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 ハイヱ ツチナ


稀に見る酷い豪雨の夜。

激しく降る雨が硝子を叩きつけ、窓はしきりにカタカタと音をたてていた。

深夜零時を回ってしまうと客足は遠のき、一階を開放した飲み場も静まり返っている。

椅子に座ったままウトウトとしていた宿主は、突然大きな音をたてて開かれた扉にビクリと跳ね起きた。

扉に付けられた鈴が激しく鳴り響く。

それは静寂だった部屋に、妙に大きく響いて聞こえた。

入り口に一人の客が立っている。

全身を覆う黒の外套、深く被られたフードは顔すらも影の中に落としていた。

濡れ鼠のように全身から雨水を滴らせる客の姿に、宿主は少々顔をしかめる。

「お客さん、夜も遅いんだから、もう少し静かにしてくれないかね」

客は少し頭を上げ、それから黒いグローヴに包まれた手でフードを後ろに押しやった。

「…すまない。急いでいたんだ」

フードの下から現れた姿に、宿主は目を見張って言葉を失った。

流れるように零れる長く艶やかな黒髪。

陶磁器のように傷一つない滑らかな肌に、宝石を嵌め込んだかのように澄んだ紅色の瞳。

美しく端正な顔をした男だった。

「…こりゃたまげたな。あんた、ここいらの人間じゃないのかい」

宿主は身を乗り出して客を眺める。

男は小さく口元に笑みを浮かべて答えた。

「北方から旅をしてきたんでね。…珍しいかな?」

目元に手をやる。

宿主の視線は自然と男の瞳に向き、彼は眉を上げて二、三度頷いて見せた。

「こんな夜半に申し訳ないが、まだ部屋は空いてるだろうか。寝泊まりできれば物置でも構わない」
「部屋なら幾らでも空いてるよ。こんな雨じゃ客足もめっきりだ」

男は頷いてからグローヴを外し、硬貨を台に並べる。

「三日分だ。出て行くのに手間取るといけないから先払いにしておこう」

宿主は何も聞かずに頷いた。

宿屋に来る客は様々で、それを一々掘り返すのは野暮というもの。

「三階の右から四番目だよ。扉に八番と書いてある」

男は鍵を受け取り、礼を言って歩き出す。

その後ろを飛ぶ蝶に気付き、宿主は男の背に声をかけた。

「珍しい蝶だね。どこから着いてきたんだか、外へ出してやった方がいい」

濃紺の躯に瑠璃色の斑点模様。

男は振り向くと手を伸ばした。その指先に蝶が羽を落ち着ける。

「これは俺の相棒なんだ。悪さもしないから、見逃してやってくれ」

そりゃ蝶は悪さしないな、と宿主は笑った。








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あきゅろす。
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