水の姫神子 どうか、呼んで。 「ひ…ひめ、さま」 「お願い、カイリ…一回だけで…いいの」 我が儘を言っている事は解っているから。だから。 一回だけ、自分を姫神子としてではなく、『華夜』というひとりの人間として見て欲しい。 『華夜』という、ただそれだけの存在を…呼んで欲しい。 「……っ」 華夜にそう告げられ、そよ風に揺れる水面のように潤んだ瞳に見つめられ。 カイリは無意識に息を呑んだ。彼の瞳も、灯火のようにゆらりゆらりと揺れ動いている。 「…ですが、姫様…。僕は…っ」 未だ躊躇いの言葉を紡ぐカイリ。彼はまた言うつもりなのだ、『自分はただの守護聖』でしかないと。それ以上でもそれ以下でもないと。 そんなの、嫌だった。 彼が自分自身を『人』ではないからと、そう言って心を閉ざすなんて。 むきになって駄々をこねる子供のように、それがどんな感情でもって呼び起こされたものなのか、不可解な苛立ち。 ただ、華夜は『嫌』と心の奥底から叫んでいたのだ。 「あなたは、カイリ。世界でたった一人しかいない、私の…大切な、ひと」 だから華夜は言った。それがどんなに自分勝手な、カイリの気持ちすらも無視した言葉であったとしても。 自分の気持ちを伝えずにはいられなかった。 そう想いのままに告白した華夜は、彼女の言葉を否定しようとするカイリの口を、自分のそれでそっと塞ぐ。 自分でも驚きを隠せない行動。理由なんて無かった。無意識に、そうしていた。 「…!!」 目をかたく閉じている華夜には、カイリの表情は解らない。けれど、瞠目したような気配は感じられた。 ただ唇を合わせているだけだ。彼なら大して力を出さずとも華夜を振り払えただろう。 いや、そもそも人間の姿を取るのを止めて、いつものような腕輪の形になればいいのだ。 そうするだけで、カイリは華夜の唇から逃れられる。彼女の真摯な言霊から、清純な想いから、耳を塞ぐ事だって出来る。 けれど、カイリはそれをしなかった。 ただ華夜の肩に、そっと手を乗せる。羽根のような軽さで、重みなど殆ど感じなかった。意識していても気付けるかどうか危ういくらいだ。 でも、華夜は気付いた。 (きっと、そこにいるのがカイリだから) だから気付けたのだと、ぼんやりと華夜は思う。 両肩に置かれた彼の手からじんわりと伝わる温もり。それに酔いそうになりながらも、華夜は名残惜しげに唇を離し…恐る恐る目を開けた。 「………」 眉を下げ、目を伏せているカイリの表情には翳りがあり、華夜は少なからずショックを受けた。 二人の間にずっと漂っている沈黙は、曇天のように淀んでいて。 まるで世界に音など存在しなかったかのように、お互い口を噤んでいた。 唯一、未だ肩に置かれたカイリの手の温もりが華夜の心を安定させてくれる。 一体、どれだけの時間そうしていただろうか。 長く続いた沈黙に感覚が麻痺し、ようやく壁に掛かった時計の音が耳に入るようになった頃、カイリが動いた。 「……」 顔を上げたカイリは意を決したように華夜を見据え、強い光をその目に宿している。 その真剣な表情に、華夜はどうしようもなく期待してしまう。 (呼んで。…カイリ) カイリが、長い間閉ざし続けた口をゆっくりと開いた。 華夜はもうそれを塞がない。彼が紡ぐ言霊が、自分の望むものと信じて。ただただ祈るように見つめていた。 「…か、」 そして。彼は、その言葉を。 [*前へ][次へ#] [戻る] |