風を切って歩け
10月31日
橘 庄司は行き詰っていた。
何に行き詰っていたのか。それは彼の生活のありとあらゆるものに、とりわけ仕事にであった
訳ではなかった。
『……あぁ、どっちが“前”だ』
庄司は俯き、小さな声で呟いた。
社会人生活も7年目。それは、人生で一番長かった筈の初等教育の6年間をも優に超えてしまう程の年月であった。
幼い頃には圧倒的な“成長”が心身ともに当たり前のようにあった。見るもの全てが輝いて見えたし、いつまでも走っていられると心の底から思っていた。
10代の頃には抑圧された不平不満がマグマのように渦巻いていた。自分自身どうする事も出来ないその熱は、それ故に膨大な力を秘めていた。それこそ、自分はこれから何者にでもなれるのだと、そう、心の底から信じていた。
成長は何よりも分かりやすい前進だった。
そして、あの頃にはいつも節目に卒業という終わりが用意され、その後には必ず入学という始まりが用意されていた。終わりと始まりは常に隣り合っていた。
だからこそ、庄司は自身が“前へ”と進んでいると何の労する事なく思う事ができた。
けれど、大人になったら“そう”ではなくなった。
最初は分からない事だらけでがむしゃらだった。それまでとはまるで違う大人の世界で、もがき苦しんだ。しかし、そのうち庄司も少しずつ大人になっていった。
否、大人に成ったのではない。
大人に慣れていったのだ。
しかし、その困難さ故、それでもまだ自分は“前へ”進んでいるのだと信じる事が出来た。
けれど、1年前。
営業成績で全国1位を取り、会社の表彰式に出席したあの日。殆ど見た事もなかった会社のトップに仰々しく賞状を渡された瞬間、庄司の中で何かがプツンと音を立てて切れた。
『あれ?俺って、もう』
終わり?
それは、まるで後に入学式が用意されていない卒業式のようだった。唐突に“終わり”だけを目の前に突きつけられ、かといって後には何も始まらない平坦な道が延々と続いている。
愕然とした。せざるを得なかった。
もう成長する事のない体と、膨大な力を生む事のない成熟した物分かりの良い心。
それでも、庄司は毎日一歩、また一歩と歩き続けていた筈だった。けれど、それもいつしか限界がきた。庄司は前へと歩みを続けていたつもりだったが、いつの間にか、どちらが前なのかすら分からなくなっていた。
『俺、どこに向かってるんだろうな』
“前へ、前へ”
その思考は、まるで呪いのように庄司を縛った。ずっと庄司の中にある正しさは、前へと進む事だったのに。けれど、そのせいで庄司は自身が緩やかな絶望の中へと追い込まれていくのを、分かっていても止める事ができずにいた。
ゆるやか過ぎて我慢出来ない程の苦痛を感じる訳ではない。だから強い意志で逃げる事も出来ない。
しかし、頭の片隅で警報が鳴る。
『このままじゃ、俺、ダメになる』
その警報に従い、庄司が最後の力を振り絞って出したのが、有休届だった。
前へ、前へという呪いを振り切るように。
庄司は駆け出さざるを得なかった。
決して前へ進む道ではない、無駄な脇道へと避難しなければ。
幼い頃のようにいつまでも走れるなんて欠片も思えない。
10代の頃のように何者にでもなれるんだと、不満をパワーに変える事もできない。
その時だった。
庄司はいつの間にか誰かと手を繋ぎ、走っていた。
息が上がる、呼吸が苦しい。止まらなければ。そう思うのに、庄司の手を握る相手の手が余りにも力強く離そうとしないものだから、止まるなんて選択肢はどこかへ消えていた。
決して前へ進んでいる訳ではない。目的もない、行く当てのない、その進む先はとんでもなく明後日の方向だった。
『は、はは』
前へ進む事を止めた途端、明日をも超えて明後日に飛んできてしまった。それが、おかしくておかしくて庄司は相手の手を強く握り返すと、思わず笑った。
すると、握り返された相手は驚いたような顔で庄司の方を振り返る。そして、目が合った瞬間、どこまでもまっすぐで優しい目をした彼がゆっくりと口を開いた。
『俺、庄司と居ると楽しいんだ』
『…………うん』
ぎこちなく放たれる、言い慣れていない不器用な言葉が、しかし、まっすぐと庄司に向けられる。人はこんなにもまっすぐ気持ちを伝えられるものなのか。その瞬間、庄司は何か熱いものが込み上げてくるのを感じた。
『俺、庄司と、また会いたいんだ』
『何言ってるんだよ……もう、会ってるじゃないか』
なあ、―――。
確かに庄司は相手の名を口にした筈だった。しかし、その瞬間。庄司は繋いでいた手が一瞬にして消え去るのを感じた。
離したくないと、反射的に伸ばした手が掴んだもの、それは―――
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「…………あ?」
庄司は覚醒した。
どうやら夢を見ていたようだった。
目を開けた先には、いつもの見慣れた自身の部屋。外はまだ薄暗い。今、何時だろう。
庄司はいつの間にか握りしめていた携帯で時間を確認すべく、その右手に力を入れた。その瞬間「っ痛」と、思わず庄司の表情が歪む。前日の封入封緘作業で痛めた手首に、鈍い痛みが走ったようだ。
庄司は痛む手首をもう片方の手で支えながら、パッと光を放つ携帯に一瞬目を眩ませた。すると、時間よりも先に目に入ったのは新着メッセージを知らせる点滅。反射的に躊躇いなくメッセージ画面へと飛ぶ。すると、そこに映し出された言葉に庄司は、思わず口元がニヤけるのを止められなかった。
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会いたい
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まるで夢の続きのような文面に堪らず庄司は左手で目元を覆った。あの若者はどうにも真っ直ぐすぎて、時に心臓に悪い。ただ、それを向けられるのが他でもない自分自身だという事に、庄司は途端に体の奥が熱くなるのを感じた。
「……恋人かよ」
ぎこちない真っ直ぐな言葉は、声ではなく文章で表現されるとまるで恋文のようではないか。庄司はフッと軽く笑うと、痛む手首の事などまるで忘れて返事を打った。それはもう、とびきり甘い、恋人同士のメッセージのような内容を。
真っ直ぐには、真っ直ぐで返さねば。
庄司はゆっくりと寝床から体を起こすと、今度こそ時間を確認し、洗面所へと向かった。
今日も、また戦場へと向かわねばならない。
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