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まゐりよる


京橋に程近い通りに位置する、廻船問屋長崎屋の離れは、相変わらず賑やかであった。
長崎屋の一粒種一太郎はたいへん病弱な若だんなで、今日も例の如くしっかり寝床と薬湯と仲良くやっている。
ずっと寝付いているのに、若だんなが気落ちすることなくいられるのは、天上天下の大事は若だんなただ一人と決め付けている二人の兄やと、いつもその周りに妖達が居るからであった。
時偶(ときたま)行われる若だんなの気晴らしとして、この日は久しぶりに仁吉宛ての懸想文が選ばれていた。

「この寒さにも冷めることないこの思いにも、つれない貴方が、より一層、涼しげで忘れられません……ねぇ仁吉」

減る事なく増える一方の文を、若だんなは床の内から興味深く眺めていた。名前を呼ばれた方の兄やは火鉢に炭をくべる手を止め、火掻き棒をもう一人の兄や、佐助に預けると、若だんなの横にたいへん姿勢正しく座った。「なんです?」と尋ねる手代の袖から、いつ貰ったのであろうか新たな付け文が見え隠れしている。

「文に目を通したりはしないのかい?」

返事は聞かずともわかっているはずなのに、床から小首を傾げて上目遣いに若だんなは兄やに問いかけた。だが、好ましくない質問をされたのが少し気に障ったのか、仁吉は若だんなの熱を測りながら、にやりと嫌に微笑を浮かべただけで黙っている。

「このお人……多分、何度も文を渡しているよ」

上質な和紙にたいそう達筆な文なので、前に同じ字を読んだことがあると、若だんなは手にしていた文をひらひらさせる。曰く、長崎屋とも付き合いのある、某大店の娘からだろうと若だんなは推測した。

「あそこのお嬢さん、訪ねる度に仁吉を見っぱなしだもの。名前も合っているし、間違いないと思うんだけど」

差し出された文を初めてちらりと見た手代は、しかしこれにもしらん顔だ。返事を返すかわりに「お八つでも食べますか?」と気の抜けるようなことを、いちいち若だんなに尋ねている。
相変わらずな返答に、がっくりと若だんながうなだれる。その様子が可笑しいのか、火鉢をいじる佐助がこらえきれずに小さく笑っていた。

「聞いても無駄ですよ、若だんな。仁吉ときたら、今初めてその文を見たようだ」

茶茶を入れてきた佐助を、仁吉が睨み付けた。

「悪くないかい? 黙(だんま)りを続けているのは」

「文は勝手に入れられるんです。集まったもの全てに返事なぞしていたら、若だんなの薬湯を作り損ねてしまいます!」

この相変わらずな反応には、若だんな一人を除いて離れに居る全ての者が大きく頷いた。
それほどに若だんなは寝込んでいることが多く、比となって仁吉もまた、しょっちゅう懸想文を集めてくるからだ。
しかし、これに面白くなかった若だんなはふくれ顔を作り、ちょいと仁吉を睨み付ける。

「……なんだい、それじゃぁ仁吉。もし私がこの文の中の誰かと恋仲になったとしても、文句は言わないんだね」

言った若だんなの言葉を聞いて、再び佐助が小さく笑っている。仁吉は瞬間その端整な眉をひそめたが、こちらも佐助と同じく、若だんなをたしなめるように軽く笑った。

「恋仲に、なるんですか、若だんな。誰とです? 文だけで、お気に召した方でもいたのですか」

もちろんそんな相手などいるはずのない若だんなは、そう笑いかけてきた仁吉をぷいと振ると、己の顔を隠すように夜着を頭まで引き上げてしまった。

(……仁吉の馬鹿っ)

どうにもこの兄やと女子とを結びつけると、己は嫌な思いばかりしているような気がする。
以前、仁吉が貰った懸想文が原因で人殺しに疑われたことがあったが、それだけでない。仁吉と恋とは一太郎にとって、それはそれは厄介な思いをさせているような気がしてならない。

(私は仁吉を心配してるのに、さ!)

