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風を切って歩け
同日




       〇





山戸 伊中は悩んでいた。


隣には同じく難しい表情を浮かべる坂田の姿。
現在、二人は伊中の自室に居た。そして、その二人が同様に見つめる先には、伊中の兄である山戸宮古の部屋があった。

「ねぇ、坂田。隣からウンともスンとも音がしないんですけど」
「あぁ、そうだな」

伊中は未だにその頭髪を七色に輝かせたまま「うーん」と頭を抱えた。その髪色は時間が経つにつれ、更に色が抜け明るさを増し始めている。本来であれば、この日は朝から宮古の通っているという美容室に連れて行ってもらう予定だった。しかし、それは正午を過ぎた現在も尚、未だ叶わずにいる。

「いやね、宮古があんなに落ち込むとは思わないじゃん?」
「橘庄司がまさか、在校生じゃなかったとはな。確かにあのプレゼン力は高校生あるまじきものがあったが」
「……ていうか、坂田がいけないんだよ?あの写真を見て『橘庄司はもしかしてもう死んでるんじゃ……』なんてアホみたいな仮説を立てるから!おかげで宮古が本気にしちゃったんじゃん」
「いや、本当に悪かった。まさか、あんなに信じ込むとは思わないだろう」

そう、前日の生徒会室での一件から、宮古のテンションは明らかに急降下した。それもこれも、坂田の『あの橘庄司は未練を残して死んだ生徒会長の残留思念だったのではないか?』という、急に感情を揺さぶる切ないホラーミステリーを語り始めたのが全てのきっかだった。
その後、二人からの盛大なるフォローも空しく、宮古は表情こそあまり大きく変化させる事はなかったが、その背中に大層な悲壮感を残したまま家路についたのであった。

「いや、今はね。ほんとソッとしておいてあげたいのは山々なんだけどさ、俺もこの髪抱えて生きていくわけにもいかないし……」

そうなのだ。伊中は最後に見た“しょんぼり”を全身全霊で体現するような宮古の背中に、この日1日はそっとしてあげたいのだが、如何せん事は急を要する。今日こそは宮古行きつけの安心と信頼の美容室へ赴き、黒染めをせねば明日からの学校生活に大いに支障が出るのだ。

「今後どころか、明日からはお前に来てもらわないと困るぞ。あらかたの仕事は木曜に橘と終わらせたからいいが、例の件についてはお前と俺で進めないと」
「残留思念が聞いて呆れる仕事量だよ……。っていうか!俺だって早くこんな髪からおさらばしたいよ!」
「……仕方がない。俺が染めてやろう」
「嫌だ!坂田、絶対失敗しそうだもん!お前、髪なんて染めた事なんてないだろ!」
「まぁ、そうだが……他の色ならいざ知らず、黒だぞ?全ての色の行きつく先である黒に、失敗なんてあるか?」
「その考えこそが既に失敗臭を漂わせてる!もう素人にだけは俺の髪の毛は触らせん!」

伊中は昨日から宮古に借りたままになっている帽子を深く被ると、坂田から一歩後ろに退いた。これ以上、自身の髪の毛や頭皮に無駄なダメージを負わせる訳にはいかない。

「あと1時間待とう。それまでに宮古が部屋から出て来なかったら、もう悪いけど部屋に乗り込むしかないね」
「そうか……」

明らかに残念そうな表情を浮かべる坂田に、伊中はあの日、自身の髪の毛を七色に染めてきた不良達と同じ匂いを坂田に感じた。
坂田は口調も固く眼鏡姿で一見大いに真面目そうに見えるのだが、随所に“こういう所”がある。

楽しそう、面白そう。だったらやってみようではないか。という方程式に忠実に従う。思慮深そうに見えて失敗も成功も余り念頭に入れていないのだから、まったくもって油断ならない。
しかし、だからこそ坂田と過ごしたこの3年間で、伊中の無謀とも言えるような発案にも坂田が「否」を唱えた事は一度もなかった。二言目には「そうか、お前が言うならやってみるか」と、特に思案する事なく背中を押して共に走ってくれた。

