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解放感。
今、中田惣一の全身を支配している感情はまさしくそれだった。
夜遅くまでかかると思われていた集計作業が、驚くほどの短時間で終わったのだ。
なんと素晴らしいことか。
廊下から差し込む日差しは、夕暮れのオレンジ色の光をはらんでいる。
もしも一人で作業をしていたなら、日はとっぷりと暮れ、月明かりが支配していたかもしれない。
体育祭実行委員である惣一が任された作業は、体育祭のアンケート集計だった。
今までは1年から3年まで入り混じった混合チームで対戦という形をとっていたが、今年から学年別対抗に変わるらしい。
そのためのアンケートだったのだが、質問はいずれも男子校において全く興味が持てない質問ばかりだった。
誰と組もうが相手は男。何の楽しみも見いだせない。
アンケートの内容も、集計も惣一にとって苦痛以外の何ものでもなかった。
冗談じゃない。
やりたくない。
この事務作業は寧ろお金が発生するレベルなのではないか、金をくれ。
そんな風に心の中では仕事を押しつけた担任を罵りながら、惣一は集計作業の手伝いを引き受けた。
全ては内申点を上げるため。
自分のため。
さらに言えば、今後あるであろう体育祭の運営会議で実権を握るため。
何もしていない生徒が惣一に指図はできない。否、させない。
そう自分を励ましていたが、さすがに数クラス分――百枚近くあると心も折れる。
だが、それもすでに過去のこと。
担任に提出したときのあの顔。
思い出しては笑いが込み上げる。
もっと時間がかかると思っていたのだろう。
(俺、スゲー! マジ優秀!)
自画自賛をしながら、教室のドアを開ける。気持ちとシンクロするように、開け方にも自然と勢いが出る。
誰もいないと思われていた教室の中央には、同じクラスの冴島と三島の二人がだらけた姿勢で陣取っていた。
「あれ、なんでお前らここで作業してんの」
冴島と三島は別室で作業をしていたはずではなかったか。
二人の動きは既に飽き飽きしているがはっきりと伝わるほど、緩慢な動作だ。
このマシマ総合学院のアンケートは、メールやwebを使っての回答ではなく、全て紙媒体で回答することになっている。
ホームルーム内で記述させることにより、回収率を上げるのが目的だ。
web経由ではなかなか上がらなかった回収率は、アナログ化することで確かに上がっただろう。
しかし、その後の集計を考えると非効率としか言いようがない。それはこの二人を見ていてもよくわかる。
数字の選択制ではあるものの、回答の取りまとめは手作業だ。
web媒体では簡単に統計が取れる作業が、アナログになることで集計時間は倍増していた。
「単なる場所移動ですよ」
冴島の妙な敬語が警鐘を鳴らす。
わざわざ準備室から教室に移動してきた意図を知りたくないと、すぐさま惣一は思った。
「っていうか、中田もう終わったのかよ」
今回の集計作業の一部は授業中に寝ていたり、弁当を食べていた冴島と三島に罰として分配されていた。
とは言っても、彼らに分配されたのは特別クラス――特クラ分のみである。中田がこなしたものに比べれば微々たる量だ。
「俺の実力だよ」
鼻で笑ってやると、三島が持っていたシャーペンをこちらに向け上下に動かした。
「さっき俺は教室を覗きに来たんだが」
「田之上が手伝ってくれました」
早々に白状する。
「なんだよ、田之上のおかげで早いのか」
「田之上と俺がスピーディで完璧な仕事をしたから早いんだよ」
教室で孤独に作業をしていた惣一を見かねたのか、田之上が手伝いを申し出てくれたのだ。
田之上一人で、数人分の働きを見せた。とにかく無駄な動作がなく、仕事も正確だ。
田之上の指示に従い、効率よく仕事ができたおかげで、惣一はこんなにも早く仕事を終えることができたのである。
