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どこか遠くに行こうヨ。
穏やかな顔で、荒北はそう言って笑った。
物置の隅においていた自転車を引っ張り出して、久しぶりに手入れをする。
以前はあれだけ毎日触っていたのに、すっかりと忘れてしまった手つきを笑い合いながら。
“それ”は、驚くほどきれいな状態で残っていた。
錆つきも、破損もなく、少し油を注して磨けば、きちんと走る。
飲み物と、食べ物と、少しのお金と。
それだけを持って、俺と荒北は自転車にまたがった。
先を行く荒北を追いかける。以前のようなスピードを出すわけではなく、ただあてどもなく道から道を走った。
見慣れた風景がどんどん後ろに流れていく。ひんやりとした風が心地良い、秋の空。
少し休もうと端による荒北に従って、空いたスペースに自転車を並べた。
体力落ちたねェ。苦笑する荒北にそうだな、と返す。
鍛えた体も、もう見る影もない。
細身の荒北は変わらないように見えたが、美しい背筋がすっかりなくなっている事も知っていた。
持ってきたおにぎりを行儀悪く立ちながら食べ、手渡された緑茶をすする。
もう何年、荒北とともに季節を過ごしてきただろう。
高校一年、あの衝撃的な出会いから、ずっと寄り添うように生きてきた。
距離的に離れた事もあった。楽しいばかりの日々ではなかった。大喧嘩して何日も話さなかった日も、将来の事で言い争い、結局二人して涙した日もあった。
それでも、共に行こうと決めた。
ちらりと目を向ければ、視線に気づいた荒北が目を細める。
鋭い目線が、己の前でだけ柔らかくなるのが溜まらなく好きだ。
人通りがないのをいい事に、そっと顔を寄せる。
自然と傾けられた顔を愛しく思いながら、重ねるだけの口づけをした。
口に海苔ついてるヨ。
笑いながら、荒北が手を伸ばす。
かり、と引っ掻かれ、細い指が荒北の口に飲み込まれた。
そろそろ、行こっかァ。
のんびりと自転車にまたがる荒北に、こちらものんびりと漕ぎ出す。
あてどもなく、体力の続く限り。
遠くへ。
秋の天気は変わりやすい。
パラパラ降りはじめた雨が一気に本降りとなり、俺と荒北は目についた木陰に慌てて逃げこんだ。
残念そうに空を見上げ、同時にため息をはく。
若い頃なら気にせず走ったくらいの雨でも、この年になると少々躊躇う。
最低限しか持っていない荷物の中に、替えのタイヤもなくパンクした時の事も怖かった。
濡れて震える荒北に、己の上着をかけてやる。濡れ鼠はお互い様でも、風邪を引きやすい荒北にこの冷え込みは酷だろう。
ただでさえ、荒北は。
そこまで考えて、首を振る。
不思議そうな顔の荒北に、わかりにくいと言われる笑みを向けて、肩を寄せた。少し照れくさそうに、腕を絡める動きが愛しいと思う。
まるで世界に二人きりみたいだ。
おやつの時間だネ。
肩に頭を預けたまま、荒北が笑う。
腕時計を見れば、確かに三時を回っていた。
羊羹くらいしかないな、と答えれば、なんで持ってんのと笑い声が大きくなる。
楽しいな。小さなつぶやきを拾った荒北は一瞬目を丸くして、楽しいネェと破顔した。
雨はやまず、枝から落ちてくる水滴が当たって少し痛い。
それでも隣の体温が暖かくて、ほっと息をついた。
どれだけじっとしていただろう。小降りになってきた雨に、木陰から一歩踏み出す。
後ろからついてくる荒北は、上着をギュッと握りしめてこちらを見ていた。
自転車は二台。懐かしいGIANTとBianchi。
何度か違う自転車に乗り換えても、手放す事ができなかった黒と青。
帰らなきゃ、荒北が小さく呟く。
そうだな、と荒北の細い手を取る。
冷えた手が、温かい己の手に絡む。幸せだ、確かにそう思うのに、なぜだか目の奥が熱くなった。
先をいく荒北について、ゆっくりと来た道を戻る。
見慣れた風景が近づいてきて、このまま止まってしまえばいいのにと思った。
二人で暮らす家に着き、荒北の自転車も預かって物置に仕舞った。
手入れは後でいいだろう。そう思って、先に中に戻った荒北を追った。
台所でお湯を沸かす荒北が静かに俺を目に映して、ゆるりと目を細める。
楽しかったネ。
「ああ、楽しかった」
答える声は、届いただろうか。
瞬きひとつ。
誰もいない台所を目に映し、火にかけられたままのやかんを手に取った。
遠くへ行こうヨ。
そう言って先に行ってしまった荒北は、一人ではままならない己を心配して、時たま現れては、外へ誘った。
写真の中から、荒北が笑う。
目を細めて、穏やかに笑う。
先ほどまで隣にあった温もりを思い出して、福富は写真の中の荒北に笑みを返した。
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