水の姫神子 姫神子と守護聖 「――ぷはっ!」 白で統一された宮殿のとある一室には、円形に縁取られた、人口の湖のようなものがある。 それはこの『湊道家(そうみちけ)』にとって、ただ一人しか入る事を許されない『聖水』であった。 湖から顔を出したのは、長い髪をひとつに括っている少年と、彼がその身に抱いていた少女。 少女は長時間水中にいたためか、苦しそうに咳き込んでいる。 「姫様」 少年は心配そうに少女の背を撫でながら、彼女を地上に誘う。 そうして聖水の傍らにある花壇に座った少女は暫く咳き込んでいたが、やがて笑みを零して。 「ごほっ、……大丈夫。ごめんね、またやっちゃった」 少女がそう言った途端、少年は目を細めた。 「…姫様、貴女は毎回毎回そう言って、僕が助けるまでずっと聖水の中に留まってますよね」 「うっ」 「宜しいですか。貴女はこの湊道家の十代目の『姫神子』様なのですから。…『姫神子の儀』より前に、自らの身を危険に曝すのは止めて下さい」 「……うん。…ごめんね」 ――水神(みなかみ)に祝福されたこの世界『エリアス』。 その中で、少女の生まれた『湊道家』は特別な使命を負っていた。 …『湊道の家に双子の姉妹が産まれし時、姉には次代の子を産ませ、妹は水神への供物として捧げよ』。 それが古くからの言い伝えであり、掟であった。 双子の姉妹が湊道家に生まれる時期に決まりは無い。 それらは全て水神の意思によって決まるものなのだと言われている。 少女…湊道華夜(そうみち かや)は、双子の姉妹のうち妹として生まれた。つまり、この世に生を受けた瞬間から…彼女は水神にその身を捧げる供物なのだ。 彼女のような存在を、人は『姫神子』と呼んだ。 俗世を去り、若い内に神の下に逝く。 そうしていずれはこの世界を包み込む『水』の一部になり、後世の人々の命の糧になると。 そう信じられてきた。 少年が言う『姫神子の儀』とはつまり…そういった、姫神子がその命を絶つもので。 儀式の前に死ぬ危険のあるような事をするんじゃないと…少年は残酷に訴えているのだ。 「……」 華夜の謝罪に、少年は顔を曇らせる。 …華夜は本来の少年を知っている。この少年は残酷な人間に成り切れない。 いつも『自分が姫神子である自覚を持て』と言いつつ、その瞳は悲しげに揺れているのだから。 「…カイリは、優しいね」 カイリ。それが少年の名前だった。 華夜という姫神子を守る為に生まれた『守護聖』である彼に、契約者である華夜が名付けた。 「……優しいのは、姫様の方ですよ」 カイリは悲しげな瞳をそのままに、そっと微笑んだ。 「僕のような人ならざるモノにも、温かな瞳を向けてくれる」 「そんな…」 「僕は貴女だけの守護聖なのですから、もっと僕をこき使っていいんですよ? それこそモノのように」 「カイリ!」 華夜はたまらず声を上げた。 カイリのこういった発言は今に始まった事ではない。が、華夜にとっては耐え難い苦痛だ。 (…カイリは、私が産まれた時からずっと傍にいてくれた。…私の、大事な人) 例え彼の役目が、『姫神子の儀を終えるまで(華夜が神の下に逝くまで)華夜を守る』というものであっても。 彼と過ごした時間は、華夜にとってかけがえのない時間なのだ。 「…すみません」 カイリは華夜の言葉に、それだけ返した。 そしてこの話題を打ち切るように、華夜に用意していた着替えを渡して部屋から出て行ってしまった。 「あっ……カイリ」 カイリは遠くに行ってしまったわけではない。 華夜が着替えるため、退出した。それだけだ。 現に扉の向こうに彼の気配がある。 …けれど……。 華夜は服を着替えながら、カイリに思いを馳せる。 一ヶ月前、華夜が十六の誕生日を迎え…正式に姫神子として認められた時から、華夜はカイリとの距離が開いたのを感じていた。 簡単な話だ。 カイリが自分の名前を呼んでくれなくなった、ただそれだけ。 以前は『華夜様』と呼んでくれていたのに。 理由を聞けば、『貴女は今日この瞬間から、正式に姫神子となりましたから』の一点張り。 どう華夜が訴えようとも、彼は華夜の事を名前ではなく、『姫様』と呼ぶようになってしまったのだ。 それがどうしようもなく悲しくて、苦しくて、寂しくて。 華夜は清潔な服に袖を通しながら、重い溜め息を吐いた――…。 [*前へ][次へ#] [戻る] |