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離れなれ


貧乏神の金次が長崎屋から去って、もう十日余りが過ぎていた。
霜月の寒さが段々と増す中、若だんなはやっと、二日前に床上げをした。

「いいですね、今日一日は、火鉢の側から離れないで下さい」

「気分が悪くなったら、寝ていて下さいね。何か入り用の際は、銅鑼を鳴らして下さい」

もう一月余りで、今年も終わろうという頃の長崎屋はたいへん忙しい。若だんなに付きっきりでいる手代の二人も、流石に店の方を手伝わなくてはならないので、離れの居間から去る前に念強く、さらに強く、若だんなにそう言い残していった。

(せっかく床上げしたっていうのに、これじゃぁ、寝ている時と変らないよ)

掻い巻きを二枚も着込まされ、火鉢に張りつくようにして若だんなはふてくされていた。その周りで、仁吉が置いていった菓子鉢に鳴家達が群がっているのが視界に入ったが、若だんなの気分は一向に晴れる様子がない。

「おや、屏風のぞき」

そんな中、また視界に入る影が現れたので、顔を上げて若だんなは、屏風から出てきたらしい付喪神に話し掛けた。

「どうだい、一局やらないかい」

久々に床上げしたのだからと、屏風のぞきが碁石盤を持ち出してくる。若だんなは碁仲間である付喪神に優しく笑い掛けたが、すぐにその首を振った。

「なんだい。つれないねえ、暇そうにしてるのに」

「好きで暇してるわけじゃないさ」

若だんなは屏風のぞきを手招きして引き寄せると、久しぶりに意地悪く舌を出してみせた。

「それよりさ、私は……栄吉に会いに行きたいんだけど」

屏風のぞきはそう打ち明けられ、苦虫を飲んだような顔になる。
ようするに、若だんなの身代わりとして、寝床に入っていてほしいというお願いだった。
屏風のぞきは暫く嫌な顔をしていたが、若だんなが両手を合わせて頼み込むと、天井を見上げて溜息をついてから、渋々頷いた。

「屏風のぞき、ありがとうね」

若だんなはどうしても栄吉に会いたかった。そして、一つ聞きたいことがあったのだ。それ故に、己の代わりに寝間へと消える妖に、心から嬉しそうな笑顔を向けてから、若だんなは離れを後にした。



「久しぶりだね、栄吉」

「おや若だんな。風邪はもう治ったのかい」

久しぶりに顔を見せたというのに、栄吉の口から出た第一声には、若だんなが思わず苦笑いする。

「なんだい。私はせっかく栄吉の顔を見に、兄や達の目を避けて来たのにさ」

「まだ病み上がりだろう。一太郎、あんまり無理はするなよ」

そう言いつつも、栄吉は自分の作った菓子を選びぬいて買っていく幼なじみを、微笑ましく見ている。

「……栄吉」

「なんだい?」

「最近はどうだい? 皆…元気でやっているかな」

買った菓子を抱えたまま、一太郎がふいにぼそりと妙な事を尋ねたので、栄吉は寸の間首を傾げる。だがすぐに、一太郎の胸の内が見えたのか、栄吉は父親に断りを入れてから、一太郎を店先に座らせた。

「ああ、なんだ、一太郎が気になっていたのはお春のことか」

「栄吉!」

「大丈夫。今、お春は出かけてるからさ」

だから遠慮はせずに、さぁ話せと栄吉が急かす。少し気恥ずかしくなったので、自分と話していて良いのかと若だんなが栄吉に問うと、昼時に菓子を買う者はあまりいないと返された。若だんなは一息つき、重々しくその口を開いた。

「先の……大むら屋から持ちかけられた、兄さんの縁談話の一連は知っているだろう?」

一太郎の言葉にすんなり栄吉が頷く。一太郎の兄、松之助に縁談を持ちかけた店の娘がその店の番頭に殺されたとかいう話で、一太郎が顔を見せなかった七日ばかり、通りはこの話で持ちきりだったのだ。

