┣╋CENTURIA╋┫
知らぬ君を、識る時
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この日は、最近では珍しい曇り空だった。
自室で書類の整理をしていた憂は、その余りに暗い空に気付き、思わず手を止めて窓の外を見つめている。
そういえば、天候が悪化する危険があるため、港の漁師達に厳重な注意を呼び掛けていると、老司祭が話していたことを思い出した。
「イヤ〜な天気ですねぇ。
降るなら降るでハッキリしてほしいですぅ」
「そう?曇りの日も私は好きよ」
じめじめした湿気にうんざりする雪菜とは対照的に、憂は清々しい笑顔を浮かべていた。
すると雪菜は、ふと思い出したように口を開く。
「そーいえばあのガキンチョ最近見掛けませんね。
朝礼にも来てないみたいだし…どうしたんでしょう」
「…さぁ?早起きが辛くなったんじゃないかしら」
あの日以来、伊織は教会に姿を見せなくなった。
この三ヶ月間欠かさずに参加していた朝礼にも、もう五日来ていない。
「まぁ…別にお祈りは本人の意思でするものですから、無理に来る必要はないんですけどね。
…でも、な〜んか調子狂いますぅ」
「あら雪菜、心配なの?」
「そんな訳ないじゃないですかぁ……って、あれ?
憂様は気にならないんですかぁ?」
首を傾げながら、雪菜は憂を見つめる。
彼女は口を動かしながらも書類の整理を終えたらしく、部屋を出て行こうとしている所だった。
「…棗先生の所へ行ってくるわ。後はお願いね」
「あ、はい…」
静かに閉まる扉を見つめながら、雪菜はぽつりと呟いた。
「憂様……ヘン」
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アルコールの匂いが充満する密室。
そこは本来バーとして営業しているのだが、深夜ともなれば若い浮浪者の溜り場となっていた。
陽が昇った現在も、数名の若者達が酒を煽っている。
「…飲み過ぎじゃないっすか、伊織さん」
本来バーに出入り出来る年齢には達していない筈の零が、そう言って言葉を濁した。
彼の注意は耳に入っているのだが、伊織は変わらずカウンターで肘を付きながら、酒を勢い良く飲み干す。
「チームに戻ってきてくれたのは嬉しいけど…、なんか伊織さんおかしいよな」
「集会に来てもずっと酒飲んでるだけで話し掛けにくいし、これじゃ前の方がマシだよ…」
ふと、背後から聞こえた少年達の小さな話し声。
噂の張本人である伊織はゆっくりと椅子から立ち上がり、彼らの元へ歩み寄った。
「…今、なんつった?」
「い、伊織さんっ!?」
気付けば少年達の目の前に立つ伊織の表情は、これ以上なく機嫌の悪いものだった。
――ガッシャアァァンッ!!!!
「伊織さんっ!!?」
零の制止も聞かず、伊織は少年の一人を殴り倒した。
その拍子に机が大きな音を立てて倒れ、グラスやビンが粉々に割れる。
「なぁ…俺の話、してたんだろ?」
「ち、が…っ」
――バキッ!!
倒れた少年の上に跨がり、伊織は拳を叩きつけた。
その他の少年達は、恐怖に染まった表情でその光景を見つめる。
少年が許しを乞いても、伊織は止めなかった。
口が聞けなくなるまで、何度も何度も少年の顔を殴った。
「その辺にしとけ、伊織」
ピタリと、伊織の拳が止まる。
既に血だらけとなって動かなくなった少年の上からゆらりと立ち上がると、声のした方へ顔を向けた。
「はは、すげぇ顔。傑作だな」
いつの間にかカウンター席に座り、グラスを片手に笑う青年。
彼こそこのチームのリーダー。
珠桜剣(スオウツルギ)だった。
『リーダー、お早うございますっ!!』
「おう、おはようさん」
伊織以外の全員が、彼に向かって一斉に礼をした。
苛立ちが納まらない様子の伊織に向かって、剣は手招きをする。
小さく舌打ちをしてから、誘われるがままカウンター席に着いた。
するとチームの一人が怖ず怖ずと声を上げる。
「あの…剣さん。
こいつ、どうします?」
こいつ、と呼ばれたのは、伊織に殴られて顔を血塗れにされた少年の事だった。
「ん?生きてんのか?」
「は、はい。息はあります」
「んじゃ鎖切って、どっかに捨ててこい」
それだけ言い放つと、剣は興味無さそうにグラスを取った。
“鎖を切る”というのは、チームの証であるウォレットチェーンを取り上げるということ。
それは即ち、チーム追放を意味してた。
次期リーダーとして期待されている伊織の機嫌を損ねたのなら、それ相応の罰だとその場にいる者達は納得せざるを得なかった。
「どーしたの伊織くん。
最近ご機嫌ナナメみたいじゃなーい?」
「…別に」
茶化すような剣の言葉を気にも止めず、伊織は改めて酒を飲み始めた。
「まぁ俺としては伊織がチームに戻ってくれば何でもいいけどね」
そう言って剣はニコニコと機嫌が良さそうに笑い、空になった伊織のグラスに酒を注いだ。
「最近どーしてたの?
