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「あ、次の角を左です」
「分かった。左だな?」
「はい」
 頷いた侑治に秋彦はふと思い付いた事柄を尋ねてみる。
「よく行くのか、あの店には」
「え?……いいえ、そんなには。たまに行くくらいです。先生は?」
「学生だった頃からよく行ってるよ。マスターの人柄が良いから、ついつい足が、な。まあ最近は忙しくて行けてなかったんだけど」
「そうだったんですか。あ、先生、そこ右に」
「おっと」
 侑治の言葉に、秋彦は慌ててハンドルをきる。角を曲がって暫く走ると、正面の突き当たりに、マンションが姿を現した。
 典型的な1LDKの学生向けマンションだった。
「そのマンションです」
 案の定告げられたその言葉に、秋彦は静かにブレーキを踏んだ。
「どうもありがとうございました」
 そう言って侑治が車を降りようとした時。
「葵川」
「はい?」
「何かあったのか?」
 端的な問いに、瞬間侑治は言葉に詰まる。
「ええ、ちょっと」
 しかし暫くの沈黙の後、侑治は素直にそう答えた。あんな醜態を目の前で晒してしまった以上、何もないは通用しないだろう。
「そうか。何かあったのなら、いつでも相談しろ。これでも、お前の担任だ」
「はい、ありがとうございます。でも、たいした事じゃありませんから」
「なら、いいけどな」
 大した事がなくて、なのにあんな風に泣くのか?そう喉元まで出かかった言葉を無理やり飲み込み。秋彦は笑顔を浮かべてそう返した。
 幾ら自分が彼の担任という立場であるからと言って、無理に聞き出せる事ではないのだから、と。己に言い聞かせる。大した事ではないと言い張るのならば、それを受け入れるしかない。けれど。
「あーっと……何か、して欲しい事とか、あるか?」
「え?」
 唐突な秋彦の台詞に、侑治は目を丸くする。そして、すぐに小さな笑みを浮かべた。
 彼が自分を励まそうとしてくれている事に気がついたから。
「そう、だなぁ。…………じゃあ、キス、して下さい」
「は?」
 今度は秋彦が目を丸くする番だった。
「駄目ですか?」
 何の冗談だ、と言おうとして。けれどそれを言葉には出来なかった。冗談を言っている顔ではなかったからだ。
 彼が本気で言っているのだと見て取り、秋彦は逡巡する。訊いたのは自分なのだから、望みどおりにしてやるべきなのだろうか。
 けれど自分と彼は、仮にも教師と生徒だ。その上、男同士でもある。
 だが。
 何故か触れたいと思った。彼に。
 彼のその、唇に。
 駄目だ、と。やばい、と思っても。
 理性はそう告げていると言うのに、けれど急激に流れ出した思いは、今更止めようがなかった。
 秋彦は無意識の内に彼の顎に手をかけていた。
「ん…ッ…」
 掠れた侑治の声が聞こえた。その声ごと舌で絡め取る。
 と、不意に、侑治の頬に涙が伝った。その感触に、秋彦は慌てて彼から離れる。
「葵川………」
 自分の取った行動に戸惑いを隠し切れないまま、秋彦は声をかける。
 はらはらと流れ落ちる今日2度目の彼の涙に、きりきりと胸が締め付けられる様に痛みを訴えた。
「…………すまない」
 その痛みの理由を理解する余裕もなく、秋彦は一言そう告げる。自分の行動の所為で侑治が泣いたと思ったのだ。それ以外に、今彼が涙を流す理由が一体どこにあると言うのか。
「いえ、先生のせいじゃ…………ありません」
 秋彦が謝った訳を悟ったのか、侑治は答える。
「オレの方こそ、すみませんでした。変な事、言ってしまって……」
 そう、本当に謝らなければならないのは自分の方なのだ。
 店でいきなり泣き始めた自分を心配してくれて。そして心配させた揚げ句、あんな無茶な要求を飲ませてしまった自分。彼の優しさを、利用した醜い自分……。それをどう謝罪すればいいのかすら、解らないなんて。
「わざわざ送って下さって、すみません。どうもありがとうございました。お休みなさい」
 無理に微笑んでそう言うと、侑治は車を降りた。そしてそのまま一礼すると、マンションの中へと消えて行った。
 その後ろ姿が視界の中から消え去るまで、黙って見送って。大きな溜め息と共に、秋彦は勢い良くシートに体を預けた。
 ついさっき触れた、侑治の唇の感触を思い出し、もう一度溜め息をつく。
 本当に、やばいかもしれない。ぐったりとシートに身を沈め、目を伏せると胸中でそう呟く。
 もう一度、彼の感触を確かめたい、と。そう思っている自分に気がついて、秋彦は正直困惑していた。
 本気になってしまったのか?彼に。たった数時間の内に?
 いや。確かにたった数時間の間の出来事ではあったけれど。でも、学内で見る彼よりもずっと、この短い時間での彼の姿の方が、秋彦を魅き付けてやまない。
 それは多分、さっき迄の彼が、本来の彼の姿だからだ。
 ゆっくりと目を開けると、秋彦はマンションに目を戻した。
 侑治の去って行った方を暫くの間見つめて。それから彼は考えを断ち切るかのように車のアクセルを思いきり踏み込んで、マンションの前を走り去った。
 マンションの一室の窓から、それを見つめている姿があった事に、気付かずに……。




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あきゅろす。
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