「それで思ったんだよ。お春ちゃんにも話が来る頃だから、どうしてるかなぁって」

寝込んでいることが多い若だんなは、己が伏せっている間に、自分の周りでいろんな話が進んでいってしまうことが不安なのだ。
幼い頃からそんな若だんなを見ている栄吉は、隣に座る肩をぽんぽんと軽く叩いてから、笑って言い聞かせる。

「話はいくつか来ているけどね。お春が頷く縁談はまだないよ」

お春がうんと言う相手が居なければ、両親も栄吉自身も無理強いはしないという。道理であろう。お春は、三春屋の店主とおかみにとっては大事な一人娘、栄吉にとっても一人きりの兄弟だ。だからそう心配することもないと、栄吉は笑った。

「そうか……うん。そうだね」

栄吉の言葉を聞いて、なんとなく安心できたのか、若だんなもようやく頬を緩ませる。
栄吉の“まだない”という言葉が少し、胸に残るだけだった。



「お帰りなさいませ、若だんな」

半刻ほど経って、若だんなが三春屋から離れに戻るとすぐ様、飛び付くように鳴家達が集まってきた。もちろんそれは、若だんなが買ってきた菓子目当てに違いない。

「兄や達にばれてないみたいだね。ほら鳴家、ちょいとお待ち」

久々に栄吉に会えたことと、気になっていたことが聞けたので、今若だんなの機嫌はたいへん良い。足下にぎゅいぎゅい群がる小鬼達を厭うことなく、菓子鉢に買ってきたばかりの菓子をたっぷりと入れてやった。

「皆で仲良くお食べ」

若だんなが笑ってそう言うと、鳴家達はいっせいに菓子鉢に飛び付いた。その様子を可笑しそうに眼下に見ながら、若だんなは自分の身代わりをしてくれている屏風のぞきに、居間との襖を開けて声を掛けた。

「屏風のぞきや、今戻ったよ」

そう声を掛けたのに返事が返ってこない。
何事かと、若だんなは自分の寝床を覗き込んだ。するとたいへん珍しい、若だんなの身代わりに床に入っていた妖は、そのまま寝入ってしまっていたのだった。

「あれ、珍しいこともあるんだね」

起きないものかと少し揺さ振ってみたが、どうやら本当に寝入ってしまったらしい。

(まぁ別に、このままでもいいか)

そう思って、若だんなが寝床の横から立ち上がろうとした時だった。

「わぁっ」

突然足の辺りを掴まれて、後頭部を畳に打った。見れば寝呆けたらしい屏風のぞきが、己の足にしがみ付いていた。

「屏風のぞき、足を放して……」

足にしがみ付いてくるなんて、人恋しい夢でも見ているのかと、若だんなは苦笑しながら屏風のぞきを放そうとして、その言葉を呑み込んだ。
視線の先、居間との襖境に仁吉が立っていたのである。

(なんでこう、いつもいつも、拙い時に来るのかね)

つい今し方まで頬も緩んでいたのに、今の若だんなは苦いものを飲まされたような気分だ。
とにかく若だんなは素早く屏風のぞきから逃れると、声をかけるよりも早く、仁吉に歩み寄った。

「どうしたの仁吉。仕事はまだあるんだろう?」

上目遣いにそう聞いてみたが、「薬湯の時間なので」と言うだけで仁吉の顔は笑っていない。何も知らずに若だんなの寝床で寝ている付喪神を見下ろすその目は、視線だけで射殺さんばかりだ。

「なんで屏風のぞきが、若だんなの寝床にいるんです?」

「それは……」

若だんなが答えるよりも先に、仁吉は寝ている付喪神をひと蹴りして寝床から出すと、その衝撃でやっと目を覚ました屏風のぞきを、そのまま摘み上げて本体の屏風へと投げ入れ、そのまま屏風を閉じてしまった。

(ああ……この先が、思いやられるよ)