もうすぐ終わりを迎えてしまう高校生活のその全てにおいて、自信をもって楽しかったと言えるのは、この坂田の存在が大きいのは言うまでもない。
すると、先ほど坂田が庄司のプレゼンに対し「高校生とは思えないプレゼン力」と称していた事をふと思い出した。なんだか無性に面白くない。

「なぁ、坂田」
「なんだ」
「橘庄司って、どんな人だった?」
「……それは昨日から何度も話したと思うが」
「違う。坂田、お前がどう思ったかが知りたいんだ」

伊中の言葉に坂田は「ふむ」と顎に手を当てると、何かを思い出すように目線を彷徨わせた。そんな坂田の様子に、伊中は思わずゴクリと唾を呑む。一体、自分が何にこんなに緊張しているのか、伊中自身よく分からなかった。

これまで、伊中は橘庄司を“文章の中の人”としてしか見ていなかった。卒業生故、この世のどこかに実在している事は理解していたが、それでも実際会う事のない人物の筈だった。だからこそ、伊中は橘庄司相手に純粋な“憧れ”を抱く事ができたのだ。強いていうなら、漫画の好きなキャラレベルの感情である。

しかし、その本の中の登場人物だった人物が伊中の生きるフィールドに突然躍り出て来た。そうなると、少しだけ話が違ってくる。純粋な憧れだけで、その気持ちは形成されなくなってしまった。とりわけ、自身が最も信頼を置いている坂田が彼をどう思ったのか。
伊中はそれが妙に昨日から引っかかって仕方がなかった。

「そうだな……橘は生徒会全員分のスペックを持っている」
「……優秀だったんだ。やっぱり」

嫉妬。
その言葉がはっきり脳裏に過る。他でもない坂田の口から語られるのが、自分以外の優秀な生徒会長なんて許せない。伊中は自分が言わせたにも関わらず、徐々に聞かなければよかったと本気で思った。

「と、自分で言っていた」
「は?」
「けれど、どちらかと言えば橘は、チェック業務は苦手なようで、会計的な能力の部分はやや落ちる」
「あ、あぁ」

いや、そういうステータスの数値的な事を聞いている訳ではないのだが。しかし、坂田の勢いは留まる事を知らずツラツラと“橘 庄司”の能力パラメータを細かく分析し述べていく。いや、だから、聞きたいのはそういう事ではないのだ。そう、どこかで止めなければと伊中が口を開こうとした時だった。

「特に生徒会長として言うならば、圧倒的に伊中の方が上だ。企画立案、そして他者への統率力、どれを取ってもお前の方が完璧に上回っている。だから、あの言葉は完全に自己評価が過ぎるな。やっぱり俺はお前以外の生徒会長なんて考えられない」
「…………」

先程のパラメータをツラツラと述べる、まさに同じテンションでなんて事なくそんな事を言うものだから、伊中は思わず閉口するしかなかった。そして、それを言う坂田の耳が多少なりとも赤みを帯びているのを見ると、どうやら恥ずかしいのを我慢して言葉にしてくれたらしい。

『坂田は伊中の事が好き過ぎて気持ち悪いから友達じゃない』

そう、宮古が言っていたのを思い出した。どうやら、余り不安に思う事などなかったようだ。
しかし、面と向かってこんな事を言ってくれる坂田が珍しく、伊中はもう少しだけ意地悪をする事にした。

「けど、例の件を通せたのは橘庄司あってこそでしょ……俺なんか」

少しだけ俯いて、落ち込んだ素振りを見せる。すると、坂田は焦ったように身を乗り出し、伊中の肩をガシリと掴んだ。その手は異様に熱く、伊中は思わず体を揺らした。

「何を言っている。お前だって月曜に直談判に行っていたら橘のように話を通す事ができた筈だ。たまたま金曜に橘が良いところを持って行っただけで、お前でもきっとやっていた。伊中の方が凄い。橘も言っていた、この企画はどこを取っても素晴らしいと。俺だってそう思う」

自分から仕掛けた意地悪だった筈なのに、坂田のまっすぐな言葉にどんどん体の内側が熱くなるのを感じる。
あぁ、そうか。伊中はやっと理解した。ちょっとした意地悪のつもりだったが、坂田の口から「橘庄司よりもお前の方が凄いんだ」と最初から言ってもらいたかっただけだったのだ。