この世のみならず、天上天下で大事なのは一太郎一人と決めつけている仁吉だが、その袂には常に女子の文が忍ばれている。今の仁吉がどう気を変えるつもりがなくとも、いつか、祖母のおぎんを慕ったように、また再び思い人がその目の前に現れるかもしれない。

(……あれ?)

夜着の下で若だんなは、苦しむようにきゅっと胸元を掴んでいたその手を、はたとしてゆるめた。

(なんで私は……仁吉に怒っていたんだっけ?)

女子達の思いを省みず、懸想文を無視し続ける仁吉に腹が立ったからではない。

(……私は……)

一太郎がずいぶん落ち着いた頃、なかなか夜着から出てこない若だんなに困ったのか、頭上から仁吉の情けなさそうな声が降ってきた。

「お加減が悪いんですか、若だんな。それとも、あたしがご機嫌を害ねてしまったんですか」

その声を聞くだけで、安心できる。ほっと胸が撫で下ろされるのを、夜着の下で確かに感じた。

(いつか、誰かに仁吉を盗られるんじゃないかと、私は思ってる……?)

何故そんな気持ちになるのかはわからないが、仁吉の声を聞いた後に浮かんできた思いに、おもわず己の顔が熱くなる。

(熱でもあるのかしら)

そう思ってするすると夜着から顔をちょこんと出すと、安堵した兄やの顔が左右に二つ現れた。

「機嫌は直りましたか?」

仁吉にそう問われて頷くと、兄や二人の顔に笑みが浮かんだ。
だがすぐに、顔の赤い若だんなを見ると、心配そうに二人して顔を覗き込んでくる。

「若だんな、具合が悪くなったんですか?」

若だんなの額に手を当てて尋ねる佐助に、心配ないよう「大丈夫だよ」と返事を返すのだが、隣で仁吉が眉をひそめている。

「大丈夫だってば。本当だよ」

薬湯を持ちに行かれると困るので、もう一押しそう若だんなが言うと、仁吉が参り寄ってきて、他の誰にも見せないような微笑みを見せた。

「優しいですね、若だんな」

「……仁吉」

言わずとも一太郎の気持ちが読み取れたのだろうか、仁吉はにこりと笑ってそう言うと、ぽんぽんと子供をあやすように、一太郎の頭を撫でた。

「少し寝たらどうですか」

佐助にそう促され、黙って頷く。
瞼を閉じようとして横に目をやると、何やら小僧が母屋からやってきたようだ。聞けば、薬種問屋の番頭が健命丸のことで話したいことがあるとかで、仁吉に来てほしいのだという。
仁吉は一太郎に目を止めてから席を立つと、小僧に短く何事か告げて、すぐにまた一太郎の枕元に座った。

「行かなくて、大丈夫なの?」

閉じかけた瞳を開けて仁吉にそう問うと、後で行くと番頭に伝えるよう、小僧に頼んだらしい。こういうところがまた、一段と仁吉は自分に甘いのだと思う。
だが不思議と嫌な気はしない。それどころか、何故か嬉しいような気持ちになる。不思議に思いつつも、自然と若だんなの顔に笑みが戻った。
夜着から少し手を出して、兄やの袖をぎゅっと摘む。袖を引かれた仁吉も自然と頬が揺るまるのか、そのきれいな笑みを若だんなに向けた。

「どうしたんです? 今日はずいぶん、甘えん坊ですね」

袖を摘んで放さない一太郎に、優しく仁吉がそう囁きかけた。
あまりにも子供扱いな物言いに、一太郎は一瞬上目遣いで仁吉を睨みつけたが、すぐにそれも穏やかなものになる。

「……こういう風に、仁吉は、女子の心を離さないんだね」

若だんなの手は、ぎゅっと仁吉の袖を放さない。その手を仁吉が優しく見つめた。

(女子達の気持ちが、今なら私にも、わかるような気がするよ)

佐助が隣でまた、小さく笑っている。
この手を離したくはないと、若だんなはひとり心の中で、そう思った。



2008.0307



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