口に出せない小さな嘆きがひとつ、離れの寝間に残された。



「若だんな、どういうことか、きちんと説明して下さい」

離れの居間で、火鉢を挟んで向かい合いながら、仁吉が若だんなを問い詰めていた。菓子鉢に群がっていた鳴家達はどうやら、部屋の隅へと引っ込んでしまったらしい。

「……だから、いつものように三春屋に行っただけだよ」

「だったら何故、屏風のぞきが若だんなに抱き付いていたんです?」

「抱き付い………へっ?」

足にしがみ付かれていただけなのだが、どうやら仁吉にはそう見えたらしい。今回、仁吉がいつものように屏風のぞきを殴らなかったのは幸いだが、そのせいかいつにも増して、仁吉は怒っているような気がする。
火鉢の側にいるせいではない。仁吉の顔が赤かった。

「……何も、されてないんですよね?」

「何を?」

あまりにも妙なことを仁吉が聞いてくるので、今度は若だんなの方が仁吉を疑り深く見つめた。見つめられた仁吉が、苦いものを飲み込んだような顔をしている。

「いえ……若だんなが無事なら、あたしは構わないんですが」

まるで、先程までと立場が逆転してしまったかのようだ。仁吉が少し申し訳なさそうに下を向いたので、若だんなは笑って溜息をひとつつくと、立ち上がって、仁吉のすぐ横に座り直した。

「栄吉にね、お春ちゃんのことを訊いてきたんだよ」

顔を上げた仁吉を見つめながら、若だんなは言葉を続けた。

「大むら屋の一件があってから、そういえばお春ちゃんの話はどうなったのかなって、気になってたんだ。だから抜け出したんだよ」

松之助のこともそうだが、幼い頃からの縁があるお春のことがあれ以来、どうしても若だんなの頭を離れなかったのだ。

「皆、どこかへ行っちゃうのかなって思ったら、離れでぼうっと火鉢の側に座ってるのが、我慢できなくなったんだ」

松之助にも、お春にも、縁談は喜ばしい話であるのに、なんだか若だんなは素直に喜ぶことができないのだ。離れることに慣れなければいけないはずなのに、離れてほしくないと思う。
若だんなはそっと仁吉の肩に頭を乗せて、小さな声で「私は可笑しいのかな」と呟いた。

「可笑しくないですよ」

仁吉がやっと頬を緩ませて、若だんなの手を優しく握った。そこから伝わる温もりが、若だんなを安心させてくれる。

(仁吉と佐助は、私の傍から離れないって、いつも言ってくれているんだよね)

思い返してみれば、これ程嬉しいことなどないのかもしれない。そう思って隣を見ると、「少し寝ますか?」と仁吉が持ってきた薬湯を差し出してきた。そう言われれば少し疲れたかもしれないと、若だんなはなんとも情けない自分の身体に呆れながらも、仁吉の手から薬湯を受け取って飲み干した。

「居間の方が暖かいですから、こちらで寝ていて下さい」

仁吉は立って隣の寝間から若だんなの布団を持ってくると、火鉢の隣、居間の中央辺りに布団を敷いた。続けて仁吉に促された若だんなが、いそいそと布団に入る。

「仁吉、そろそろ戻らないと」

内心行ってほしくはなかったが、自分のせいで仁吉を長く離れに留めてしまったので、若だんなは床の中から店に戻るよう、仁吉にそう言った。
だがこれに、仁吉が優しくやんわりと受け答える。

「大丈夫ですよ、若だんな。若だんなが眠るまで、あたしはお傍に居ますから」

ほっとするような言葉だった。

(……仁吉はずっと、私から離れないで居てほしいな)

微笑む仁吉を見つめながら、ふと、若だんなはそう思った。
この気持ちがなんなのか、まだ若だんなにそれは、わからなかったが。

「あたしは、若だんなから離れませんよ」

離れなければ、離れることに慣れる必要もない。
長崎屋の離れには、それを知っている者が、ちゃんと居る。



2008.0218



あきゅろす。
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