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一刻千秋


江戸は日本橋・通町に店を構える長崎屋は、廻船問屋と薬種問屋を営む大店である。
先代当代の二代と、店の歴史は古くは無いが商いは上々、主人や奉公人の評判もよく、通町には欠かせないお店の一つだ。

「その通りです。御自分のお店の事をよくおかりですね、若だんな」

そう言って、床から起き上がった若だんなの肩に羽織を掛けたのは佐助で、まだ日が高いのにも関わらず、昼過ぎに若だんなが起きたのを知ってから、それきり仕事には戻っていない。

「長崎屋は至って繁盛しておりますよ。お店の事は心配無用です。さあ若だんな、薬湯を召し上がって下さい」

にこりと微笑みながら、その綺麗な顔を近づけて薬湯を差し出したのは仁吉で、今日は若だんなが目を覚ました時から、ずっと離れずにその給仕をしている。

「貧弱な一人息子に甘くするのをやめたら、長崎屋はもっと評判がよくなると思うけど」

やれやれと苦笑いしながら、一太郎は仁吉の手から受け取った薬湯を勢いよく飲み込んだ。
その恐ろしい薬湯の色を見るのを避ける為に、素早く飲んだのはいいが、見た目よりも凄まじい味は今日も健在で、蛙の断末魔のような声が若だんなの喉から漏れる。

「仁吉の薬湯は……もう少し、甘くなったりしないのかしら」

薬湯の苦さに涙目になってそう呟くと、それでは口直しにと、仁吉が唇に何かをそっと押し当てる。逆らわずに口を開けば、舌に乗ったのは金平糖だった。
甘くて美味しい。
だがそれが、何故か子ども扱いされたように思えて、若だんなは上目遣いで手代達を睨み付けた。

「二人が私の心配をしてくれるのは嬉しいけど、あんまり仕事を放っておくのはよくないよ」

佐助も仁吉も長崎屋の奉公人だ。いくら主人夫妻が病弱な一人息子に甘いからといって、こんな昼間から二人も仕事を放り出して己の給仕をする必要はない。
そう真剣に、若だんなが説いているのに「美味しいお茶が入りました」と佐助は湯呑みを、仁吉は「もう一粒如何です?」と金平糖を差し出してくる。

(人の言葉を話していても、二人は私の話を聞いてくれやしないんだから…)

ただの奉公人としてではなく、若だんなの兄やとしてその世話をしている佐助と仁吉はただの人ではない。二人は病弱な己が為にと亡くなった祖父が寄越した、犬神・白沢という妖なのだ。
そうと知ってはいるものの、あまりにも過保護にしているのは一太郎にとっても兄や達にとっても良くないのではないか。……そう訴えかけても、店より若だんなが第一の二人は動じない。
ならばと少し険を強くして、佐助と仁吉を交互に見やる。

「私と一緒にいて、兄や達は楽しいかい?」

一寸(ちょっと)冷たく言い放った一太郎の言葉に、寸の間動きを止めた二人だったが、お互いの顔を見合わせると、可笑しそうに笑いながら若だんなに躙り寄った。

「もちろんです。若だんなのお側にお仕えしている時が、我らは一番幸せですよ」

そう優しく応えてくれたのは佐助で、淹れ立てのお茶を若だんなに手渡す。
澱みない色と香りの兄やが淹れてくれたお茶は、いつものように調度いい熱さだった。

「あたしたちの主人は、若だんなお一人です。お許し頂けるならば、一時もお側を離れたくはありませんよ」

じっと若だんなを見つめ、その手のひらに金平糖が沢山詰まった小袋を握らせながら、仁吉が若だんな以外には決して向けない顔で微笑んでみせる。

「……お前たちが側にいてくれて、私は毎日幸せだよ」

それは若だんなの本心で、いつまでも変わらぬ思いだ。
だがその反面、嘘偽りない二人の優しさに触れる度に思う事がある。

(毎日毎日、同じ事の繰り返し。ちっとも丈夫になんかならない私に仕えて、二人は幸せなんだろうか……)

朝起きても寝込む、昼餉を食べても寝込む、夜まで床で休んでいるだけでもまた寝込む、頑張って苦い薬湯を飲んでも、幾日と経たないうちにまた寝込む。
当の一太郎本人でさえ、己の貧弱さにうんざりしているのだから、側で仕えている二人の気苦労は、絶えぬに違いない。
先代の祖父・伊三郎の遺言とはいえ、二人は妖なのだから、無理に人の世に留まることはない筈だ。

(どこへなりとも、好きな場所で生きていいんだよね……)

