Re1:The first sign
A
ノアはアイリスの背に身を寄せて、背後から彼女の両腕を捕らえた。
しかも彼は今、上半身に何も纏っていない。
ノアのリアルな身体の感覚を背中に受け、アイリスは固まったまま動けずにいた。
何、この状況は。
「ひ…っ」
突然、アイリスの肩を掴んでいた大きな手がゆっくりと細い喉元に移動した。
ノアは何度か指先で優しく触れた後、そのまま手を下降させて彼女の両掌を捉える。
「…痛いか」
ノアは、低く呟いた。
そこでアイリスは、漸く自分の手が負傷していた事を思い出す。
患部は彼女が寝ている間に手当てされ、丁寧に包帯が巻かれていたのだ。
「そんなに酷い火傷じゃなかった。冷やしておけば、すぐに治る」
「あ、ありがとう」
アイリスが戸惑いながらも礼を言うと、ノアは静かに彼女から離れ、その亜麻色の髪を撫でた。
不思議に思ったアイリスが顔を上げると、そこには少し嬉しそうに微笑むノアがいた。
――…この人は、本当にレックスに似てる。
怖いほど、そっくりだ。
するとノアは、小さな溜息をついて言った。
「お前さ、普通にしろよ」
「普通…って?」
別に、特別彼を意識などしていないつもりだが。
「さっきから俺のこと、汚いモノ見るような目で見てるから」
「そ、そんな事…!!」
汚いものだなんて、そんな風に思っていない。
ただ、アイリスのいた村は本当に田舎だったので、都会との色々な違いに驚きを隠せないだけだ。
ましてや、同性での恋情なんてもっての他。
あの英雄ノアが、男と付き合っているなんて…。
「ごめん…。ちょっとビックリしただけ。でも世の中にはそういう人も一杯いるし、偏見持ったりなんかしないから」
「…そういう人?」
そう、ここは大都会ジルクス。
覚悟はとっくに出来ていた筈だ。
こんな事でいちいち驚いていたら、レックスを探す事なんか出来ない。
「あたしこう見えて、医者の卵なの。守秘義務を弁(わきま)えているつもりだから心配しないで」
「…お前さぁ」
ノアは面倒臭そうに顔をしかめ、自らの頭をがしがしと乱暴に掻いた。
そして、呆れたように一言。
「何か、物凄ぇ勘違いしてんだろ」
「へ…?あんた、同性愛者じゃないの?」
「違ぇ!!!!」
途端にノアは眉間の青筋を深くし、怒りのオーラを現わにした。
その修羅のような形相があまりに怖すぎて、アイリスは半泣きになりながらも必死に弁解した。
「だ、だってあんた!!さっきの人とやる事やったんでしょ!!?」
「バカヤロウ俺は至って健全だ!それ以前誰があんなド変態野郎と付き合うか!!」
「じゃあ…何で」
同じベッドで寝て、しかも半裸で。
朝まで一緒だったくせに。
やがてノアは怒りを鎮めるように煙草に火を付け、ドカッと乱暴に寝台へ腰掛けた。
「…この顔のせいで」
「え?」
ノアの呟きは煙と共に吐き出された。
先程、セスという男が開けたままにした窓へ向けて。
一応、煙草を吸わないアイリスに配慮をしているようだ。
「昔から、このやたら整いすぎた顔のせいで言い寄られるんだよ。男からも、女からも」
確かにこの男は、女から見ても羨ましいくらい綺麗な顔をしているが。
そういうこと、自分で言うか普通。
「最近は断るのも面倒だから、適当に凌いでんだよ」
「はぁあっ!!?」
「セス…さっきの奴は、この辺じゃ名の通ってる情報屋だ。好色家だけどな。昨日買った情報料として、相手しただけだ」
断るのが面倒だから?
仕事だから?
