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きときと


於りんを中屋に帰したその晩のこと。
立ちこめる湯気の中、長崎屋の湯殿で今日の疲れを背中越しに、若だんなは兄やである仁吉に流してもらっていた。

「仁吉、いつもすまないね」

一見、異様な光景にも思える。
風呂屋であるならともかく、いくら大店でも、長崎屋の湯殿は決して広くない。一人で使う分には支障はないのだが、他人に背中を流してもらうとなると洗い場は狭くなる。
もう幼くないのだから、風呂くらい若だんな一人きりでも大丈夫なのに、暇さえあれば「お背中をお流し致します」と兄や達は笑顔で風呂場についてくるのだ。仁吉に至っては、若だんなが調子の良い日は常に昼間の行動を供にしているので、湯殿の給仕も自ら買って出る始末。
この日も若だんなの湯殿に付き添うのはこの手代で、着物の裾(すそ)を膝上までたくし上げ、襷(たすき)で袂(たもと)を纏めて縛り、丹念に背中を洗い流す。十八にもなって僅かばかり気恥ずかしいというか、兄や達に申し訳ないと若だんなも思うが、佐助や仁吉は一太郎の身については度を超えた心配性であるから、仕方がないと思い込むしかない。仁吉に掛ける声は、もはや労いの言葉というよりも合いの手になっていた。

「もういいよ」

優しく背中を洗い流す仁吉の手を止める。そうっと湯に足を入れ、そのまま全身、湯に浸かった。

「湯加減はどうです? 熱くないですか」

「うん、いい心地だよ」

若だんなは逐一(ちくいち)気遣う手代に笑って返事を返す。湯加減は程よく、非常に気持ち良かった。

(……あれ?)

おかしいなと、若だんなは手代を見て首を傾げた。若だんなが笑顔で返事をしたのにもかかわらず、手代が心配そうな面持ちをしていたからだ。

「仁吉?」

湯槽の縁(ふち)に両手を掛けて手代に顔を向けると、仁吉もこちらを見つめ返してくる。どうしたんだと湯槽の中から兄やを問うと、立て膝をついて仁吉が湯槽の縁までずいと寄った。

「今日は深川まで行きましたからね。若だんなはだいぶお疲れでしょう。長湯は身体に良くないのではと」

立て膝なんぞつくものだから、折角たくし上げた裾が台無しだ。だが手代は着物が濡れるのも気にせずに、心配げな目を若だんなに向けてくる。

「私はまだ湯に浸かったばかりだよ。それに、やっと元気になったんだもの。大丈夫さね」

いつもの心配事かと、若だんなは安心して湯に肩まで浸かり直した。だが仁吉は眉をひそめたままでいる。

「そう言って先日、十日も寝込んだのは、一体何処のどなたです?」

若だんなは人よりも病弱、病弱である人の、そのまた何倍も病弱であるのだから少しでも安静にしてほしいと、仁吉はその秀麗な顔を歪ませた。

「深川へは船で行ったし、水死体のことは気に掛かってるけど……すぐに、こうして帰ってきたじゃないか」

心配性な手代に、若だんなはすぐ様返事を返してみせたのだが、兄やの方は納得がいかないらしい。

「於りんを中屋に送り届けるだけだったはずが、思わぬ事で帰る時間が遅くなってしまいました。若だんながいつ倒れるか、あたしは気が気じゃなかったです」

「私のことよりもね、中屋のことを気に掛けるべきじゃあ、ないのかい?」

湯槽の中から微かな湯気越しに仁吉を軽く睨み付けるが、効果はない。水死体に興味なんぞはないらしく、そろそろ湯槽から上がったらどうかと若だんなを急かす。

(……それにしても、仁吉はほんとに色男だよね)

湯槽に詰め寄る手代を上目遣いに見ながら、若だんなはそうっと溜息をついた。
袂を襷で縛り上げ、着物の裾を膝上までたくし上げている姿はなるほど、目を見張るほどの男っぷりだ。腕や足を曝け出している色男を、仁吉の袂を賑わせる女子達が見ればきっと騒ぎ立てるに違いない。
若だんながそう考えている内に、湯殿から出たがらない若だんなを見やる仁吉の顔が心配げなものからさらに心配げなものに変わってきていた。

「こんな姿の仁吉を女子達が見たら、黙ってはいないだろうねぇ」

湯槽からつまみ出されてはたまらないと、思ったことを口に出してみる。だが若だんなの話は湯気のようにすぐ霞まされて、早く湯槽から上がりましょうと再び促されてしまった。

「色男さんは、どうしてこうも、心配性なのかな」

あんまり急かされるので、若だんなはついに兄やに負けて湯槽から上がった。身体を拭きつつ、後ろで若だんなの寝間着を持った手代に見やる。風呂上がりに着物ではなく寝間着を着せるということは、どうやらもう若だんなを床に入れるつもりらしかった。

「若だんなのことを心配して、何が悪いんですか?」

仁吉は寝間着を着せながら、若だんなが寄越した問いに眉をひそませた。薄明かりの中でだが、仁吉が眉をひそませるその姿にさえ、女子達は騒ぎ立てるに違いない。

(私、も……心配)

若だんなは兄やに溜息をまた一つついて、湯殿を後にする。仁吉が女子達に騒ぎ立てられるのは、若だんなにとってあまり嬉しいことではない。心配であった。
それが一体どうしてなのか、一太郎自身、まだ気づいていないのだが。

「若だんなっ」

若だんなが一人思いを巡らせるそこへ、多分この先も心配性のままだろう色男の仁吉が、若だんなの溜息をめざとく見つけて声を上げた。

「今溜息をつきましたね? 気分が悪いんですか、若だんな。湯あたりしたのなら、早く部屋に入らなければ」

心配げな声で尋ねた後、若だんなの返事も待たずに慌てて駆け寄りその顔色を伺う。
それがまた心配性そのものだったので、若だんなは月明かりの下で小さく笑みを洩らした。

「早く火鉢の側へ」

湯冷めはもっと身体に悪いと、仁吉は早々若だんなを抱き上げて素早く離れへと戻った。



2008.0403



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