┣╋CENTURIA╋┫
遠き鴎の謳に乗せ
―――――――――
――――――
収穫祭、当日。
幸いにも天気に恵まれ、眩しい青空の下では人々が大いに賑わっていた。
主に市場や商店街を中心に催しているこの祭りだが、教会ではこの日、シスター達が手作りのお菓子を子供達に配布している。
当然『祝福の乙女』も祭りに参加し、子供達や参拝客に笑顔を見せていた。
けれど隣に立つ専属のシスターは、彼女の頬を流れる一筋の汗に気付く。
「憂様…大丈夫ですか?」
「え…」
ハッとして振り向けば、雪菜が心配そうな視線でこちらを見ていた。
「何だかお顔の色が優れないみたいですよぅ…。
今日は気温も高くなるみたいだし、あまり無理しない方が…」
「私なら平気よ」
「でも…」
彼女の様子がおかしい理由を、雪菜は知っていた。
一つは…奏芽伊織のこと。
今朝、彼は医務室から忽然と姿を消してしまった。
棗が憂を問い質しても、彼女は表情を変えずにこう言うばかり。
『彼の傷は私が治しました。もう此処には来ません』
そして二つ目は、疾患病の再発。
昨日の今日で、彼女の身体には再び黒い痣が浮かび上がっていた。
その症状を見た棗は何かを察したのか、もうそれ以上聞く事を止めた。
けれど雪菜はまだ納得していない様子だ。
(あのガキんちょ。
一体、憂様に何したの?)
二人の間に何があったかは分からない。
けれど、あの少年が入院している間の彼女は、普段よりも良い笑顔をしていた。
今、隣に立つ憂は、何処か儚く寂しげに笑っている。
こんな表情は、笑顔と呼べない。
いっそのこと、思い切り泣いてくれた方がマシだ。
けれど、憂は笑みを絶やさない。
『祝福の彼女』の存在が、人々の幸せの象徴だから。
―――――――――
――――――
「ふぁ…」
潮風と太陽が、寝不足の眼に染みる。
冷水で顔を洗っても頭はまだ、ぼぅっとしていた。
駄目だ。
いつまでも横になっていたら、迷惑が掛かる。
鉛のように動かない体に鞭を打って、ヨロヨロとした足取りで階段を降りた。
「あっ、おい零っ!起きてきたぞ!!」
いきなり聞こえた大きな声に、頭の奥が少し軋んだ。
こちらを見るなり嬉しそうに駆けてくるのは、人懐っこい小型犬。
「伊織さぁぁぁあああんっっ!!!!」
「…ウルサイ、零」
少年の猪突猛進を避けてから、伊織は自らの両耳を塞いだ。
「お久し振りッス!!
ご無事だったんスね!!」
「悪ィなぁ、伊織!
コイツ今朝から興奮しまくっててヨォ!!
あんたのこと起こすなって散々どやしたんだよ!!」
いつもながら相変わらず、騒がしい親子だと伊織は苦笑した。
――…昨日。
教会を出た伊織は、行く宛てもなくフラフラと夜の街を彷徨っていた。
その時、偶然にも零の父親に会い、彼らの家に世話になったのだ。
「しっかし本当に久し振りだなぁ!元気だったかァ伊織?」
「ああ、オヤッさんも元気そうだ」
「ったりめェよ!漁師は体が資本だからな!!
それに、魚食ってりゃ病気なんてかからねェからよ!!」
ガハハハハと豪快に笑うこの男は、零の父親。
ボサボサの短髪に無精髭、白いシャツが眩しい。
まさに海の男といった感じだ。
因みに零の母親は、零を産んで直ぐに他界したらしい。
だからと言って、決して子供を甘やかしたりはしない。
零が伊織を真似てチームに入ると言った時も、『夜は帰ってこい』というルールの下、あっさりと許可したのだ。
男なら多少の危険を冒しても成し遂げたいものがある、という漁師道を掲げているようだ。
何にせよ、男手一つで零を育て上げたこの男は、伊織にとって父親の鑑だ。
――…“あいつ”も、このくらい器量のある人間だったら。
仲の良いこの親子の姿は、遠い昔に伊織の憧れたものだった。
「伊織さん」
ふと、零が真剣な表情で伊織を見上げた。
「実は俺も鎖を切ったんです」
「っ、平気なのか…?」
鎖を切るという事は、チームを抜ける事を意味する。
そんな事態になっては、ただで済む訳がない。
けれど、今目の前にいる零は何処にも外傷は見当たらなかった。
「伊織さんが抜けてからチーム全体の士気が弛んじまったんスよ。
それに乗じて伊織さんを支持してたメンバーが次々と抜けて…。
とても制裁に回す人員なんて無かったみたいスね」
――…剣。
伊織がチームを抜けた、あの雨の夜。
血塗れになりながらも、伊織はその場にいたメンバーを薙ぎ倒し、残すは剣一人のみとなった。
けれど彼は向かって来ない。
ただ、雨の中じっと。
伊織の事を悲しそうに見つめていたのだ。
「だって酷いッスよ…剣さん。
伊織さんの事、信用してくれなかったんスよ」
「…零」
少し涙声になる零に、伊織は俯いた。
自分に非が無かったとは、言い切れない。
そもそも、最初にチームの規律を乱したのは伊織の身勝手な行動が原因だったのだから。
「まぁまぁ!過ぎた事はしょうがねぇだろ!!