「まあ終わって何よりだよな! それじゃあ、これ!」
冴島が手招きをするが、惣一は一歩たりとも近づきたくなかった。
二人が作業をしているすぐ近くの机に自分のスクールバッグがあるとわかっていても。
「お前らバレバレなんだよ! それが目当てで場所移動してきたんだろうがっ。つかそれはサボったお前らへの罰だろ」
指導という叱責も兼ねて、冴島と三島は数学準備室で作業をしていたはずだ。
「つめてーな、担任に頼まれたのは手伝ったんだろ」
「不満はあったが致し方ない。俺の内申に関わる。だがお前らはどうだ!」
「俺たちの好感度は上がる。オメデトウ。はい、中田の分」
冴島と三島が持っていた用紙の半分を机の真ん中へと積み重ねる。
「いや、だから俺はやらねーって」
「俺、中田のスピーディで完璧な仕事ぶり見てみたーい」
「俺も」
「男の声で言われても全然嬉しくねーし」
仕方なしに、向かい合わせに並べられている机の横に、椅子をつける。
真ん中に積み重ねられているプリントを取ると、ぺらぺらとめくり始めた。
そんな惣一に、冴島と三島は笑い声をあげた。
「いま、俺のことちょろいなって思って笑っただろ」
聞こえた笑いに、惣一が眉を吊り上げる。
「いやいや、まさか? ソンナワケナイデスヨ」
冴島の棒読み加減が怪しいが、今は文句を言っている時間も惜しい。このクラス分なら、日が落ち着る前に作業を終えたいところだ。
飽きるほど見慣れたアンケート用紙に手を伸ばす。
冴島と三島と二人は用紙を二分し、それぞれで回答をまとめているようだった。
これでは二人がそれぞれ作業を終えたあとに、再度まとめなければならない。
二度手間だ。
一人が読みあげ、もう一人が回答にまとめる。その間、自分が今まで二人がまとめた集計を合算させる。
田之上ほど効率を上げる指示はできないが、今やっている方法よりかはマシだろう。
提案しようと用紙から目を離し、顔を上げると、教室のドアを凝視している三島の姿が目に入った。
何かを待っているような仕草だが、ドアが開くことはない。
「三島?」
「田之上は?」
「え、田之上? これから生徒会だって言ってたけど」
「生徒会の前にお前の仕事手伝ったのか」
「ああ。女神、いや、神だよ。田之上神」
もし惣一が今回の田之上と同じ立ち位置にいたとしたら、手伝わないだろう。
絶対に、という言葉をつけてもいい。
「スゲーな、田之上。こんなメンドイ仕事、無償で手伝うとか凄すぎだわ。完全に罰としての効力発揮してるのによー」
実際この二人に関しては、不真面目故の罰である。
「頭脳明晰・容姿端麗・運動神経抜群・その上性格もよしとか無敵だよなー!」
「田之上は欠点らしきところがないのが欠点だろうな」
三島に深く頷く。
「確かに。俺、田之上みたいな聖人君子を見たことねーわ」
あそこまで出来た人物を惣一は見たことがない。
田之上を嫌う人間なんてこの世にいるのだろうか。いや、いないに違いない。
「ところでさ、これ何だと思う?」
冴島が手に持っていた用紙を机の中央へと置いた。
そして回答欄を指さす。
「……1だろ」
「7じゃないか」
三島と同時に発言し、異なる意見に顔を見合す。
「これ、溝口だよな」
「俺も思った」
「ああ」
三人の意見が一致する。
無記名アンケートであるのに、書いた人物の特定は容易にできた。
溝口が悪筆だということを去年の時点で惣一は知っていたが、今ではクラス全員が知るところとなっている。
それは数学の時間、溝口がとある問題に当たったときのことだ。
大学入試で使われたという高度な問題であったが、溝口は黒板に向かい、止まることなくチョークで数字を記述していった。
だが、溝口が黒板に書いた英数字をおそらくクラスの大半が解読できなかっただろう。
1なのか7なのか。0なのか6なのか。8のようで3にも見える数字。
OなのかPなのか、LなのかIなのか、nのようでmにも見えるアルファベット。
