風を切って歩け
同日
〇
橘 庄司は人込みの中を歩いていた。
時刻は17時50分。
庄司は自身の携帯の示す時間に多少の焦りを覚えていた。伊中との約束の時間まで後10分程度しかない。本来ならば商店街の入口から金平亭までは5分もあれば余裕で到着する距離だ。
ただ、ハロウィンという事で如何せん人が多い。
本当は少し走りたいのだが、それはどうしたって無理だ。というか、人間が多すぎて思ったように前に進む事すら困難なのである。
これまで、ハロウィン当日の夜は若者達で駅前が大いに盛り上がる事はニュースで知っていた。しかし、これほどまでとは、全くもって予想外だ。
あちこちで湧き上がる歓声なのか、怒声なのか、悲鳴なのか。
その状況は最早カオスと言ってよかった。商店街の入口では複数名の警官たちがスピーカー片手に何かアナウンスをしているが、それすらよく聞こえない。
「若さって……すげぇ」
思わず感嘆の声が漏れてしまう程に、そこには若いパワーの渦が出来上がっていた。
庄司が人込みを少しずつ掻き分けながら、前へ前へと必死に向かう。しかし、どうも人が多すぎて前へ進んでいるんだか、どこへ進んでいるんだか分からなくなってしまった。
庄司がどうしたものかと辺りを見渡すと、どうやら商店街の端の方は多少人が少ないように見える。
前に進むにしても人が少ない方が進みは早いだろう。
そう思い、庄司は一旦前へ進むのを諦め人の少なそうなその場所へと体を人込みへと滑りこませて進んでいった。あそこまで行ったら一旦、伊中へ少し遅れると連絡しよう。
そう、やっとの事で人の少ないその商店街の一角へたどり着いた時だった。
「(おぉ……!)」
庄司の前を真っ赤な髪を靡かせた若者が歩いていた。黒を基調とした服装に妙に合ったその髪色は、後ろ姿ながら一際目を引く。
それは髪色が派手だからという理由だけではなく、どこか彼の放つオーラが他の者とは一線を画する何かを放っているからに他ならなかった。道理でこの場所だけ人が少ない筈だ。自然と彼の周りからは邪魔にならぬようにと人々が一歩引いて歩いている。
「(すげぇ……!)」
庄司は虎の威を借りた狐のような気分で、そんな彼の後ろを歩かせてもらう事にした。これだったら、時間に間に合うように金平亭に到着出来るかもしれない。
「(それにしても、かっけぇな)」
赤い髪色。
その髪色は庄司が学生時代、大好きだったバスケット漫画の主人公のようで、見ていて心底ワクワクした。あの髪色を現実世界でここまで違和感なく体現できる人間が居るとは。
後ろを歩いているせいで、どうにも顔が見えないが、きっと顔を見てガッカリするタイプでない事はその凛としたオーラが証明している。
庄司がどこか見惚れながら赤い髪の若者の後ろを歩いていると、急にその脇で「きゃっ」という短い女性の悲鳴が上がるのを聞いた。思わず悲鳴のする方を見ると、その瞬間庄司は目を疑った。
そこには、まごうことなき“あの日”庄司の目の前で女性に痴漢をしていた中年男性が、またしてもこの人込みに乗じて若い女性の体を触れている光景だった。
その女性は、仕事帰りのOLのようで、明らかに仮装を楽しむ若者達とは全くその様相が異なっている。
自身の体に触れてくる手が、明らかにその中年男性から向けられているものだと察しつつ、この雑踏の中である。先ほどの短い悲鳴もそうだが、普通に声を上げた程度では、この状況下で助けを呼ぶのはなかなか困難であろう。
只でさえ、痴漢の被害者というのは声を上げにくい体質を持っている事は、庄司もあの時、大いに理解できている。やはりこの女性もそれ以上大きな声を上げる事が出来ず、そのまま口を噤んでしまった。ただ、その表情は恐怖と嫌悪に満ちており、どうにか早くその場を去りたいと画策しているようだった。
「(常習犯かよ……)」
庄司は先ほどまでの赤髪の若者に向けていた、純粋なワクワクが一気に穢されたような心持になると深い溜息を吐いた。その中年男性は恐怖に塗れる女性の表情に更に気をよくしたのか、またしてもその手を女性の下半身に向けようと手を伸ばした時だった。。
「おい」
静かな声が、庄司の耳に響く。
この人込みにあって、その声はどこまでもまっすぐ庄司の耳に届く。どこかで聞いたような気のする声だ。
庄司がふとそんな事を思っていると、目の前の赤髪の若者は静かに中年男性の方を見ていた。その視線はどうやら庄司同様彼の手元へと向けられているように見える。
「おい、お前だよ。おっさん、やめろ」
「っな、なんだね!?キミは」
まるでヒーローだ。
庄司は中年男性の愚行を、なんの気のてらいもなく止めてみせた若者に、みなぎる少年漫画心を擽られるのを感じた。
あの日、庄司自身がこんなにも颯爽と痴漢を止める事など出来なかった。あのやり方が庄司の精一杯だったのにも関わらず、この目の前の赤髪の若者はなんだ。どこまでも、凛としてヒーローそのものではないか。
「どけ」
「急に!なんなんだ!君は!」
