい分かってる。 だから、そこらのカップルのように、街中を堂々と手をつないで歩いたこともない。 誰もいない屋上か尚哉さんの部屋で、抱き合ってキスするくらいだった。 別に、それが嫌だったわけじゃない。 ただ、不安だった。 僕だけがどんどん尚哉さんの事を好きになっていくだけで、この気持ちは置いてきぼりにされてるんじゃないかって。 いつか飽きられて、やっぱり女の子がいいって言われるんじゃないかって。 尚哉さんは今、僕とおなじ気持ちを共有しているんだろうか。 顔を上げると、すぐに目線が交差する。 凛々しい青年上司のかおに、刹那、別の表情があらわれる。 普段は決して表に出そうとしない、感情に左右された尚哉さんの顔を見て、急に切なさがどっと押し寄せてきた。 胸のなかがぎゅうぎゅうひしめいて、締めつけられていく。 その苦しさから逃れるために、僕はすぐさま目線を反らした。 *** 結局、尚哉さん宅に忘れた眼鏡の事を聞きそびれたまま帰宅した、午後19時。 玄関の扉をあけると、蓮が両腕をひろげて僕を待っていた。 「おかえり悠里!」 こんな時間から晩酌でもしていたのか、蓮のまわりが若干酒くさい。 ふと足元をみると、廊下にビールの空き缶が数個倒れてる。 おいおい……行儀わるすぎだろう。 「お前、なにしてんの」 よく見れば、いつもはふんわりしている髪の毛がボサボサと左右に跳ねてる。服も、昨晩着ていたジャージのままだ。 「うう……悠里ぃ」 僕がピシャリと冷たく咎めたように言うと、途端に顔面をくしゅくしゅにさせて、抱きついてきた。 感情に素直に生きている蓮は、気持ちの起伏がすぐさま表面にでてくる。 眉が細く、パーツのひとつひとつが綺麗に整っているだけに尚更、些細な変化も伝わりやすいんだろう。 今は甘えたなゴールデンが、ご主人様に「構ってよ!」とすがりついてる感じ。 外見は男らしくて恰好いいくせに、僕よりも全然甘えっ子で我がまま。 目尻を下げて、あるはずのない耳まで、くてんと垂れ下がって見える。 そのうえ僕の顔を覗きこんで、きゅーんきゅーんと寂しそうな声をだして泣いているんだ。 「ねえ、もしかして、大学いかなかったの?」 本当、イケメンって反則だ。 だって突き放そうとする僕の方が悪者みたいに見えてしまう。 空き缶とか、身なりとか、たしなめなければいけない所はたくさんあるんだけど、仕方ない。まずは蓮をなだめることを優先させよう。 未だにだきついて離れようとしない義弟の背中に腕をまわし、子供をあやすように、ポンポンとさすってやる。 啜りあげる鼻声が、少しずつ少しずつ、気持ち良さそうな吐息に変わっていく。 それでも僕にすがりついたまま、頭だけ首元にもたげてくるんだけど。 繰りかえし僕の名前を呼んでいたゴールデンの泣き声が、ようやくグスグスと鼻声まじりの吐息に変わりはじめていた。 「がっこなんか、行けるわけないじゃん」 どうにかおちついて来たのか、蓮が耳元でポツリと言った。 「え?」 「だって、悠里、仕事行っちゃうんだもん。職場に、尚哉さんいるじゃん。もしかしたら尚哉さんにより戻して欲しいとか言われてるかもしんないじゃん」 どうやらこのでっかい犬ころは、僕が考えていた以上に、尚哉さんとの関係を気にしていたらしい。 そして、気にしすぎて大学にすら行けなかったらしい。 「その前にまだ別れてないから俺ら」 しかも、僕の話をぜんぜん聞いてない。いつから尚哉さんと別れたことになってんだ。 「駄目」 「蓮……?」 「駄目、悠里は俺の」 落ち着きはじめてた蓮の声色が、また寂しげに崩れてくる。 アルコールが入っているせいで脱水に近い状態なのか、声が異常にかすれてる。 離れまいと縋りついた両腕は、背中で交差させたままいっそう強くひしめき、心なしか小刻みに震えてるようだ。 「悠里は俺のだよ。俺の、恋人になるの」 「蓮?」 そのうえ、体重ごとあずけて抱きついてくる。 身丈がひとまわり近くでかい蓮を、華奢な二本脚ごときが支えられるはずがない。 その勢いに押されるがまま後ずさり、とうとう壁に背中をぶつけてしまった。 「蓮……!」 それでものしかかる体重に組み伏せられるようにして、ズルズルと膝がくずおれていく。 もはや抵抗さえできず、あっけなくその場に座り込んだ僕を、膝立ちになった蓮が覆いかぶさるようにして抱きしめている。 身長差があるうえに変な体勢で抱きしめられ、蓮の胸元に顔を押し付けられた僕の喉が、上をむいて反りかえった。 無遠慮に締めつける両腕の圧迫感にくわえ、変な方向を向いた器官がむせて苦しい。 「俺のなんだよ……悠里は俺が幸せにすんだよ」 「分かった……蓮っ。分かったから……!」 スーツの上着のボタンが、もうすぐ弾けとびそうだ。 なんとか体勢だけでもととのえようとするけど、蓮がそれを許してくれない。 どこにも行かないでと、抑えこまれた胸元から、ありえないほど切迫した鼓動がつたわっていた。 「じゃあ、尚哉さんと会っても話さない?俺をおいて何処にもいかない?浮気したりしない?」 「わか……ったから」 いったいどうしちゃったんだろう。それとも、普段から蓮が胸のなかに押し込めていたものが、酒の勢いで出てきているだけなのか。 だとしたらなにを、そんなに怯えているんだろう。 いつもふにゃりと笑ってばかりいる蓮の顔しか知らない僕は、その豹変ぶりにただ戸惑うだけで。 しだいに震えのはじまった連の背中を、ずっとさすっていた。 [*前へ][次へ#] |