「…………」
「どうした、伊中」

初めて坂田からこんな事を言われた。しかし、それは初めて伊中が坂田に弱音を吐いたからに他ならなかった。二人はいつも放課後になると競って肩を並べ、生徒会室へと駆け抜ける、そんな二人だった。
友達であり、仲間であり、相棒であり、ライバルであり。
坂田は伊中の中にある関係の数多くの役割を担っている。

あぁ、なんてことだ。坂田はこの3年間で、伊中にとってここまで必要不可欠な存在になっていたとは。
伊中は沸々と湧き上がる感情に、どうしようもなく顔が熱くなるのを止められなかった。どうしようか。このままではこの熱が坂田にバレてしまう。

そう伊中が思った時だった。

「お前ら、何やってんだ」

バンと、容赦なく部屋の戸が開け放たれた。
そこに立っていたのは、伊中が心待ちにしていた人物。兄の宮古であった。その顔はどこか憮然としており、ノックという概念が宮古の前では一切存在しない事を如実に表していた。

「なんで、ここに坂田がいるんだ」
「宮古か、やっと来たな。伊中が髪を染めるっていうからついて行こうかと思っている」
「お前、伊中大好きだもんな。キモチワリ」
「昨日、橘の件であれほど落ち込んでいたお前に言われたくないんだが」

そう、目の前で軽快に交わされる会話。伊中はその瞬間を見計うと、溜まった熱を放出するように頭を左右へと振った。あぁ、命拾いした。ちょうど良い所に宮古が来てくれた。そう思った矢先。

「伊中。お前、顔真っ赤だぞ」
「お前滅びろよ!?」
「なんでだよ……てか、その帽子返せ」

言うや否や、宮古は容赦なく伊中の身に着けていた帽子をはぎ取り、流れるような動作で自身の頭へ被せた。

あぁ、命拾いして、またすぐに命を捨てる羽目になった。しかも、わざわざ明言してくるのだから更に性質が悪い。捨てるどころかトドメを刺されてしまったではないか。お陰で、坂田からの視線が今や突き刺さるように伊中へと向けられている。

伊中はその視線を大いに無視すると、その苛立ちをぶつけるように宮古へと食ってかかった。

「いや、帽子とかは最早どうでもよくって!それよりも大事な事があるだろ!」
「なんだよ」

本気で訳が分からないと言った表情を浮かべる宮古の姿は、昨日とはうって変わってケロッとした様子だった。

「美容室!宮古が行ってる所に連れて行ってくれるって約束しただろ!」
「あ?別に忘れてねぇよ」

そう言う宮古の格好は確かに出かける用意は出来ているようで、しっかりと着替えが済んでいる。

顔は全くもって普段の伊中そのものなのだが、好む洋服の種類が異なる為、制服という決まった装いから一歩離れると、二人はまるで別人のようだった。
カーキやベージュといった柔らかい色合いのシャツやパンツを好む伊中とは異なり、宮古の服装の基調は黒だ。今は伊中を模して髪色を黒にしている為、地味に見えるが普段の彼の髪色を考えると、十分にバランスの取れた格好となる。

「俺もお前と一緒に髪、戻すから」
「宮古は黒のままでもいいんじゃない?」
「これは……俺じゃない」

そう、宮古の普段の髪色は黒ではない。赤だ。
そして、互いに髪色が戻れば、最早この二人を双子だと見間違う人間も居なくなるだろう。所詮、人間の見た目などは着飾り方で大いに変化するものだ。その着飾りこそが、個人の在り様を大いに形作るものであるのだとすれば、確かにこの1週間、本当の意味で自分達は入れ替わっていたのだと、伊中は改めて痛感した。

それを、世間がハロウィンだ何だと騒ぎ立て、仮装して練り歩くこの日に解くのだから、皮肉と言えば皮肉なものである。

「15時に予約してあっから、どっかで飯食っていくぞ」

そう言って軽く欠伸をしてみせる宮古に、それまで黙って様子を見ていた坂田が眉を顰めて口を挟んできた。

「宮古、橘の事はいいのか」
「…………あぁ」
「いや、待て。お前のような不器用なヤツがこんなに一気に立ち直れるとは思えん」
「……なんだよ」

坂田の詰問に宮古は珍しく言い淀む。加えて坂田からじわりと目線を逸らす始末。そんな宮古の様子に、伊中も沸き立つ興味を抑える事が出来ず坂田の援護射撃に入る事にした。美容室が予約済なのであれば、伊中の懸案事項は無くなったと言ってもいい。心置きなく普段では見れない兄の姿を楽しめるというものだ。

