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┣╋CENTURIA╋┫
幸福の燕が飛び立つ時






長く降り続いた雨が、ようやく上がった。

きらきらと木々の葉に朝露が光り、澄んだ空気が心地よい。

そんな、気持ちの良い朝だった。




――バタバタバタッ!!


礼拝堂の奥、関係者以外立ち入り禁止の廊下を朝早くから走る人物がいた。

その人と擦れ違うシスター達は皆、不思議そうに首を傾げる。


「あ、あら?」

「今のって…乙女様?」


彼女が慌てる姿など、未だかつて目にした事がないくらい珍しい。

今は丁度、朝礼が終わった時刻だ。

特に急ぐような用事などない筈なのだが、人目も気にせず憂は走っている。


そして教会の奥――…通い慣れた医務室の前でピタリと足を止めた。

緊張気味の身体をほぐす為、憂は大きく深呼吸を繰り返す。

そして、控えめにノックをした。


――コンコンッ


「どうぞ〜」


聞こえてきた軽快な返事を確認し、憂は扉を開ける。

医務室特有の消毒液や薬品の独特な匂いを感じながら、憂は後ろ手で静かに扉を閉めた。


「お疲れ様で〜す、憂様っ♪」

「雪菜、此処にいたのね」


その明るい声の主である雪菜は、優雅に朝のティータイムを楽しんでいた。

すると憂は、キョロキョロと辺りの様子を窺う。


「…ね、棗先生は?」

「ナツは今〜うるさい狼と格闘中ですぅっ」


笑顔で訳の分からない事を言う雪菜に、憂は思わず不思議そうに首を傾げた。

その瞬間。



――ガッシャアアァァアンッ!!!!