好きでもない人と…、ましてや男と。
――…信じられない。
あまりに常識外れなノアの言動に、アイリスは黙っていられなかった。
呑気に煙をふかすノアから、思い切って煙草を奪い取る。
「何す…」
「バカヤロウはあんたじゃないか!!もっと自分のこと大事にしろよ!!」
アイリスの怒号に、ノアは目を見張った。
だがすぐに、冷めた漆黒の瞳を彼女から逸らす。
「身体くらい安いモンだろ」
「な…っ」
「んなモンで物事解決できるんなら、いくらでもくれてやれる」
だけど、とノアはアイリスに視線を向けた。
揺るぎない、真っ直ぐな表情を。
「心だけは誰にも売らねぇよ。俺の魂ごと全部やる相手は、もう決まってる」
「それ…って」
ノアのあまりの真剣さに、アイリスはゴクリと息を呑んだ。
その隙に、ノアはアイリスの手から静かに煙草を取り戻す。
落ちそうになっていた灰を、自らの指先で潰した。
「俺、好きなオンナいるから。命懸けて、守りたいヤツがな」
「――…」
「ソイツのためなら、俺は何だってやる。死ぬことすら怖くねぇ」
――…どういうこと?
好きでもない人と寝る事が、本当に好きな人のためになるって言いたいの?
駄目だ。あたしは、そんなの絶対に嫌だ。
自分の為に誰かが犠牲になるような。
そんなの、嫌だ――…
「やっぱり、あんたはバカだ」
「…んだと?」
「だってそうだよ!好きなオンナのタメって言えば、何しても許されると思ってんの?しかも死んでもいいとか、そんなの本人にしてみたら正直ありがた迷惑もいいとこ!死にたがりのバカヤロウに相応しい考え方だと思うよ?」
そう言って笑うアイリスを、ノアは鋭く睨んだ。
ゆっくりと立ち上がったかと思えば、傍らに積んでいた本の山を思いっ切り蹴り付ける。
激しい音を立てて本が崩れていっても、アイリスは同じなかった。
二人は互いに睨み合い、室内に嫌な雰囲気が漂う。
「…俺は大人だから、大抵の事は笑って許してやる。だが世の中には言って良い事と悪い事があるんだぜ」
「確かにね、言わなくて済む事ならあたしだって言わない。だけど、今は言いたいから言ったんだ」
「俺が女を殴れないとでも思ってんのか」
「全然、思ってない」
――…パシンッ!!
乾いた音と共に、アイリスの右頬に痛みが走る。
ノアは無表情のまま、何の躊躇いもなく彼女の頬を叩いたのだ。
コイツ、本当に殴りやがった。
ズキズキと染み渡る鋭い痛みを我慢しながら、アイリスは尚もノアを睨み据えた。
「…バカ…っ」
「あ…?」
アイリスの声は小さく、小刻みに震えていた。
眉根を吊り上げ歯を食い縛る彼女の表情が、何故かノアの胸に深く印象付いてしまった。
「自分すら大事に出来ない奴が、どうやって他の誰かを守れるって言うんだよ!!!??」
やっぱり、あたしの気のせいだったんだ。
他人の空似だったんだ。
こいつはレックスじゃない。
全然違う、別人だ。
あいつはこんなにバカじゃない。
いやバカだけど、違う種類のバカだ。
少なくとも、こんな風に自分を犠牲にしたりしない。
アイリスは走った。
ノアの部屋を飛び出して、アジトの廊下を走り抜けた。
途中ルツキと出くわしたが、立ち止まったりしなかった。
彼にしては珍しく驚いた表情をしていたけれど、構ってなんかいられない。
「っ…アイリス…!!」
あの男がノア=クロウディが、あたしの名を叫ぶ。
だけど振り返らない。
もう立ち止まっちゃいけない。
あたしは衝動のまま、アジトを飛び出した。
行き交う人の波を押し退け、思いっきり走る。
とにかく、あの場所から離れたい。
出来るだけ遠くに。
遠くに――…
「…も…、いや…っ」
こんな所、もう嫌だ。
村の男達は、何が良くて都会に憧れるの?
空気は汚いし、人は多いし、ゴチャゴチャして気持ち悪い。
訳が分からなくなって、道を見失ってしまう。
そうして辿り着いたのは、小さな公園だった。
まだ昼間なのに其処は寂れていて、誰一人いない。
遊具は所々破損していて、至る場所に落書きがされている。
アイリスは一番大きな遊具に手を付いて、息を整えた。
「っ…、はぁ…っ」
泣かない。
絶対泣いたりしない。
…約束したから。
あんたに逢うまで、前を見て生きるんだ。
レックス…。
どこにいる?
あたしはここだよ。
ねぇ、レックス。
「…逢いたいよ…っ」
早く、早く。
あたしを見付けて――…
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