決して先程の事根に持っている訳ではない。決して。


「橘庄司から連絡でもきた?」
「……きてない」
「はい、嘘。宮古、俺を舐めないでよね。何年宮古と兄弟やってると思ってる?」
「18年」
「その即答いらないから」

明らかに話を逸らそうと下手くそな話題転換に挑む宮古に、伊中はニヤける顔を止める事ができなかった。本当に、こんな宮古は初めて見る。話すのが苦手な癖に、それを伊中相手に誤魔化そうと必死になるなんて。挙句に「よく寝たら、忘れた」などと言い張ってくるのだから、言い訳の仕方が小学生並みである。

「今日、橘庄司と遊ぶの?」
「……あそばない」
「はい、嘘。遊ぶのが俺にバレたら会わせろって言うだろうと思って隠してるんだ」
「…………」
「ほーら、図星だ。宮古の考えてる事なんて全部お見通しなんだよー!」

そう言って愉快愉快と兄の背を叩く伊中に、宮古は表情からスンと色を無くすと、持っていた携帯を手早く操作し次の瞬間ソレを耳に当てた。

「山戸です」
「え、なに?急に何どこに電話してるの?橘庄司?」
「さっきの予約、2名から1名に変えてください」
「わーーーーー!ごめん!ごめんて!ごめんなさい!もう言いませんから!」

明らかに美容室にキャンセルの電話を入れ始めた宮古に、伊中は先ほどまでの余裕の表情を一気に消し去り、宮古に土下座せん勢いで縋りついた。そんな兄弟の悲喜こもごもを、一人っ子たる坂田はどこか興味深い気持ちで見つめていた。

「宮古ごめんー!もう橘庄司については突っ込まないから許して!」
「言ったな」
「うん……へ?」

急に、何も映っていない自身の携帯画面を目の前に突き出してくる宮古に、伊中は一瞬で理解した。どうやら謀られたようだ。電話自体、どこにもかけていなかったらしい。宮古にしては迫真の演技であった。

「宮古の癖に!どこでそんな駆け引きを教わった!?橘庄司か!」
「今度は本当にかけるぞ」
「すみません!もう触れません!」
「約束は守れよ」
「くっそう!」

伊中は「くう」と悔し気に拳を握りしめると、口喧嘩で初めて兄に負けたという絶妙な初体験に、傍に立っていた坂田を代わりに何度も叩き、その憤りを発散した。悔しくて仕方がない。

「兄弟喧嘩は見ていて面白いな。興味深い」
「……これだから一人っ子は」

坂田の楽し気な様子に伊中は肩をすくめると、いつの間にかこちらに背を向け「メシに行くぞ」と部屋を出ていこうとする宮古の背中を目で追った。

本当はこの頭で外食などは避けたいのだが、幸か不幸か今日はハロウィンだ。きっと町では、夜にかけて仮装した人間が増え始めているであろう。伊中はこれが最後の仮装だと、その躊躇いにケリを付けると、ごきげんな髪色に習い、少しだけ胸を躍らせて歩くことにしたのであった。



         〇




山戸 宮古はニヤけていた。


そして、それがバレぬよう静かに右手で口元を覆う。

現在、宮古は伊中達と共に駅前の一番商店街の中にあるファミレスで昼食を摂っている最中であった。
圧倒的な男子高校生の食欲の元、グラタン、パスタ、かつ丼、ハンバーグという凄まじいタッグを組んだ料理たちをペロリと平らげた宮古は、未だにせっせと食事をする二人を黙って待っていた。

予約時間まではあと30分程度。
美容室はこの近所であるため、このペースならば余裕で間に合うだろう。

そんな訳で二人を待つ間、宮古は何気なく庄司からのラインを開いた。本当に、なんの意味もない。ただ、何気なく漫然と一番上にあった庄司とのメッセージルームを開いてしまっただけだ。