集会来れないくらい忙しかったんか?」
「………」
「あ、もしかして…“家”に帰ったとか?」
――バンッ!!
突然、伊織は勢い良く両手でカウンターを叩いた。
グラスの中に積まれた氷がカラカラと音を立てて崩れる。
それでも剣は動じる事なく、ニヤニヤと余裕の笑みを浮かべていた。
その表情に更なる苛立ちを覚え、伊織は無言のまま席を立ち、店を出ようとする。
「明日の夜、一戦やる」
背後から聞こえた剣の声に、ドアノブに掛けていた伊織の手が、ピタリと止まる。
「来いよ、伊織?」
その言葉に応える事なく、伊織は店を後にした。
――――――
「…困りましたね」
教会の医務室では、棗がいつものように憂の診察を行っていた。
患部の状態を見るなり、棗は深刻そうに溜息をつく。
「憂様、何故もっと早く言わなかったのですか?」
「…すみません、最近とても忙しかったので」
「ご自分の御身体の事は、貴女が一番良くご存知でしょう」
神から授かったという祝福の力の副作用。
それは憂の身体を蝕み、心臓の辺りから徐々に黒い痣が出来るものだった。
その痣が、今は鎖骨から腹部にまで広がっている。
それは、症状の悪化を意味していた。
「効くかどうかは分かりませんが、取り敢えず鎮痛薬を塗っておきます」
そう言って憂の患部に薬を付けようと手を伸ばす。
――バッ!!
「っ…自分で、やります」
咄嗟に憂はその手を払い除け、襟元を正した。
それは、今まで決して棗の治療を拒まなかった憂が見せた初めての抵抗。
棗は驚いたように瞳を見開いた。
「…す、すみません…」
ハッと我に返り、憂は俯く。
その態度で、勘の鋭い棗はやっと気付いた。
数日前、突然倒れた憂を抱き上げて医務室の扉を蹴り飛ばした少年。
酷く苛立った様子の彼の前で、憂の衣服に手を掛けた途端、思いきり殴られたことがあった。
『気安く触ってんじゃねェよ!憂は俺のモンだ!!』
棗は確信した。
彼女の態度の変化に、あの少年が大きく関わっている、と。
「そういえばあの少年、最近は顔を見せないらしいですね」
適量の薬を処方箋として憂に手渡す際に、棗がふと言った。
彼の想像通り、憂が驚いた表情を見せる。
「あ、はい…。そうみたいですね」
「まぁ彼の場合、お忙しい身のようですからね。
あまりフラフラしている訳にもいかないのでしょう」
何かを知っているような棗の口振りに、彼女は瞳を見開く。
「棗先生…?」
「彼も、まだお若いのに大変な苦労をなされているようですね…。
まぁ所詮僕のような庶民はとてもお近付きになれませんし、関係ありませんが」
「っ、棗先生!!」
憂は思わず大声を上げ、話を制止した。
棗は変わらず穏やかな表情で、彼女を見つめている。
「はい、どうしました?」
「…棗先生は、伊織くんをご存知なんですか?」
「勿論、知っていますよ。
彼は巷では有名人ですからね」
棗の言葉に動揺を隠せない様子の憂は、思わず息を呑んだ。
――伊織くんが、有名?
「憂様は彼の事をご存知ないのですか?
毎日、会っていたのに?」
――三ヶ月間、毎日顔を合わせていたのに…。
「彼の家、奏芽家はこの街一帯の土地を所有する領主…。一流貴族の家柄です」
――“知らなかった”んじゃない。
ただ、私が。
「奏芽伊織は、れっきとした奏芽家の第一子爵なんですよ?」
――彼を、
“知ろうとしなかった”だけなんだ。
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