店の跡継ぎにも、ましてや後どのくらい生きれるのかもわからぬ己に仕えるよりも、その方が佐助も仁吉も幸せに違いない。
大好きな二人がいなくなってしまうのは悲しいけれど、己の為に二人を縛りつけるような事はしたくないと、若だんなは思っていた。

「ねえ、兄や達は……」

なかなか口に出せない問いを、思い切ってしてみようと若だんなが口を開くと、何を言おうとしているのか察したらしい仁吉が、すっと唇に指を当てる。そのまま頭(かぶり)を振って、今度は佐助が代わりに口を開いた。

「妖である我らにとって、人の日々の営みは僅かな時間でしかありません……そう、以前は思っておりました」

人の寿命の何倍、何十倍も生きる妖にとって、その時間はあまりにも短い。人と交わって生きることは、本来は妖の身には不釣り合いだ。
長崎屋に来るまでは、そう信じて疑わなかったと佐助は宣(のたま)う。

「けれど長崎屋に奉公人にとして入り、若だんなにお仕えしてきたこの十余年は違いました。昼夜を問わずに、我らは若だんなの事を案じております。仕事でお側を離れている間、一年一日と言わずに、一刻半刻ですら時が惜しい……。若だんなと過ごす時間が、そりゃあ大事なので」

だから、寝込みがちな身であっても、その世話ができるのが嬉しい。
付きっきりで看病しているその時間さえ、仕事に出ている時よりも安らぐのだと佐助は笑った。

「人型をとって、こうして長崎屋に奉公しているのは、偏(ひとえ)に若だんなのお側にいたいからです。それ以外の理由はございません」

若だんなの手を優しく握り締めて、仁吉もきっぱりと言い切った。

「……ありがとう」

二人の気持ちを聞いた若だんなも、照れくさそうに笑って礼を述べる。
しかし、やはりお店の事も大事に考えて貰わねば困ると、若だんなは兄や達に釘を刺す。

「でもね、せめて私が寝込んでない日は、昼間から二人して側に付いていることはないんだよ」

寝坊はしてしまったが、熱もなく、薬湯も頑張って飲んだ今日は調子が良い。三日前まで熱が下がらなかったと、兄や達が床から出してはくれぬが大事は無いのだ。

「私の代わりに、おとっつぁんの手伝いをしておくれ」

大事な大事な若だんなの頼み事だ。
もちろん、二人も無碍には出来ない。

「お優しいですね、若だんな。そういうわけだ佐助。仕事に戻っていいぞ」

若だんなが飲み干した薬湯の湯呑みを片付けながら、仁吉が事も無げに佐助に向かってさらりと言う。

「今日は若だんなの目覚めが遅かった。若だんなの朝の給仕は、あたしの仕事だよ」

冷めてしまったからと、若だんなの為に新しいお茶を入れるべく薬缶に手を伸ばしながら、佐助も仁吉に目を合わせることなく言い放った。
この言い様が、どうやら互いに面白くなかったらしい。
床の上の若だんなを板挟みにして、佐助と仁吉がその目を半目にさせて睨みあう。

「昼間のお世話は、あたし一人で大丈夫だよ」

「今日は一度も店に出てないんだろ? 仁吉こそ、仕事に戻った方がいい」

若だんなが第一と、普段は協力しあっている良き相棒のような関係の佐助と仁吉だが、たまに己の事を巡って一悶着起こすので、一太郎も頭が痛い。

「ちょ、ちょいと、二人とも……」

二人を宥めようと若だんなが仲裁に入るも、今にもその手に持つ湯呑みや薬缶が目の前を飛び交いそうな雰囲気が怖い。
口論より剣呑な事に発展する前にと、慌てて若だんなが口を開いて訴える。

「兄や二人が仲良くしないと、私は心配で眠れなくなるよ」

この言葉を聞いた二人の表情が、ぴくりと固まる。
若だんなの身に危害が及ぶのは兄や達の望むところではないので、一太郎の訴えは、どうやら通じたらしい。

「仕方ありません。若だんなに心配をさせるわけにはいきませんからね」

「ここは、どちらも恨みっこ無しとしようじゃないか」

二人は顔を見合わせると、きちんと座り直し、若だんなに揃って向かい、口を揃えて礼をした。

「では、今日はこのまま、我ら二人で若だんなのお世話を致します」

「なんでそうなるんだい!」

二人は今日も、若だんなが第一の、そのまた一番であった。

(佐助と仁吉は……ああもう、相変わらずなんだから)

若だんなが呆れて手から落とした金平糖の袋を、いつの間にか現れた鳴家達がせっせと広げ平らげている。

(まだ日が高い。今日は、まだまだ終わりそうにないよ)

いつもの変わらぬ光景に、若だんなは一人、安らぎを覚えた。



2013.0210



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