「(……なんの言い訳だよ)」

宮古は思わず自身へと突っ込んでしまったが、ともかく他意はない。そして、庄司からの新着メッセージがない事は分かっていたが、そのせいで今朝がた庄司から送られてきたメッセージが一番最初に視界に入る。




----------
俺も、早く会いたい
----------



その瞬間が冒頭の彼である。

食事中で、しかも隣に座る坂田と話しているとはいえ、目の前は弟の伊中だ。
伊中はとてつもなく勘が良い為、こんなニヤけた顔を見られたのでは、また先程のように「橘庄司から連絡でも来たの?」と問い詰められかねない。

あの時はどうにか美容室の予約を人質にその場の難を逃れたものの、もう伊中に図星を突かれたくない。これ以上、伊中相手に隠し事をできる自信はまるでないのだから。

「(ひとまず、今日どこで会うか決めとくか)」

そう、宮古が庄司に改めてメッセージを送ろうとした時だった。


「お前マジだっせーな!」
「オメーが言うなっての!」
「ぎゃははは!」


ファミレスの入口から、明らかに迷惑な大音量で会話しながら入ってくる若者数名が店内へと入ってきた。その途端、他の客も店員も一瞬迷惑そうな表情でチラと視線を向ける。しかし、声をかけて注意すると明らかに面倒が起きそうなタイプである事は火を見るよりも明らかだ。

故に、店内に居る誰もがその若者達からフイと視線を逸らしていく。
それは、伊中と坂田も同様で、一瞬だけ気を取られたようだったが、すぐに会話に戻った。ただ、どうしても響き渡る彼らのうるさい声に、店内の誰もがその胸中に多少の苛立ちを覚え始めていた。

そんな中、宮古だけは違った。

「(あいつら……)」

彼らは、そう見覚えがある。伊中と入れ替わった初日に宮古をコンビニ前でボコボコにしてきた者達だ。あの時見た制服からすると、彼らは紀伊国屋でも蔦屋でもない。

「(どこの制服だ?)」

思案してみるが、そこまで近隣校の制服事情に明るくない宮古では答えに辿りつけそうもなかった。宮古は小さく「どこでもいいか」と呟くと静かに席を立った。予約時間まであと20分という所だ。問題はない。
そうやって明らかに面倒事を起こそうとする宮古に、待ったの言葉をかけたのは伊中だった。

「ちょっ、宮古。や、め、ろ」
「何を」
「あいつらに何かする気だろ」
「うん」
「うんって……」

宮古がコクンと何でもない事のように頷くと、伊中は疲れたように溜息をついた。
そう、未だ宮古は伊中の姿を借りたままだ。その姿で乱闘など起こして、補導でもされようものなら困ると、そういう事だろう。

「大丈夫だ、ここからは出でやる」
「うるさいってだけでそんな怒らなくても」
「いや、前1万取られたから返してもらおうと思って」
「宮古、カツアゲされてたの?」
「……うん」
「まさか、これも橘庄司関係?」

またすぐバレた。宮古は心の底から「(なぜだ……)」と思いつつ、美容室の一件もあるせいかこれ以上突っ込んでこない伊中にホッと胸を撫でおろした。

「食ったら先に店行ってろ。ネイフトって名前だ。時間までには終わる」
「……宮古、ほんと。そこそこにするんだよ」
「宮古は何しに行くんだ?」

そう、箸を止める事なく尋ねてくる坂田に、宮古はどう答えたものかと思案した。
坂田は本当の宮古の正体を知らない。知らない事をわざわざ言う必要もないだろう。世の中には知らなくても良い事なんて山ほどあるのだから。宮古はそう結論付けると「さんぽ」と説明する気のない答えを残し、二人に背を向けた。

「今日ハロウィンじゃん!」
「なんかしようぜ!」
「金くれなきゃイタズラしちゃうぞ系でいくか!?」
「いいじゃんそれ!やろやろ!」

席についた今も尚、彼らの声は店中に響き渡っている。
あぁ、本当にうるさい。

「おい」
「あ?」
「ちょっといいか」

宮古はひとまず声をかけた。先ほどまで大声で話し込んでいた若者達の視線が一気に宮古へと集まる。宮古は気付いていないが、この若者達に迷惑そうな表情を浮かべていた客や店員の視線もまた、今や宮古へ一身に注がれていた。
圧倒的素行の悪い若者に立ち向かう、一見すると優等生を模したような宮古の姿は、それはそれは奇特で店内の空気を凍らせるには十分な行動だった。