これで零も心置きなく漁に出れるってモンだ!!」
「うるせー!オヤジには関係ねぇだろ!!
それに俺はまだ漁師になるんて…っ」
「カリカリすんな!
これだから最近の若ぇモンは…!!魚を食え魚を!!」
「毎日食ってんよ!!
食わねぇ日なんかねぇよ!!」
この親子が口喧嘩を始めてしまえば、もはやウルサイどころではない。
「あの…風呂借りてェんだけど」
「おう、使え使え!遠慮すんな!!」
「伊織さんこっちッス!」
そう言えば教会には簡易シャワーしか無かった為、ゆっくりと風呂に浸かる事もなかった。
零に案内され、脱衣所に入る。
「タオルはこれ使って下さい。ちゃんと洗濯してありますから。
着替えは……と」
そこで、零の手は止まった。
今、伊織の着ている服は洗濯してしまうとして。
自分の服は、明らかにサイズが小さすぎて着れない。
だからと言って、あの父親の服を着せるのもどうしたものか。
考えあぐねいている零に、伊織は声を掛けた。
「別に着替えはコレで良い」
「良くないッス!!
昨日から着てるじゃないスか!!」
「じゃあ適当なの貸してくれ」
――…出来ないッ!!
零にとって、奏芽伊織はまさにカリスマ的存在。
そんな憧れる相手に、適当なものなんか着せられる訳がない。
「伊織さんッ!!ゆっくり風呂に浸かってて下さい!!
今買ってきますんで!!」
「は?おい、零…」
「いいから!!間違ってもオヤジの服なんか着ちゃダメですからねッ!!」
そう言うなり、零は一目散に駆けて行ってしまった。
「…何なんだ?」
伊織はポカンとしたが、零がおかしいのはいつもの事だと納得した。
汗を吸った衣服を脱ぎ捨て、浴室に入る。
勢い良く頭からシャワーを被ると、途端に意識がスッと冴えたような気がした。
――…遠くで、祭りの音楽が聞こえる。
そうだ、今日は収穫祭だ。
きっと街中は何処かしこも人でごった返しているに違いない。
教会も――…きっとそう。
彼女が参加する筈だから。
伊織は、入念に体を洗った。
まだこの腕に、彼女の感触が残っている。
忘れなければ。
消さなければ。
これ以上、思い出すのは辛すぎる。
『私が…貴方の想いに応えるとでも?
少しでも、そんな風に見えたのかしら』
耳に残る、彼女の残響が。
『この身も心も命さえも!
全て神の所有物なの!
何一つだって、伊織くんにはあげられない…っ!!』
鳴り止まないこの音を、もうずっと聞いてるんだ。
彼女の悲痛を、何度も何度も。
『私のこと、大切にしてくれてありがとう。
さようなら…伊織くん』
「――…ッ!!」
伊織は、シャワーの蛇口を思い切り捻った。
雫は勢い良く流れる。
雨のように、ざあざあと。
その音が、彼女の声を遠ざけてくれた。
「っ……、憂……」
その名は、シャワーの音に掻き消された。
頬を流れる熱い雫は、その他の水滴に混ざって排水溝へ流れていく。
忘れろ、忘れるんだ。
あの女は、もう手に入らない。
また他の女を探せば良い。
俺にあいつは、無理だったんだ。
でも、だけど。
本気だった。
好きだった。
今も、そうだ。
「う…れい…っ」
ドウスレバ、
彼女ヲ俺ニクレマスカ?
――…カミサマ。
.
[*前へ][次へ#]
[戻る]
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!