解説を求めた数学教師に向かっても、溝口は『黒板に書いたことが全てですが』の一言だった。
確かに答えは書いてあるだろう。だが読めなければ意味がない。
字が汚いという真実を、溝口に向かって言える勇者がその場では存在しなかったのだ。
もしあの時、教師より早く田之上が機転を利かせ、『先生、俺が解説してもいいですか』と言わなければ、教室の空気は授業が終わるまで凍りついていたことだろう。
そして。
田之上が申し出たとき、溝口が舌打ちしたことを惣一は忘れられない。
溝口は自分の字の汚さを自覚している。それでいて、嫌がらせの手段に使っている。間違いない。
「田之上って溝口と仲がいいんだよな」
「あの田之上神だからこそ、溝口と仲がいいんだよ」
「なるほど」
余程説得力があったのか、三島が大きく頷いた。
「ってかさー、どっちかわかんねーんだけど、どうする?」
「ここで多数決とか」
溝口の回答でなければ、無効票にするなり、多数決で決めるなり、即決できた。
躊躇うのは、この回答主が溝口だという点だ。
適当に扱って後で何か言われたりしないだろうか。
そんなマイナス思考に三人は陥る。
刹那。
ガラリと音を立てて教室のドアが開いた。
「田之上?」
そこには話題の主、田之上真がいた。作業をしている三人に目を止めると、田之上は口を開いた。
「忘れ物を取りに来たんだんだけど、もしかしてアンケートの集計作業まだ残ってた?」
「クラスの分が少し残っててさ。田之上、さっきはありがとな」
田之上は惣一達が作業をしている机まで近づくと、机の上にある回答用紙を覗き込んだ。
すぐに書き手と今起こっている問題を察したらしい。
「1でいいんじゃないかな」
「マジか」
「よし、1だ。これは1」
「田之上、助かったよ!」
「何もしてないよ。それより、少し手伝おうか」
三人の間に沈黙が流れる。
――手伝ってほしい。だが――
けれども、みんな一斉に首を振った。
忘れ物を取りに来たと言っていた。それならまだ生徒会での作業は残っているのだろう。
溝口の不明回答を教えてくれただけで十分だ。
「大輔はこの手の行事にはあまり興味ないし、どちらでもいいと思ってるんじゃないかな。気にしなくて大丈夫だよ」
「そうか! いやー助かったぜ、田之上!」
一気にテンションが上がった冴島に、田之上は爽やかな笑顔を見せた。
それからアンケート用紙に目を落とす。
「次の体育祭、学年別対抗なんだよね。楽しみだな――すごく」
楽しみだと……!?
思わず突っ込みそうになったが、慌てて口を閉じる。
惣一にとっては面倒なだけの体育祭にすら、田之上は異なる感想を抱いている。
もはや尊敬に値する。
「中田君、実行委員で何か困ったことがあったら、いつでも声をかけて。俺も手伝うから」
「田之上、もうヤバいぐらい親切だなっ!?」
「そんなことないと思うけど」
「そんなことあるっての!」
惣一は力を込める。
惣一の仕事を手伝っても上がるものは、惣一の好感度しかない。
それなのに手伝いを申し出てくれるとは。
田之上は万能な神であり、心を癒す天使かもしれない。
「他のクラスにアンケート回収に行ったり、伝言したり、そういう簡単なことしかできないかもしれないけど」
「いやいや、もうその気遣いが素晴らしいっていうか!」
なぜか冴島も興奮していた。
仕方ない。
ここに神がいるのだから。
「田之上、生徒会の仕事頑張れよな」
三島が田之上を送り出す。
このまま引きとめていれば時間だけが過ぎていくばかりだ。
田之上もそれを感じ取ったのか、自分の机からノートを取り出すと三人に向かって笑みを浮かべた。
「ありがとう。中田君達も頑張って」
「おう!」
田之上に向かって大きく手を振り上げる。
本当に田之上真はいい奴だ、そんなことを思いながら。
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