「んだよ?なんか文句でもあんのかぁ?」
「……ちょっと表出ろ」
「ああ゛ぁ?」

ここで喧嘩をするなと伊中からのお達しだったが、どうやら誘い出し方を間違えてしまったらしい。彼らの内の1人が立ち上がり、既に臨戦態勢だ。
宮古がチラリと元々座っていた席を見てみれば、それはもう凄い形相でこちらを見ている伊中の姿が目に入る。

あぁ、どうすべきか。
宮古が思案し始めた時、彼らうちの一人が「あ!」と大声で宮古の事を指さしてきた。

「お前、こないだお金くれた1万円君のオトモダチじゃん?」
「おっ、確かにそうじゃん」
「あぁ、そういやあったなぁ。そんな事」
「ねぇ、俺達また金無いんだよねぇ」

そう、先に立ち上がっていた一人がニヤニヤと下卑た笑みを湛え宮古の肩に腕を回してくる。
宮古はその行為に思わず固く拳を握りしめた。正直、ここで全員殴り倒せば全てが終わって楽なのだが、視界の端に映る鬼の形相の弟はそれを許してくれそうもない。

確かにここで乱闘を起こした場合、間違いなく警察が呼ばれるだろう。もしかすると庄司にも会えなくなるかも。そこまで考えて、宮古は握りしめていた拳を一気に緩めた。

「……外出てくれたら、金渡す」
「へぇ、ここじゃ皆に見られて嫌ってか」
「ま、俺達もあんまりここだと派手に動けないからちょっと出ようか」

肩に手を回されたまま、いつの間にか宮古が連れて行かれるような形で店の入り口へと向かう。そんな彼らを、やはり周りの客や店員は無関心を装いつつ、しかし、その後の宮古の動向が気になるのか興味本位の視線をチラチラと向けていた。

「おねえさーん。すぐ戻ってくるから、あの席とっといてくださいねぇ」
「は、はい」

声を掛けられた店員もそれは同様のようで、面倒事はごめんだとでも言うようにチラリと目の合った宮古から勢いよく視線を逸らした。そうやって、店内の誰もが十分な興味を宮古へと向けつつ、表面的にはまったくの無関心を装う。
もちろん、誰一人として宮古を助けようとする者など居ない。

その様子に宮古は妙に“あの日”を思い出していた。


「(あの時と同じだな)」

宮古がコンビニ脇で、彼らから酷い暴力を振るわれていた時。
あの時も、誰もが宮古の事など見て見ぬ振りだった。帰宅中の紀伊国屋の生徒も、コンビニの店員も。
それを宮古は何とも思ってはいなかった。どうやってこの場を切り抜けようかと、そんな事をぼんやりと考えていたところに現れたのが、庄司だった。

『……えっと。お金、やるから。もう殴らないでやって』

あの日を思い出すと今でも笑えてくる。殴られていた宮古をかばうように現れたかと思えば、相手に1万円を渡し見逃してなどと言う。
庄司は決して宮古のように圧倒的強者ではないのだ。それなのに、あの時声をかけてきたのは他でもない庄司だけだった。


「そうだ、ハンカチも返さねぇと」


宮古がポツリと呟いた時には、いつの間にか宮古の足元には死屍累々な光景が広がっていた。
考え事をしていたせいで、いつどのように相手をこのような状態にしたのか宮古自身分からない。その位、骨のない連中であった。

「よわ」

この1週間、誰とも喧嘩などしていなかったが、体はしっかりと覚えていたようだった。
宮古は彼らに肩を掴まれ連れて来られた裏路地を、静かに見渡した。そこには足元で呻き声を上げる彼ら以外、誰一人居ない。
誰にも見られていないようで助かった。これで伊中にうるさく言われる心配もない。

「おい」
「っひ」

宮古は短い悲鳴を上げる一人の男に目線を合わせる為、その場にゆっくりと腰を下ろした。
どうやら、1人だけ意識を失わないように絶妙な力加減で殴っておいたらしい。宮古は自分の無意識に小さな賞賛を送ると、腰を抜かし立ち上がれぬまま宮古から距離を取ろうとする相手の髪の毛を乱暴に掴んだ。

