ハイヱ ツチナ
1
稀に見る酷い豪雨の夜。
激しく降る雨が硝子を叩きつけ、窓はしきりにカタカタと音をたてていた。
深夜零時を回ってしまうと客足は遠のき、一階を開放した飲み場も静まり返っている。
椅子に座ったままウトウトとしていた宿主は、突然大きな音をたてて開かれた扉にビクリと跳ね起きた。
扉に付けられた鈴が激しく鳴り響く。
それは静寂だった部屋に、妙に大きく響いて聞こえた。
入り口に一人の客が立っている。
全身を覆う黒の外套、深く被られたフードは顔すらも影の中に落としていた。
濡れ鼠のように全身から雨水を滴らせる客の姿に、宿主は少々顔をしかめる。
「お客さん、夜も遅いんだから、もう少し静かにしてくれないかね」
客は少し頭を上げ、それから黒いグローヴに包まれた手でフードを後ろに押しやった。
「…すまない。急いでいたんだ」
フードの下から現れた姿に、宿主は目を見張って言葉を失った。
流れるように零れる長く艶やかな黒髪。
陶磁器のように傷一つない滑らかな肌に、宝石を嵌め込んだかのように澄んだ紅色の瞳。
美しく端正な顔をした男だった。
「…こりゃたまげたな。あんた、ここいらの人間じゃないのかい」
宿主は身を乗り出して客を眺める。
男は小さく口元に笑みを浮かべて答えた。
「北方から旅をしてきたんでね。…珍しいかな?」
目元に手をやる。
宿主の視線は自然と男の瞳に向き、彼は眉を上げて二、三度頷いて見せた。
「こんな夜半に申し訳ないが、まだ部屋は空いてるだろうか。寝泊まりできれば物置でも構わない」
「部屋なら幾らでも空いてるよ。こんな雨じゃ客足もめっきりだ」
男は頷いてからグローヴを外し、硬貨を台に並べる。
「三日分だ。出て行くのに手間取るといけないから先払いにしておこう」
宿主は何も聞かずに頷いた。
宿屋に来る客は様々で、それを一々掘り返すのは野暮というもの。
「三階の右から四番目だよ。扉に八番と書いてある」
男は鍵を受け取り、礼を言って歩き出す。
その後ろを飛ぶ蝶に気付き、宿主は男の背に声をかけた。
「珍しい蝶だね。どこから着いてきたんだか、外へ出してやった方がいい」
濃紺の躯に瑠璃色の斑点模様。
男は振り向くと手を伸ばした。その指先に蝶が羽を落ち着ける。
「これは俺の相棒なんだ。悪さもしないから、見逃してやってくれ」
そりゃ蝶は悪さしないな、と宿主は笑った。
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