「いってぇぇえっ!!」

「静かに。大人しくしてくれないかな」


けたたましい騒音と共に、医務室に響き渡る悲痛の叫び。

それらは衝立てで遮られた奥の部屋から聞こえてくる。


「そういう事ね…」

「そーゆーことで〜す」


ふぅ、と悩ましげな溜息をつくと憂は奥へ足を運んだ。


寝台が複数並べられているその空間は、本来怪我人や病人を休ませる為に設置している場所。

だが、今は一人の患者によって占領されている状態だった。


「てめェいい加減にしやがれ!俺は怪我人だぞ!?
もっと優しく出来ねェのか!!」

「生憎、こんなに元気の良い人間を“怪我人”とは呼べないな」


小さな寝台の上で、ぎゃあぎゃあと言い合う二人の男。

その様子を見て、憂は小さく苦笑した。




「伊織くん」


澄んだ声に名を呼ばれた伊織は、即座に振り返る。

其処には、天使のように優しく微笑む『乙女』の姿。


「憂っ!」


彼女の姿を確認すると、今まで機嫌が悪そうに唸っていたのが嘘だったかのように顔を綻ばせる。

子犬のように無邪気な表情で「来い来い」と手招きをされ、憂は素直に歩み寄った。




――あの嵐の夜。

全身を負傷した伊織は直ぐに医務室に運ばれた。

本来ならば彼は、憂の祝福の力を使えば直ぐにでも完治した筈。

だが、当の本人はそれを頑なに拒んだ。

憂の負担になりたくない。
何より、神の力に頼らなくとも傷は塞がる、と言い張ったのだった。



それから一週間が経過した。

伊織は教会の医務室に入院し、棗の治療によって回復に向かっている。

だが本来教会の奥にあるこの医務室は関係者以外立ち入り禁止の場所であり、棗も通常は入院患者を受け入れたりはしない。

伊織が教会に滞在している事は公にはせず、それを知っているのは憂と棗、そして雪菜だけだった。



「全く…包帯巻くのも一苦労だよ」

「お前が下手くそすぎんだよ」

「ほう?誰に向かってそんな口を聞いてるのかな」


険悪な二人を前に、憂は苦笑するしかなかった。


――その時、

伊織のはだけた医療着から覗く痛々しい傷口が、憂の視界に入った。

脇腹に負ったその刺し傷は他のどの箇所よりも治りが悪く、その所為で夜な夜な伊織がうなされている事を、憂は知っていた。


一週間経った今も変わらず、それは酷い状況だった。


「…痛い?」


眉根を寄せ、心配そうに傷口を見つめる憂。

その不安そうな心境を打ち消すように、伊織は穏やかに笑って見せた。


「痛くねェよ」

「…嘘ばっかり」

「うっせェな!手当て終わったんならもうどっか行け!」


煙たそうに追い払われた棗は、ハイハイと相槌を打つと憂に向き直る。


「憂様、僕も雪菜も隣の部屋にいますから、何かされたら叫んで下さいね」

「てめェ俺を何だと…」

「狂暴な大型犬、です」


ふふ、と意地悪そうに笑いながら棗は部屋を出て行った。

伊織は未だ不貞腐れたように口を尖らしている。


「…あの医者、気に入らねェな」

「あら、棗先生はお若いけれど、この街でも指折りの名医なのよ?
無償で診てもらえるだけでも有難いと思わなきゃ」

「…憂、まだアイツに診察されてんのか?」


伊織は探るように、真っ直ぐ憂を見つめた。


――あの日、伊織が初めて憂の疾患病を知った時。

棗が彼女の身体を診ていた事を、忘れられないのだろう。

それに気付いた憂は、安心させるように微笑んだ。


「伊織くんが心配するような事は何もないわ」

「当たり前だ。
次に具合が悪くなったら、俺が診てやるからな」

「そういう事はお医者様になってから言って下さい」


諭すように言い包めると、憂は寝台の傍らに置かれた椅子に腰掛けた。


窓の外から爽やかな風が入り、緩やかにカーテンを揺らす。

少し肌寒い空気が、秋の訪れを呼び掛けているようだった。



「朝礼、どうだった?」


ふと、伊織が口を開いた。


「…いつも通りよ?
まだ参拝していかれる方もいらっしゃるみたいだけれど」

「そっ…か」


何故、急にそんな事を聞くのだろう。

不思議そうに首を傾げる憂の心境を察したのか、伊織は少し照れたように笑った。


「あ…いや。最近は憂の朝礼もご無沙汰だなーって」

「あら、そんなに説話に興味があるの?
てっきり伊織くんは聞き流してるかと思ってた」

「…んな訳ねェだろ」


途端に伊織は、小さく低い声を発する。

それは普段、彼が機嫌を悪くした証拠だと憂は知っていた。



「いお…っ」


――突然。

憂は強い力で腕を引かれ、前のめりになった。

そして伊織の腕に抱き留められ、驚愕に目を見開く。


「俺が、憂の話を聞き流す訳ねェだろ」

「そう…なの?」

「当たり前だ。
ほら、何つったっけ…。
教会の鐘の音は、神の歌声だ…とか」


伊織の言葉に、憂は心の底から驚いたように目を丸くした。

そんな彼女の表情を見て、伊織は眉根を寄せる。



「…何だよ、その顔」

「あ、えっと…。
意外だったから。
伊織くんの口から“神”の名前が出てくるなんて」



――あんなに神を毛嫌いしていた伊織くんが、私の説話をちゃんと聞いていてくれたんだ。


何故だろうなどと考え込む程、憂は鈍くはない。


もう答は貰っている。

途端に、伊織に抱き締められているこの状況に気恥ずかしさを覚え、憂は彼の肩を押した。


けれど、所詮か弱き『乙女』の力では、適わない。


「あの…伊織くん。
離して、ほしいな…?」

「嫌だ」

「…大声出すわよ?」

「出来ねェくせに」


え、と抵抗を止める憂。

顔を上げると、目の前には伊織の笑顔があった。

優しく、暖かく、まるで陽だまりのような笑顔。



「憂は俺を拒めねェ。
だから、止めない」

「な、んで…?」


すると、その瞬間。

憂が今まで抱えていた分厚い本が、音を立てて床へ落ちた。


「だってさ…」


パラパラと、風に吹かれてページが捲られる。


「前は俺が毎朝、憂に会いに行ってたのに。
今は、憂が俺に会いに来てくれるだろ?」


やがてピタリと止まったページには、一つの栞が挟まれていた。

四つ葉のクローバーが押された、憂の栞が。




「だから憂もきっと、俺のこと好きになるよ」

「――…っ!!」


好きに…。

伊織くんを、好きになる?

『祝福の乙女』である私が、異性を愛するの…?



「憂、好きだ」

「伊織くん…」

「お前だけが、好きだよ」


頬に手を添えられ、そっと唇が重なる。

以前のように乱暴な口付けではない。


伊織の心が直に伝わってくるような、優しいキス。

だからこそ、それが余計に辛かった。



…――拒絶しなければ、

いけない、のに――…





彼の真っ直ぐな想いが、痛いくらいに全身を包む。


抗えない。

逆らえない。



そして憂は、

ゆっくりと彼の背に腕を回し、

瞳を閉じた。












 ――おや?


 何故ここで
 手を休めるのですか?


 物語はまだ、
 終わっていませんよ。




 此処で終わらせたい
 という気持ちも、

 分からなくはないの
 ですがねぇ…。





 きっと、貴方が今
 止めているページこそ

 彼らが一番
 幸せだと感じている
 瞬間でしょうからね…




 ――けれど、幸せは
 永遠ではありません。


 この物語の結末で、
 彼らが笑っている
 という保証も無い。




 それでも、

 貴方は先を読みたいと
 願うのですか――?







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あきゅろす。
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