相手の顔が非常によく見える。

「しかも、お前。庄司が1万渡してたやつだな」
「っす、すみません!すみません!」

目に涙を浮かべ表情を歪め謝り続ける相手に、宮古は「はぁ」と小さく溜息をついた。

「1万返せ」
「っい、いや」
「あの時の1万だ。さっさと出せ」

無表情。それは睨むとか怒りといった表情を浮かべるよりも、相手を多いに怖がらせるらしい。宮古の感情のない淡々とした口調に、相手は最早この世の終わりのような表情を浮かべるしかなかった。

「もう……持ってません」
「……はぁ」

だろうと思った。
宮古はその瞬間、相手の頭を片手で鷲掴みにすると、そのまま何の躊躇いもなく壁に叩きつけた。短い悲鳴の後、見事に泡を吹いて意識を失った相手に、宮古は倒れ伏す彼ら全員のポケットからそれぞれ財布をゴソゴソと抜き取った。
そこには、一見黒髪の優等生が不良達の屍から金品を奪い尽くすという、最悪の絵面が出来上がっていた。

「ご、ろく、なな、はち……」

全員の財布から一旦一枚ずつお札を取り出してみる。そして、地面に千円札を順番に並べてゆっくりと数える。お札8枚。まぁ、かき集めたとしては悪くない。あと、全員分の小銭を手のひらに乗せ同様に「いち、に、」と数え始めた宮古は、数えるのに夢中になり背後から近づいてくる男に気付かなかった。

別に、その後宮古は毒薬を飲まされ体が縮んだりはしなかったものの、声をかけられた瞬間宮古の心臓は大いに縮まってしまった。

「キミ、こんな所で何をやっているんだい?」
「っ」

あぁ、嫌に聞き覚えのある声だ。
壊れかけた古い機械のような動きでゆっくりと宮古が振り返ると、そこには“あの日”宮古を追いかけまわした警官の姿があった。

「キミは……あの時の紀伊国屋の……?」
「……いや」

しかも運の悪い事に相手もこちらを覚えているようだ。
宮古は一瞬にして次、自分が何をせねばならないか判断すると、札と小銭を自身のポケットに素早く仕舞い脱兎の如く駆け出した。その拍子に、小銭のいくらかが落ちたような音がしたが、それを拾いに行く程宮古も愚かではない。

「待ちなさい!」

あぁ、どうして今日はこうも立て続けにデジャビュに襲われるのだろうか。そう、“あの日”もこうして警官に追いかけられた。
宮古はあの時のように、一欠片も捕まる気のしない余裕の気分の中「ははっ」と短く笑った。今日はなんだか笑える。昨日までの落ち込みなど、もうまるでない。

宮古は余裕で走り抜けながら、携帯を片手に起動させた。こんな時に一体何をしようというのか。宮古は自分で答えが分かっているにも関わらず、状況と自身の行動の不一致さに、またしても笑った。


-------
俺も、早く会いたい
-------


画面に映る今朝がた庄司から来たメッセージ。
そのメッセージをこうして何度もみてしまう。こんな警官との逃走劇の最中でさえ。
しかし、ちょうどその時、庄司とのメッセージルームにまた新しい短いメッセージが追加された。


---------
↑のメッセージ、ハズいから反応するか消すかして
---------


その画面に映る文字に、宮古は更に駆けるスピードを上げると、短く返事を打った。


--------
いや
--------


宮古はちょうど良いと、警官が若干追いつくようなペースまで歩を緩め、内カメラを起動して1枚写真を撮っておいた。走っているせいで写真はブレブレだが、警官も写りこんでいるし、そのブレこそが逆に臨場感を表していて良い味を出しているのではないだろうか。

宮古はその写真をすぐさま庄司へと送信した。

本当は庄司からの反応を待っていたいのだが、写真を撮るために緩めたペースのせいですぐそこまで警官が迫っている。宮古は名残惜し気に携帯をポケットに仕舞うと、これまでとは打って変わって一気に走るスピードを上げた。



宮古のその走りは、どこかごきげんなスキップのようであった。



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