しかし、中年男性も引く様子はない。あの時もそうだったが、この男は自身の不正を暴かれそうになると窮鼠猫を噛むがごとく立ち向かってくる。それだけ社会地位的にも、痴漢などもっての他な愚行だという事は、本人もよく理解しているのだろう。にも拘わらず常習化しているという事は、最早救いようがない。
「邪魔だっつってんだよ」
そう、赤髪の青年は感情の籠らない声で言うと、軽く中年男性の肩を押した。
その行為に、庄司は思わず眉を顰めた。それはいけない。手を出してはいけないと、清廉潔白な事を言いたいのではなく、その行為によりこの瞬間、若者はズルい大人へ付け入る隙を与えてしまった。
「何をするんだね!」
その庄司の思考は大きく当たっていたようで、その中年男性は派手によろける振りをすると、その途端大袈裟に騒ぎ出した。
「暴力だ!この青年に、私は暴力を振るわれた!誰か!警察を呼んでくれ!」
「…………」
なんと大袈裟な。
しかし、こう言った事は先に言った者が勝ちとはよく言ったもので、騒ぎ始めた男性に周囲は一気にザワつきだした。周囲の人間が目にする光景は、こうだ。
一見すると身の正されたサラリーマンの男性。そしてその相手に立ちはだかるのは、髪の毛を真っ赤に染め上げた一見すると不良と呼ばれがちな若者。
只でさえその見た目からして、赤髪の若者には分が悪いというのに。
そんな中、赤髪の若者は騒ぐ中年を前にその顔を静かに俯かせた。それに気を良くしたのか、中年サラリーマンは更に一歩詰め寄り大騒ぎを続ける。しかし、その瞬間静かだった赤髪の若者の目に色が宿った。
怒りという、その髪にお似合いの色が。爛々と。
「だから、どけっつってんのがわかんねーのか!」
「っなんだね!誰か!警察を!」
そう若者が怒声を響かせた瞬間、タイミングの悪い事にこの騒ぎを聞きつけ本当に警官が来てしまった。ハロウィンという事で、いつもよりも多くの警官がこの商店街へと配備されていた事が、この件に関しては完全に裏目に出てしまっている。
庄司からすればこの素早い対応とも思えるべき警官の登場は、正直圧倒的に遅いとしか言いようがない。
「どうしたんですか!」
「この若者が急に私に暴力をふるってきたんだ!」
いつの間にか庄司の周りには騒ぎの渦中の二人を囲むように野次馬が集まってきていた。更にはお祭り騒ぎの野次馬達によるカメラが容赦なくカシャカシャと音を立てている。既に被害に遭っていた女性も、その騒ぎに乗じていつの間にか姿を消していた。
その間も、赤髪の青年は怒りを抑えられぬような表情を湛え、ただしかし、その視線は常に下を向いている。
そんな若者の姿に、庄司はあの日の自身を思った。
目の前の愚行が許せず、普段ではまるでやらない事に勇気を出してやってみた。けれど、結果そこに残ったのは奇異の視線と、助けた女性からの無関心を装い逸らされる視線。単なる自己満足に過ぎない行為だったとしても、あの時の庄司の心の荒むような気持は言い知れないものがあった。
ただ、あの時。たった一人の一言が庄司の心を救った。
『(お見事、若人)』
あの時のニヤリと笑ったサラリーマンの言葉が、庄司の自己満足と自尊心を救った。見てくれている人は、確かに居たという事実。そこからくる満足感。あれがなければ、庄司の有給は、きっとこんなに満足のいくものにはならなかった筈だ。
この若者は確かに凛としている。その真っ直ぐな救い方はヒーローを思わせる。
ただ、それならこのヒーローたる真っ直ぐな若者は、誰が守る。
腐った大人から守ってやれるのは、やはり、同じく何も出来ずに見ているだけだったズルい大人しか居ない。
あの時のサラリーマンを、今度は自分がしてやらねばならない。きっと、その為にあの日の自分が居たのだから。
警察と中年男性に詰め寄られ拳を握りしめる赤髪の若者に、庄司は一気に空気を吸い込むと心を決めた。今、庄司はスーツを着たサラリーマンのコスプレをしている。この格好は、そう、“立派な”大人のコスプレだ。
「俺、見てましたよ」
庄司はいつもよりも倍、大きな声を上げると仮装する大勢の人々の注目する輪の中に、気持ちを奮い立たせ割って入った。この1週間、過去の自分の仮装をするという人生の脇道に逸れる前の庄司であれば、きっと見て見ぬ振りをしたであろう。
仕事終わりで、体はクタクタ。しかも、明日からは普通にまた1週間が始まってしまう。けれど、庄司は声を上げた。
宮古との待ち合わせには多少遅れてしまうかもしれないが、それは後で十分に謝ろう。今は目の前の若者を優先させなければ。
そうでなければ。
「(伊中にも合わせる顔がない)」
珍しく、この時は制服姿の高校生の自分と、スーツ姿のサラリーマンの自分が同時に叫んでいたのだ。
『『行け!』』
そう、心の声に従う。
庄司は人々の注目を一身に浴び、一歩前へと踏み出した。
橘 庄司は風を切って歩いたのだ。
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