悪天クライシス
ただ、それだけ。
「私に唾をかけなかったのは幸いでしたね」
涼しい顔で言うカレンを、一火は口を抑えながら横目で睨みつける。
「…あー、ったく…誰の」
誰のせいでこうなったと思ってるんだ、と言いかけた一火は、しかし口を噤んだ。
…その言葉は、言ってはならないような気がしたから。
生前より水にトラウマがある彼女を責める言葉になるのではと思ったからだ。
一火の気持ちを知ってか知らずか、カレンは立ち上がり告げる。
「あなたに風邪を引かれると困ります。…だいぶ話し込んでしまいましたし、今日は帰りましょうか」
太陽の光が射さず、常に天上には月が浮かぶ魔界。
その為細かい時刻は一火には把握出来ないが、話し込んでいたと言ってもまだ昼間だろう。しかしそれでも帰ろうとカレンは言う。
(…心の準備が、まだ出来ていないって事か)
彼女が純粋に自分の心配をしてくれているという可能性を無意識に潰し、一火はそう推測した。
そうして二人はその場から去り、来た時と同じようにカレンが先導し歩き出す。
暫くお互いに黙り込んでいたが、ふとカレンは立ち止まり、顔だけこちらに向けて。
「あなたが責任を感じる必要はありませんよ」
「え…?」
「これは私の勝手なお願いなんですから。
…新たにお知り合いになった、『一火さん』という人への…お願いですから」
「……え」
――責任を負う必要はない。
その言葉は、さっき自分が言った『無責任な事は言えない。それでも自分でいいのか』という問いの答えなのだろうか。
昨日今日と、願いを叶えろと何度も強調したくせに、今度は『勝手なお願い』だなんて。
しかも『他人』を撤回し、『知り合い』になって。
…そして、何よりも。
――彼女は初めて、『一火さん』と、自分の名を。
「…それだけです。さぁ、行きますよ」
彼女は再び歩き出す。赤色の髪が波打つように風に靡いた。
放心状態になっていた一火は、もう一度呼びかけられてからようやく我に返り、その背を追う。
何も言えない。言える訳がない。
…何故なら、目の前の彼女の髪色に負けない程に、彼の顔は再び熱を帯びていたから。
その様はまさに一火の名が示すような、ひとつの炎のようであった。
……。
…。
――二人がその場を去ってから、数分の後。
彼らが傍を通り過ぎた、とある家の影がグニャリと歪んだ。
しかしその歪みは一瞬で、注視していなければ誰も気付かないだろう。
歪みが消えた時、その中からやはり一瞬で現れたのは、黒衣を纏った黒髪の少年と彼が手を繋ぐ女児だった。
少年は女児に比べて血色が悪く、その青白い肌には汗も浮かんでいた。
「イアン、だいじょーぶぅ?」
女児が軽い調子で聞く。イアン、とは勿論少年の名前だ。
「…大丈夫だよ。結構疲れたのは本音だけど…」
そう言って、溜め息を吐きながらイアンは汗を拭う。
橙色の髪を持つ女児はそれで相方への興味を無くしたのか、先程一火達が去って行った方を見やる。
「それにしてもー! カレンちゃんとイチビおにーちゃん、いい感じだねぇ!
思ってたより進展はやーいっ!」
子供らしい大きな目を輝かせながら言う女児に、イアンは苦笑して。
「…ルビエ。はしゃぐのはいいけど、僕達結構いけない事をしたんだっていう自覚はあるよね?」
「うん!」
ルビエと呼ばれた女児は、満面の笑みで頷く。
「いわゆる覗きでしょー? でもぉ、元はと言えばカレンちゃんがルビエ達を置いていくのがワルイの! だからお互い様ぁ」
「…向こうは僕達がここにいた事、気付いてないだろうけどね…」
イアンはそう言いつつ、自分達がここまで来る事になった経緯を思い返す。と言っても、簡単な話だ。
自分達を置いて先に行ってしまったカレンをルビエが追いかけると言い出し、『イアンも来てくれるよねぇ?』などと言われてしまえば、もう自分もついて行くのは決定事項へとなっていた。
…元よりカレンの事が心配だったので、ルビエに言われなくとも共に魔界宮殿を出ていただろうが。
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